第58話:一本の木――一つ目の丸――
宝暦十二年(一七六二年) 初夏 蝦夷地・宗谷原コタン
宗谷原のコタンに着いたのは、昼過ぎだった。
入り口に差し掛かると、子どもたちが一斉にこちらを見た。
知らない顔が三人。
しかも一人は和人だ。
「セタリさん、前に出てください」
勘太が小声で言った。
「なぜだ」
「俺たちより、セタリさんが挨拶した方が受け入れられやすいです。」
俺は黙って前に出た。
子どもたちに向かって、アイヌの言葉で声をかけた。
「俺はセタリ。宗谷のシモンの甥だ。
婚礼の祝いに来た。
こちらはリラと、勘太だ」
子どもたちがざわめいた。
一人が駆け出し、チセの中へ消えていった。
しばらくして、恰幅のいい男が出てきた。
俺の顔を見て、目を細めた。
「セタリか。シモンの甥だな。
トゥレㇰだ。よく来た」
「世話になる」
男は勘太に視線を移した。
「こっちが例の和人か」
「はい。勘太といいます。トゥレㇰさん、婚礼、おめでとうございます」
男はしばらく勘太を見ていた。 それから短く笑った。
「ありがとう。まあ、入れ」
---
歓迎の宴は夜から始まった。
コタン中の人間が集まり、炉を囲んで酒を飲んだ。
歌声が上がり、誰かが踊り始めた。
俺は端の方に座り、酒を受け取った。
勘太はトゥレㇰの父親の隣に座り、何か話し込んでいた。
表情は柔らかく、時折笑いを引き出している。
御用聞きの時と同じ顔だ。
リラは反対側で、婚礼の花嫁と話していた。
花嫁は初対面のリラに少し緊張していたが、今は笑っている。
その笑い声が、こちらまで聞こえてきた。
「その衣装、すごくきれい。
私もそういうの着てみたい」
リラが花嫁の婚礼衣装を見て、目を輝かせていた。
花嫁がリラを見て、にやりと笑った。
「着てみる? ちょうどいい相手もいるじゃない。
あの和人の子、あなたのお相手?」
リラの顔が、一瞬で赤くなった。
「そんなんじゃないわよ!」
「ふーん。じゃあなんでそんなに赤いの」
「赤くない! 暑いだけ!」
花嫁がくすくすと笑った。
俺は前を向いたまま、酒を一口飲んだ。
(……ご苦労なことだ)
「お前がセタリか」
横から声がした。
振り返ると、俺と同じくらいの年の男が座っていた。
肩幅が広く、腕が太い。 猟師の体だ。
「そうだ」
「シモンの甥だと聞いた。腕が立つだろうな」
「さあな」
男は鼻で笑った。
「謙遜するな。
隣のコタンまで、オオカミの群れを一人で仕留めた話は届いてるぞ」
そんな話がここまで伝わっていたとは思わなかった。
「大したことじゃない」
「大したことじゃない、か。俺はタペクだ。よろしく頼む」
そう言うと酒を差し出してきた。
俺は受け取り、一口飲んだ。
「ああ」
---
宴が深まるにつれ、タペクは饒舌になった。
この辺りの原野の話。
最近の獲物の動き。
去年の冬がどれほど厳しかったか。
俺は黙って聞いていた。
「この辺りは鹿が多いか」
「春は多い。
夏になると稜線の奥へ移動する。
お前のところはどうだ」
「宗谷も同じだな。夏になると少し減る」
しばらく黙ってから、少し声を落とした。
「……こういう席でするような話じゃないんだが」
「なんだ」
「少し前、ここもオオカミに襲われたんだ。」
タペクは一度、酒を口に運んだ。
「まあ、追い払ってやったんだがな」
「さすがだな、見たところ怪我人も出てないようだし」
「まあな。婚礼の関係で人が集まってたからな。運がよかった。
じゃないと婚礼どころじゃなくなるところだった。」
「そうだな」
タペクは酒をぐいと飲み干すと続けた。
「稜線をいくつか超えた先にコタンがあるんだが……そちらも、襲われたらしくてな。
詳しくは分からんが、何人かやられて、けが人も出たとか……。」
俺は酒を持つ手を止めた。
「……そうか」
「お前がいれば、助かったかもしれないな」
その表情には痛ましさがにじんで見えた。
責めているわけではない。
ただ、事実として言っていた。
俺は何も言えなかった。
助かったかもしれない。
助からなかったかもしれない。
どちらも分からない。
だが、何とも言えない重さが、胸の奥に沈んでいった。
