第59話:やがて森となる――二つ目の丸――
宝暦十二年(一七六二年) 初夏 蝦夷地・宗谷奥のコタン
うねるような稜線をいくつか越えると、空気が変わった。
湿り気を帯びた風が頬を撫でた。
タペクが言っていた通り、川が近い。
水音が遠くから聞こえてくる。
さっきまで歩いていた原野の空気とは、明らかに違っていた。
「前のコタンと次のコタンは仲が悪いと聞いていましたが」
勘太が歩きながら言った。
「ああ。昔から折り合いが悪いそうだ。
理由は知らんが、昔もめたことがあるらしい」
「なるほど」
勘太は木簡に何かを書き付けた。
それだけだった。
俺は前を向いたまま言った。
「やめた方がいいぞ。
仲の悪いコタン同士の間に入るのは、火に油を注ぐだけだ」
……うちのコタンも、そうしてる」
「そうですね」
「分かっているのか」
「分かっています。
だから慎重にやります」
俺は溜息をついた。
こいつの「慎重」は、俺達の「慎重」とは意味が違う。
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宗谷奥のコタンに着くと、異様な空気が漂っていた。
宗谷原では婚礼の余韻があり、人々の顔が明るかった。
だがここは違う。
チセの前に立つ男たちの目は、警戒と疲弊が混じり合っている。
何より、男たちの多くが怪我をしていた。
腕を吊り、足を引きずり、顔に生々しい爪痕を刻んだ者が数名。
入り口で一人の男が立ち塞がった。
年は四十がらみ。
腕に巻かれた布には、血が滲んでいた。
「何の用だ。見ての通り、うちは今それどころじゃない」
「旅の者だ。
隣のコタンのタペクの紹介で立ち寄った。
……ひどい怪我だな。オオカミか?」
俺の問いに、男の顔が歪んだ。
「……ひと月前だ。
群れが来やがった。
子どもが一人連れて行かれ、俺たちもこの様だ」
男の言葉には、時間が経っても癒えない深い喪失感と、生活が立ち行かない焦燥が混じっていた。
勘太が一瞬だけ目を伏せた。
犠牲になった子供に、自分やリラの姿を重ねたのかもしれない。
だが、奴はすぐに「冷徹な救済者」の顔に戻った。
裾を引っ張り俺を促す。
「俺の連れのリラは、宗谷一の薬師の娘だ。
手当てを手伝わせてくれ」
男はしばらく勘太と、俺の腰のタシロを交互に見た。
「……妙なまねはするなよ。入れ」
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チセの中に踏み込むと、薬草の匂いと、逃げ場のない重苦しい沈黙が肌にまとわりついた。
炉の奥、揺れる炎の影に一人の老人が座っている。
このコタンの長だろう。
その眼光は鋭いが、深い絶望に濁っていた。
「……宗谷の、リラです。失礼します」
リラは短くそう告げると、挨拶が終わるのを待たずに膝をついた。
サラから叩き込まれた所作に迷いはない。
彼女の指先が怪我人の血に染まった布に触れた瞬間、
リラの顔から幼さが消え、一人の薬師の表情に変わった。
「ヌプㇰだ。和人の子どもが、この葬りの中に何の用だ」
「お見舞いに来ました。
オオカミに襲われたとのことで大変なのではと思い……」
ヌプㇰは無言で勘太を眺めていた。
その目は鋭く、何かを測るようだった。
「被害はあったが、もう去った。
あれから襲撃はない。
どこかへ引いた。
遠くの地でそちらの若いのが討ったのだろう?
見事なものだ。
……だが、我らには何の恵みもなかった」
勘太は、その絞り出すような言葉の重さを真っ向から受け止めるように、深く頷いた。
「……失ったものは、もう戻りません。
ですが、残された方々が飢えてしまえば、命を懸けて群れを押し止めた男たちの誇りも、
失われた幼い命の記憶も、この地に根を張ることができなくなります」
勘太は少し間を置き、怪我で伏した猟師たちと、空になりかけているチセの隅の籠へ視線を向けた。
少し間を置いて、勘太が口を開いた。
「ところで、隣のコタンとは、どうして折り合いが悪いんですか?」
ヌプㇰは視線を逸らした。
「……分からん」
「分からない?」
「ああ。ただ、昔からそういうことになっている。
昔、もめたことがあるから関わるな、とな」
それだけだった。
「……そうですか」
勘太は小さく頷き、少しだけ目を伏せた。
「用事を思い出しましたので、今日はこれで失礼します。
さあ、行こう、二人とも」
あまりに唐突な切り上げ方だった。
俺とリラは顔を見合わせたが、勘太はすでに村の出口へと歩き出していた。
村の外れまで戻ったところで、俺は勘太を呼び止めた。
「おい、勘太。周辺の調査をするんじゃないのか。
森の様子や川の状態も、まだ何も見ていないぞ」
「調査は後回しです。
それより先に、あの村の空気をどうにかするのが先決です」
勘太は振り返り、真剣な目で俺を見た。
「あんなに魂が抜けたような顔をした人たちと、対等な商いはできません。
まずは彼らに、生きる気力を取り戻してもらう必要があります」
俺たちはそのまま稜線を越え、昨日発ったばかりの宗谷原へと引き返した。
あちら側の、あの重苦しい沈黙を振り払うために。
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宗谷原に戻ると、入り口の辺りに香ばしい匂いが漂っていた。
「あ、この匂い……!」
リラが声を弾ませる。
村の中では、女たちが大きな鍋を囲んでいた。
昨日、勘太が教えた「カニ粉末」の試作をしているのだろう。
「お、セタリに勘太、リラじゃないか。どうした、忘れ物か?」
トゥレクが温かい汁の入った碗を差し出しながら、野太い声で笑った。
勘太はその汁を一口啜ると、居住まいを正して村の長老に向き合った。
「長老、お願いがあります。
実は、稜線を超えた先にある村がオオカミに襲われ、惨状にあります」
勘太は、あちらで見た光景を静かに伝えた。
失われた命、動けない猟師たち、そして空になりかけた食料籠。
「この汁と、蓄えの一部を、あちらの人たちに分けてあげてもらえませんか?
