第60話:丸と丸を繋ぐ
宝暦十二年(一七六二年) 初夏 蝦夷地・宗谷奥のコタン
その夜は、雨になりそうだった。
厚い雲が空を覆い、星が見えない。
風も湿っている。
俺たちは間借りしているチセで夕飯の準備をして、囲炉裏を囲んだ。
リラが干し肉を炙りながら言った。
「ねえ、勘太。
結局、勘太は何がしたいの?人助けとは違うんでしょ」
「ずいぶん急だね」
「だって、気になるし。
セタリは何かわかったような顔してるし、私だけ仲間外れはひどくない?」
勘太は火を見ていた。
しばらく黙っていた。
「……聞く?長い話になるけど」
「聞く」
リラが即答した。
俺も黙って頷いた。
勘太は火から目を上げ、二人を見た。
「じゃあ、話すか」
---
「今、アイヌのコタンはそれぞれ独立して生きてる。
隣のコタンとは交易をしているところもあるけど、基本的には別々だ」
「当たり前じゃないの」
「ああ。でも、その当たり前が弱点になってる」
リラが眉をひそめた。
「弱点?」
「和人は違う。
松前藩は各地に役人を置き、情報を集め、命令を伝える仕組みを持っている。
どこかで何かが起きれば、すぐに松前に伝わる。
松前が決めたことは、すぐに各地に伝わる」
俺は黙って聞いていた。
「アイヌはどうか。
あるコタンで役人が理不尽なことをしても、隣のコタンには伝わらない。
あるコタンで不作が起きても、豊作のコタンは知らない。
それぞれが別々に動いているから、全体として弱い」
リラが干し肉を炙る手を止めた。
「……それは確かにそうね」
「だから、繋げたい」
勘太は地面に枝で図を描き始めた。
丸がいくつか並ぶ。
それぞれの丸の間に、線が引かれていく。
「各コタンを結ぶ仕組みを作りたい。
情報を共有し、物資を融通し合う。
あるコタンで何かが起きれば、すぐに他のコタンに伝わる。
あるコタンに余りものがあれば、足りないコタンに届く」
「どうやって」
「人を動かすんだ。
定期的に各コタンを回る人を用意して。
物を運びながら、情報も運ぶ。
今、俺たちがやっていることは、その下調べってところかな」
俺は地面の図を眺めた。
丸と線が、網の目のように広がっている。
「それが、以前、お前の言っていた奪えない宝か」
「そうです。物は奪えても、仕組みは奪えない。
繋がりが生まれれば、交易が生まれる。
それが各コタンを大きくし、壊せない繋がりとなる」
リラが静かに言った。
「……和人に対抗するために、ということ?」
勘太は少し考えてから答えた。
「対抗というより、対等になるためかな。
情報と物資の流れを持てれば、和人の役人が何かしようとしても、すぐに各コタンに伝わる。
一つのコタンが単独で戦うより、はるかに強い。
それに、そのつながりに和人も取り込めば、アイヌだけを排斥するのは不可能になる」
薪がパチリと爆ぜた。
「……いつものことだけど、大きな話ね。
気が遠くなりそう」
リラが呆れたように言った。
俺もそう思う。
「そんなに簡単にいくものか。
争いは和人だけじゃない、同じアイヌ同士でも起こるんだ。
現にこのコタンだって隣のコタンと仲違いし続けていた。
今回はたまたま上手くいっただけだろう。
……家族でも、顔も見たくない相手が――」
感情が昂り、言うべきでないことを、口走りそうになる。
勘太の善性に、俺の醜い部分があぶりだされるようで、耐えられなかった。
三人とも、しばらく黙っていた。
囲炉裏の火が、ぱちりと小さく弾ける。
それだけが、やけに耳についた。
誰も顔を上げない。
何かを言うべきなのは分かっているのに、言葉が見つからなかった。
「勘太」
結局、俺が口を開いた。
「なんですか」
「それは、何年かかる」
「分かりません。俺が生きている間に完成するかも分からない」
「それでもやるのか」
「ええ」
迷いがなかった。
「なぜだ」
勘太は焚き火を見たまま言った。
「やらなければ、誰もやらないからです。
そして、今この時にやらなければ、手遅れになるかもしれないから」
俺は黙っていた。
手遅れ。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
勘太は未来を知っているのだろうか。
この大地がこの先どうなるかを。
(クナシリ、メナシ、ドウカ。
眉間にしわを寄せながら、時折漏らす謎の言葉。
お前は何を知ってる)
聞けなかった。
聞いても、答えは返ってこない気がした。
---
「私は何をすればいい」
リラが言った。
勘太が顔を上げた。
「リラは、記録をつけてほしい。
各コタンで何が起きているか。
どのコタンに何があって、何が足りないか。
どこで何が起きたか。
それを紙に書き留めていく」
「紙はまだない」
「木簡でいいよ。今は。
いつか紙ができたら、まとめ直せばいい」
リラは頷いた。
「分かった。やる」
「セタリさんは……」
少し間を置いてから言った。
「シャクシャインを超えてください」
……とんでもないことを言われた。
「……また無茶を言う、俺はただの猟師だ。
行く行くはシモンの後を継いで長老格になるかもしれんが……」
「そんなに待てませんね」
勘太は静かに笑った。
「だが......どうすればいい」
「まあ、簡単ではないでしょうけど。
出来ますよ。
言ったでしょう、『力をくれてやる』って。
今はその準備期間です」
「力か......」
自分が望んだのはコタンを脅かすあらゆる理不尽に負けない力だ。
確かにそんな力があればシャクシャインを超えられるかもしれない。
だが、自分にはその片鱗すら宿っているとは思えなかった。
単純な武力ではたどり着けないのだということを教えられたばかりなのだ。
俺は地面の図を見た。
丸と丸を繋ぐ線。
「……お前は、この大地全体を繋ごうとしているのか」
「ええ」
「一つの村だけが豊かでも、意味がない。
大地全体が生き延びることが大事……」
「そうです」
俺はしばらく黙っていた。
「……まだ、何をすればいいのか、どうすればいいのか、さっぱりだ。
だから、それがわかるまで、お前に付き合うことにする」
勘太は何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
---
雨が降り始めた。
雨粒が、屋根を叩く音が響く。
リラが木簡を取り出し、炭の欠片で何かを書き始めた。
「何を書いている」
「今日聞いたこと。忘れないうちに」
俺は横になり、天井を見た。
(……この大地全体を繋ぐ)
勘太の言葉が、頭の中で繰り返された。
俺には、そんな大きなことを考える頭はない。
弓を引いて、獲物を仕留めて、家族を守る。
それが俺のすることだと思っていた。
だが、あいつの言う通りなら、俺の力はそれだけではないのかもしれない。
存在するだけで場を変える、とあいつは言った。
(……大げさなことを言う)
雨の音が続いていた。
しばらくして、リラの木簡を走る音が止んだ。
勘太の寝息が聞こえてきた。
俺は、目を閉じた。
夢は見なかった。
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