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第61話:手のひらで踊る

 宝暦十二年(一七六二年) 仲夏 蝦夷地・宗谷奥のコタン

 

「これからどうする。まだとどまるのか?

 それとも、別のコタンに行くか?」


 俺の問いに、勘太は少しだけ考える素振りを見せたあと、肩をすくめた。


「いったん宗谷原に戻りますけど、その前に、ちょっと寄るところがあります。

 ついてきて下さい」


 そう言って歩き出す。


「……は?」


 説明もなく背を向ける勘太に、思わず声が漏れる。


「行けばわかるわよ。さっさと行きましょ」


 リラに背中を押され、俺は渋々その後を追った。


---


 たどり着いたのは、村のはずれにある小ぶりなチセだった。


「すみません、少しよろしいですか」


 庭の畑を手入れしていた女が顔を上げる。


 ――見覚えがあった。


 はっきりと思い出すよりも先に、胸の奥で何かが引っかかる。


「あなたですよね。隣のコタンに噂を流していたのは」


 その一言で、空気が変わった。


 女の手が止まる。

 わずかに震えた。


「違います。何のことですか。

 私は何も……」


 声が、かすかに上ずっている。


 俺は無意識に、周囲を見た。

 誰かが聞いていないか。

 この場がどう転ぶのか――読めない。

 

「嘘をつく必要はありませんよ。 」


 勘太の声は、やけに穏やかだった。


「昨日の宴を見ればわかったでしょう?

 仲違いする必要はなかったみたいですから」


「……」


 沈黙。


 逃げ道を探すように、女の視線が揺れる。


 その様子を、勘太はじっと観察していた。


 ――ああ。


 こいつ、楽しんでいる。


「一応、根拠を説明しておきますね」


 わざわざ丁寧に言う。


「見ちゃったんですよ。宴の後、あなたが隣のコタンの男と一緒にいるところ」


 女の呼吸が、わずかに乱れた。


「ずいぶん親しげでした。

 とても初対面の男女には見えなかった」


 一歩、間を置く。


「まるで――久しぶりに会った恋仲みたいでしたよ」


 そこで、チセの奥へと視線を向けた。


「そうじゃないですか。タペクさん」


 その名に、俺ははっとした。


 ――そうだ。この女は。


 宴の席で、タペクと消えた女だ。


 俺は息を詰めたまま、チセの入口を見つめる。


 ゆっくりと、影が動いた。


 そして、男が姿を現す。


 タペクだった。


 胸の奥で、何かが沈む。


「……まいったな。なぜわかった」


 苦笑するタペクに、勘太は軽く肩をすくめた。


「ふふ、試しただけです。

 いなくても俺が恥をかくだけでしたからね」


 そう言いながらも、視線はまったく揺れていない。


「でも、十中八九ここにいると思ってました」


「……」


「宗谷原の連中は今日には戻ると言っていました。

 なら、しばらく会えなくなる恋人と、少しでも長く過ごしたいと思うのが人情でしょう?」


 タペクが小さく息を吐く。


「……本当にお前というやつは。

 絶対、見た目通りの年齢じゃないだろう。化け物め」


「あはは。俺のことはどうでもいいんですよ」


 笑っている。

 だが、目が笑っていない。


「それより――どうです? 俺の推理は」


 沈黙が落ちる。


 短いはずなのに、やけに長く感じた。


 やがてタペクは、観念したように口を開いた。


「……彼女とは、たまたま宴で意気投合しただけだ」


「そんなありきたりな言い訳、信じるとでも?」


 勘太の声が、わずかに低くなる。


 逃げ道を塞ぐように。


「仲が悪いはずの隣のコタンで起きた出来事を、あなたは知っていた。

 顔を合わせれば揉める関係なら、互いの状況なんて知るはずがない。 」

 

 一歩、踏み込む。


「――誰かが伝えない限り」


 タペクは何も言わない。


 否定もしない。


 それだけで十分だった。


「あなたは恋人から助けを求められた。

 だが、自分では動けない。立場がありますからね」


 言葉が、静かに積み上がる。


「だから外から手を引き込んだ。

 ――俺たちを」


 その瞬間、胸の奥に引っかかりが生まれた。


 ……利用された?

 