厚かましいとは思いますが、お願いします。
代価は必ず用意しますので」
俺は息を呑んだ。
隣り合う村同士、理由も分からぬ因縁で長年いがみ合ってきた相手だ。
だが、長老は勘太の肩を叩き、力強く頷いた。
「顔を上げろ、和人の子よ。……『木は一本では森にならない』、お前が昨日そう言ったな」
ひげを撫でつけながら、勘太の言葉を噛みしめるように目を細めた。
「和人に世の道理を教わるとは思わなかったが、仲間が困っているなら助けるのが人の道だ。
和人のお前がアイヌのコタンを助けたいというのに、
同じアイヌの我らが手を貸さんわけにはいかんだろう。
幸い、向こうも、いさかいの理由なぞ、覚えておらんようだしな」
カカ、と快活に笑い、周りの男たちに物資の準備を命じた。
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翌日、俺たちは宗谷原の男たちと共に、物資を担いで再び山を越えた。
山の向こうの村に着くと、突然の訪問者と食料の山に、ヌプクたちは驚きに目を見開いた。
だが、村の中央で火が焚かれ、温かい汁が配られると、凍りついていた彼らの表情が緩んでいった。
その夜、小さな、ささやかな弔いの宴が催された。
隣り合う村が手を取り合ったことを祝う、静かな集まりだった。
最初に訪れた時の、あの刺すような殺気と絶望は、もうどこにもなかった。
「……これもお前の計算のうちか?」
宴の端で、俺は勘太に尋ねた。
勘太は焚き火の火を見つめたまま、鼻で笑った。
「違いますよ。これは、その、なんというか……成り行きです。
放っておけないじゃないですか。
あんな顔されたら。
まあ、でも、せっかくなんで、いずれ『利用』させてもらいますけどね!」
俺から目を逸らし、照れ隠しのように早口でまくしたてる。
「そのためにも、まずは元気を取り戻して仲良くしてもらわないと。
働く意欲に欠けた村なんて、俺の描く地図にないですからね」
相変わらず冷酷な計算を口にするが、その結果として、
目の前には「平和」な光景が広がっていた。
「何をしけた面してる、セタリ!」
背後から、ガシリと肩を抱かれた。タペクだ。
「さあ、皆にお前の武勇伝を聞かせてやれ。
この村を蹂躙したあの群れを、お前がどうやって仕留めたのかをな!」
タペクに引きずり出され、俺はヌプㇰたちの期待に満ちた視線に晒された。
隣ではリラが薬師の老人と熱心に「記録」を取り合っている。
そして勘太は、そんな俺たちを満足そうに眺めながら、また木簡に何かを書き込んでいた。
俺は覚悟を決める。
シモンが子供のころに語ってくれた話を手繰り寄せながら、
オオカミの群れを仕留めたときのことを語り始めた。
十を超えていた、と数を口にしたとき、場の空気がわずかに揺れた。
こちらでは、その半分ほどしか見られなかったらしい。
酔った男に「証を見せろ」と絡まれたが、
アトゥシをはだけ、背中と腹に残る傷跡を晒すと、すぐに黙った。
肩に残る縫合の痕には、ひときわ強い驚きが走った。
ヌプㇰは神妙な面持ちで言った。
それだけの数を相手に、生きて戻るとは――真の勇者だ、と。
背中がこそばゆくなる。
だが、悪い気はしなかった。
酒を飲み、
干し肉を喰らい、
言葉を交わす。
タペクは、いつの間にか女とどこかへ消えていた。
そんな風には見えなかったのに……少し、意外だった。
勘太は酔いつぶれ、
リラは黒板を抱えたまま、舟を漕いでいる。
知らない場所のはずなのに、
どこか懐かしい。
宴の夜は、静かに更けていく。
川の音は、昨日よりもずっと穏やかに響いていた。
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