閑話:記す者
宝暦十二年(一七六二年) 初夏 蝦夷地・道中
消えた。
また、消えてしまった。
私は膝の上に乗せた黒板をじっと見つめ、文字の残骸が残る表面を濡れた布で拭った。
夜営の焚き火が橙色の光を揺らし、セタリの寝顔をぼんやりと照らしている。
彼はさっきから、地響きのような寝息を立てていた。
向かい側では、勘太が相変わらずの無表情で、木簡に何かを書き続けている。
「ねえ、勘太」
「なに」
視線を落としたまま、あいつが短く応える。
「黒板って、消えるじゃない」
「消えるね」
「書き直せるのは便利だけど……でも、消したくないものまで消えちゃうのは困るわ」
私は、さっきまで黒板に書かれていた複雑な計算式を思い出した。
勘太から教わった、物の重さや薬草の配合を導き出すための『理』の形。
それは指で擦れば消え、持ち運ぶうちに薄れ、最後には真っ黒な板に戻ってしまう。
消えるたびに、私の頭の中からあいつの知恵が零れ落ちていくようで、それがたまらなく不安だった。
「何を残したいの」
勘太がようやく顔を上げた。
焚き火の爆ぜる音が、私たちの間に流れる沈黙を埋める。
「今日の計算。それに、フチ(おばあさん)から教わった薬草の配合。
覚えきれないことが多すぎるのよ。
木簡は重くてかさばるし、紙みたいに薄くて、ずっと残るものがあればいいのに」
「紙を使えばいいんじゃない」
「無理よ。和人の町でも、そう簡単に買えるものじゃないでしょ」
すると、勘太の目が少しだけいたずらっぽく光った。
「作れるよ」
「……は?」
「材料さえあれば、俺たちで作れるよ」
私はあいつの顔をまじまじと見つめた。
そんなこと、聞いたこともない。
「植物の繊維を使うんだ。
この辺りに自生しているイラクサなら、繊維が強くて丈夫だから代用できるはずだよ」
「イラクサって、私たちの衣服に使う、あの?」
「そう。この旅の間、行く先々で良質な繊維が取れる植物を探そう。
リラ、それが君の『宿題』だ」
私は黒板の端に、白い棒で『紙』という文字を小さく書いた。
消える前に、この約束だけは刻んでおきたかった。
「ねえ、紙が作れたら、何ができるようになるの?」
「記録が残せる。
記録が残せれば知識が伝わり、遠くの人間と情報を共有できる。
今は人が直接会わないと伝わらないことが、紙があれば時間も距離も超えられるんだ」
勘太の口から出るのは、いつもそうだ。
目の前の一枚の板の話をしていたはずなのに、
気づけば世界の果てを見据えるような、大きな話になっている。
「……勘太って、いつもそういう話をするわね」
「そういう話、というのは」
「目の前のことを話してるのに、気づいたらすごく大きな話になってる」
勘太は少し笑った。
「癖なんだ」
「悪い癖ね」
「……大目に見てよ」
あいつは少しだけ困ったように笑い、また木簡に目を戻した。
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私は黒板を抱えたまま、ぼんやりと空を見上げた。
木々の隙間から見える星は、宗谷で見るものと同じはずなのに、
なぜか遠くへ来たのだと実感させられる。
朝にコタンを出て、知らない丘を越え、知らない川の音を聞いた。
セタリは「知らん」なんて素っ気なく言っていたけれど、
本当はあいつも楽しんでいるはずだ。
地図の話をしたとき、あいつも笑ってたんだから。
「ねえ、勘太。私、この旅に来て良かった」
「まだ始まったばかりだよ」
「分かってる。だから、楽しみなのよ」
今日覚えた知識が、いつか自分の手で作った紙に記される日を想像する。
頭の中にある膨大な薬草の知恵が、誰にも消せない形で残されて、
他のコタンの薬師たちにも伝わっていく。
それは、この大地そのものを変えてしまうような、途方もない秘術のように思えた。
「勘太」
「なに」
「紙ができたら、私が最初の記録をつける。
私が『理』を使って、この大地の薬草を全部書き留めてみせるわ。
知識が、その人だけで終わらないように」
「リラ、それはとても大事なことだ」
勘太の声が、少しだけ真剣になった。
あいつの目はいつも、七歳の子供には到底見えないはずの、遠い未来を映している。
「勘太って、本当は何者なの?」
「ただの子どもだよ」
「嘘ばっかり」
私たちは同時に笑った。
焚き火の熱が心地よく、川の音が穏やかに耳を打つ。
紙を作る。
知識を、形にする。
やることが、また増えてしまった。
「セタリ、交代よ」
肩を揺らして起こすと、びくっとして飛び起きた。
辺りをきょろきょろと見回すセタリが面白かった。
「あ、ああ、大丈夫。もう目覚めた」
「じゃあ、私は寝るから、おやすみ」
私は黒板をそっと草の上に置き、目を閉じた。
初めての旅の夜。
でも、不思議と怖くはなかった。
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