「セタリさんに近づき、ここだけの話として宗谷奥の話を出す。

 オオカミの群れを一人で相手にするような人です。

 放っておくはずがない」


 俺は何も言えなかった。


 否定できない。


 確かに、俺は動いた。


 自分の意思で。


 だが――


「――そうして筋書き通りに事は進み、

 あなたは堂々と人手を連れて救援に来られた」


 そこまで言い切って、勘太は口を閉じた。


 ……俺なら、言い逃れは難しい。


 タペクは苦笑する。


「横で見ていたように言うな……。

 ……それで、俺たちをどうする? 長老に突き出すか?」


 女がタペクの袖をつかむ。


 空気が張り詰める。


 俺は無意識に息を止めた。


 ここで決まる。


 この場のすべてが。


「別にいいんじゃないの? 」


 リラの声が、空気を切った。


「仲違いしてたのは昔の話だって言ってたじゃない」


「それとは別だ」


 タペクは首を振る。


「隠れてやり取りしていたと知られれば、信用は傷つく。

 掟を守らない者という評判は、このコタンでは致命的だ」


 沈黙。


 そして――


 勘太が、笑った。


 あの顔だ。


 どこか愉快そうで、底の見えない笑み。


「突き出したりはしませんよ。

 ちょっとしたお願いを聞いてくれるなら」


 タペクと女――ルイカが、わずかに身構える。


「大したことじゃないです。

 情報を集めて、記録しておいてほしいんですよ」


「記録……?」


「ええ。いつ、何が起きたか。

 オオカミの襲来みたいな大きなことでもいいし、

 見慣れない人を見た、でもいい」


 淡々と続ける。


「しばらくしたら回収に来ます。それだけです」


「……それだけでいいのか?」


 タペクは眉をひそめる。


「食料や玉をよこせ、とは言わないのか。

 それが何になる?」


「まだわかりません。

 でも――悪いことにはなりませんよ。保証します」


「……そんな顔で言われても説得力がないが」


 小さく笑い、タペクは肩を落とした。


「どのみち断れん。そのくらいなら引き受けよう。

 ルイカもいいな」


「ええ。でも私、字は書けない」


「俺もだ」


「……」


 勘太が固まる。


 俺は思わずため息をついた。


「誰でも書けると思ってたのか。

 俺だって、お前に仕込まれてようやくなんだぞ」


「書くのは誰かに頼めばいいでしょ。

 コタンに一人くらいいるでしょ?」


「おお、それだ。リラ天才」


「……あんた、ほんと何なの」


「同感だ」


 呆れながらも、場の空気が少し緩む。


「……心当たりはある。そいつに頼む。

 俺も字を覚える。それでいいか?」


「ええ、もちろん」


「私もやります」


 ルイカもはっきりとうなずいた。


「もちろん、ただとは言いません。

 今はないので出世払いですけど」


「構わない。黙っていてくれるだけで十分だ」


 そう言って、タペクは短く笑った。


 勘太は頭を掻く。


「助かります。長老にも借りを作ったばかりで、余裕がなくて」


 その仕草は、ただの子どもにしか見えない。


 ――だが。


 さっきの顔を、俺は見ている。


「これで宗谷以外にも協力者ができましたね。

 偶然でしたけど――まあ、結果よければすべてよしです」


 晴れやかな顔で言い切る。


 本当に偶然なのか――

 

 宴の席でも、こいつは情報を拾っていた。


 俺はその時何をしていた?


 宗谷原を出るときの会話が頭をよぎる。


 今回の件、すべてこいつの手のひらの上だったのか?


 踊らされたのは俺だけか。


 考えれば考えるほど、底が見えない。


 怖い。


 だが――その底知れなさが、頼もしかった。


「じゃあ、そろそろ行きますか。

 借りを返しに行かないと……。


 セタリさんに鹿の数頭も狩ってもらって勘弁してもらおうと思ってましたが、

 この際、技術指導もしちゃおうかな。


 借りを返すっていう名分があれば、馴染みのない技術でも抵抗減るでしょ。


 読み書きもそうですけど、今のうちに普及させておいたら

 後々、情報の連携をするときに便利ですからね」


 こちらの思考などお構いなしに、勘太は軽く言った。


 鼻歌交じりに告げられる果てしない構想に背筋が伸びた。


---


 宗谷原に戻った俺たちは、宗谷でやったのと同じことを繰り返した。


 泥炭層から泥を運び、石を運び、溝を掘る。

 燻製小屋を建て、煙に巻かれながら、隙間を埋めていく。


 二度目ということもあり、手際は明らかに良くなっていた。


 だが、作業をしているのは――見知らぬコタンの者たちだ。


 重い荷を運び、汗を流し、煙に涙をにじませながら、笑い合う。


 宗谷のときと同じ光景。


 ――だが、違う。


 あのときよりも、自然に笑えている自分がいた。


 自分の中の異物が、少しずつ薄れていくような感覚。


 それからしばらく、燻製小屋で試作を重ねる日々が続いた。


 勘太が作り、リラが記録する。

 タペクは狩りに出ず、字を覚えながら記録の練習をしていた。


 俺はその分、若い衆と山に入る。


 鹿を狩り、ウサギを狩り、熊も仕留めた。

 大物が出れば、また宴になる。


 タペクが仲間の名前を書くことができるようになったころ。


 名前が書かれた板を満足げに眺めていた長老が、俺たちの顔を順番に見つめて言った。


「もう十分だ」


 その声は静かだったが、胸に響くような重みがあった。


「小屋は建ち、蓄えも増え、煙の使い方も、この地の若い衆に染み付いた。

 そして何より……」


 長老は、タペクが書いたばかりの板切れを指さした。


「俺たちの名が、石や木に刻まれ、時を越える術を教わった。

 これ以上は、もらいすぎだな」


 十分だ、と言われて、胸の中に不思議な風が吹き抜けた。

 

 俺たちがここで流した汗は、燻製肉の芳醇な香りと共に、

 このコタンの血肉となったのだという確信があった。


---


 初夏の柔らかな空気は、いつの間にか姿を変えていた。


 朝靄は薄れ、川面は早くから光を弾く。

 水かさはわずかに落ち、流れは澄み、底の石まではっきりと見える。

 水辺で遊ぶ子供の声が響く。


 気づけば、季節は進んでいる。


 夏の盛りが、すぐそこまで来ていた。

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明日は8時、18時、21時に投稿します。

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