「……様子を見てこよう」
「ああ。頼む」
俺から視線をそらし、静かに頷いた。
---
翌朝、勘太が動き始めた。
「カニ粉末の作り方を教えさせてください」
トゥレㇰの父親に向かって言った。
「昨夜の宴で少し使わせていただきました。
皆さんに喜んでいただけたようなので、作り方をお伝えしたいと思います」
男は昨夜の料理を思い出したのか、目を細めた。
「あの味か。……教えてもらえるのか」
「もちろんです。
なので、この辺りで網にかかって捨てているカニがあれば、見せてください」
「わかった、案内しよう」
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川辺では、にカニが打ち捨てられているのが見えた。
宗谷のものとは種類が違うが、大きさは十分だ。
勘太はしゃがみ込み、カニの殻を丁寧に確認した。
「使えます」
「本当か」
「ええ。カニの殻はどれも大体同じです。
出汁も取れますし、粉末にもできます。
死んでいるものは殻だけ使って、
身は燃やして細かくすれば畑の肥料になります。
捨てるところがありません」
打ち捨てられたカニを眺めた。
誰も見向きもしていなかったものだ。
勘太は立ち上がり、持ってきた道具を広げた。
「では、始めましょう」
作業が始まると、人が集まってきた。
最初は遠巻きに見ていた女衆が、気づけば輪の中に入っていた。
子どもたちが勘太の手元を覗き込んでいる。
リラはその中で、現地の薬師の老人と話し込んでいた。
黒板にしきりに何かを書き込みながら熱弁している。
二人とも目が輝いている。
タペクが俺の隣に来た。
「昨日とは別人みたいだな、あの二人」
「ああ」
「お前は二人の護衛か」
「そうかもな。年長のものとしてやるべきことをやってるだけだが」
「……なるほど」
---
昼過ぎ、カニ粉末の指導が一通り終わった。
トゥレㇰの父親が、勘太に向かって言った。
「よくわかった。これなら俺たちでも作れる」
「材料はどこの川や浜でも手に入ります。
作り方さえ覚えれば、どのコタンでも使えます」
「勘太、お前は、なぜこれをタダで教える」
勘太は少し考えてから答えた。
「一つのコタンだけが豊かでも、意味がないからです
木と同じですよ、一本だけ大きくても、森にはならないでしょう。」
男はしばらく黙っていた。
「……深いことを言うな、子どもの癖に」
「よく言われます」
そこにリラが割り込んできた。
「勘太って、いつもそういう話をするの。
ちょっとしたことを聞いただけなのに、すごく大きな話にして返してくるのよ
変な子でしょ?」
「はは、まいったな……。」
勘太は恥ずかしいところを見られたと苦笑した。
男は笑った。
周りにいた人間も笑った。
俺も、気づいたら笑っていた。
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コタンを発つ前に、タペクが近づいてきた。
「気をつけてな」
「ああ」
「またどこかで会えるといいな、セタリ」
「ああ」
短い返事だったが、満足そうに笑った。
三人で歩き始めると、リラが小声で言った。
「ねえセタリ、あのタペクって人、あなたのこと気に入ってたわね」
「そうか」
「そうよ。ずっと隣にいたじゃない」
「悪い男じゃなかった」
リラがくすりと笑った。
勘太が前を向いたまま歩きながら言った。
「いい友達になるかもしれませんね。……長い付き合いになりそうです」
会話しながらも手元では木簡に何かを書き付けていた。
「次のコタンまでは稜線をいくつか越えるんでしたね。
……オオカミとか出ないといいんですが」
「……ああ、油断せず行こう」
俺は前を向いたまま答えた。
胸の奥には、まだあの言葉が残っていた。
お前がいれば、助かったかもしれない。
それが何を意味するのか、まだ分からなかった。
だが、足は自然と速くなっていた。
初夏の風が、草を揺らして通り過ぎた。
三人の足取りは、来た時より軽く、そしてわずかに急いでいた。
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