第57話:押しかけ同行者
宝暦十二年(一七六二年) 初夏 蝦夷地・宗谷コタン
朝からエゾハルゼミの、少し物悲しくも高い鳴き声が丘に響いていた。
宗谷の夏は短い。
流氷が去り、大地がようやく緑に覆われたかと思えば、あっという間に秋の気配が忍び寄る。
だからこそ、この季節の光は他の季節より鋭く、青く、眩しい。
チセの外では、燻製小屋から白い煙が細く上がっていた。
床暖房の工事が終わってから十日ほど経つ。
コタンの男衆はすっかり作業に慣れ、今では勘太がいなくても回るようになっていた。
「準備はいいか」
セタリが荷を背負いながら言うと、勘太は涼しい顔で頷いた。
「ええ。道具一式。それから各コタンへの土産も」
「重くないか」
「重いです」
「……そうか」
俺は自分の荷に勘太の荷を半分移した。
勘太は一瞬だけ目を見開いたが、何も言わなかった。
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出発の前に、エカシとシモンに挨拶をした。
「夏の終わりまでには戻ります」
俺が言うと、エカシは静かに頷いた。
「急がなくていい。向こうで世話になったら、きちんと礼をしろ」
シモンが腕を組んで続けた。
「食い物の心配はいらん。
勘太が来てから、蓄えが増えた。
しばらくは大丈夫だ。こちらは気にせず行ってこい」
数か月前、勘太がこのコタンに来た時、冬越えの心配をしていたのがつい昨日のことのようだ。
それが今では「しばらくは大丈夫」と言える。
(……あいつは確かに、ここを変えた)
勘太は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。お土産いっぱい持って帰りますね」
「無理はするなよ。楽しんでこい」
シモンの言葉に、勘太は少し笑った。
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「待って」
チセの方から声がした。
振り返ると、リラが大きな籠を背負って立っていた。
その手には、薬草を束ねた荷と、小さな皮袋がいくつも下がっている。
「……どこに行く気だ」
俺が問うと、リラは当然のような顔をした。
「一緒に行くわ」
「駄目だ。危ない」
「どこが危ないの。熊も狼も、もういないでしょう」
俺は言葉に詰まった。
「お前はシャーマンの修業がある、それに薬師の仕事もあるだろう」
「修業なら向こうのコタンでもできるわ。
生まれてから一度も他所のコタンに行ったことがないのよ。
それに、勘太が面白いことをするんでしょう。
私も混ざりたい」
リラはそれだけ言って、俺の隣に並んだ。
もう決まったことだという顔をしていた。
俺は勘太を見た。
勘太は少し考えてから言った。
「来てもらえると助かります。
薬師が一人いた方が心強い。
旅先でリラの腕が役に立つ場面がきっとあるはずです」
「……お前まで」
俺は溜息をついた。
サラが戸口から顔を出した。
娘を止めるかと思ったが、サラはただ言った。
「気を付けてね。無茶をするんじゃないよ」
リラに言っているのか、俺に言っているのか、分からなかった。
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三人で歩き始めると、リラはすぐに口を開いた。
「ねえ、勘太、最初はどこに行くの」
「まず、南にあるリラの親戚のコタンだね。
婚礼の祝いを届けて、カニ粉末の作り方を教える。
以前、親戚の方が興味を持っていただろ」
「ああ、あの時の親戚の人たちのところね」
リラが頷いた。
あの親戚の男の顔を思い出した。
カニ粉末を一口食べて目を見開き、「次の交易の集まりで伝える」と言い残して去っていった。
「後は、そこから近いコタンをいくつか回る。
行く先々で、その地で多くとれるもの、足りてないものを聞いて回りたい。」
「御用聞きみたいね」
リラが楽しそうに言った。
「そうだね。コタンをめぐる御用聞きの旅だ」
勘太は涼しい顔で答えた。
だが、その目は笑っていなかった。
(……嘘ではないだろうが、それだけじゃない......か)
俺は前を向いたまま、二人の会話を聞いていた。
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道は丘を越え、宗谷川の沿道へと続いていた。
リラは歩きながら、あちこちに目を向けていた。
薬草を見つけるたびに立ち止まり、摘んで皮袋に入れる。
その手際は、宗谷の丘を歩く時よりも生き生きとしていた。
「ねえセタリ、あの山、どう呼ばれているの?」
「知らん」
「知らないの?」
「あそこまで獲物を追いかけたことも、あそこで火を焚いたこともない。
行ったことがない山は、行ったことがない山だ」
セタリの言葉は、突き放しているようでいて、どこか山への敬意が混じっていた。
リラは少し考えてから、今度は隣を歩く勘太を見た。
「勘太は? やっぱり、行ったことがない山は知らない?」
「……俺もセタリさんと同じかな。
でも、俺の地図にはあそこも描いてるよ」
「地図を描いてるの?」
「ああ。行く先々で情報を集めて、少しずつ足してる。
いつかこの大地全部を描きたいと思って」
リラは目を丸くした。
「この大地全部? ……ほんと、どうかしてるわ」
勘太は笑い、俺も少しだけ口元を緩めた。
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昼過ぎ、川の浅瀬で休んだ。
リラが水を汲み、勘太が干し肉を取り出した。
俺は周囲の警戒をしながら荷を整える。
三人並んで、穏やかに流れる宗谷川を眺めながら干し肉を噛んだ。
「勘太」
リラが不意に言った。
「カニ粉末の作り方を教えるって言ってたけど、教えちゃっていいの。
秘密にしておいた方が価値があるんじゃないの」
勘太は干し肉を噛みながら少し考えた。
「秘密にして独り占めするのと、広めて仲間を増やすのと、どちらが得か、という話だね」
「そう」
「俺は後者だと思う。
カニ粉末の作り方を知っているコタンが増えれば、
それを使った料理が広まり、その価値を知る人間が増える。
価値を知る人間が増えれば、さらに広まる。
一つのコタンが独占しても、買い手は限られる。
だが、各コタンが作れるようになれば、それぞれが売り手にも買い手にもなれる」
リラはしばらく黙っていた。
「……難しいけど、なんとなく分かる気がする」
「あとは……そうだな、恩を売っておけば、あとでお返しがもらえるかもしれないだろ?
人は誰かに何かをもらったら、何かしてあげなきゃって気になるものだからね」
「……なんか、悪どいわね」
「ははっ、そうだね。俺は悪党だよ。
でも俺はましな方だと思うよ。
ちゃんと約束は守るし、ねえ、セタリさん」
勘太が俺を見た。
「どうだかな、俺はお前を完全に信じてるわけじゃないぞ」
勘太は小さく笑った。
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「……今日はこの辺りで野営だ。
俺は先に寝させてもらう、何かあったら起こしてくれ
火は絶やすなよ」
セタリは短くそう告げると、手際よく周囲の枯れ枝を集めて火床を整え、
大きなミズナラの根元に腰を下ろした。
自分の荷に加え、勘太の荷物まで半分肩代わりして歩き通したその背中には、
隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
勘太は「わかりました」と静かに応じ、焚き火の向かい側で木簡を広げた。
一方のリラは、初めての野外での夜に少し落ち着かない様子で、
膝の上に黒板を置き、今日摘んだばかりの薬草の袋を何度も整理していた。
宗谷のコタンを出発して、わずか数里。
だが、実際にはその何倍も遠くに来たかのようだった。
聞こえてくるのは、知らない森が風にざわめく音と、
どこか遠くで流れる宗谷川の穏やかな水音だけ。
セタリがアトゥシを深く被り直し、やがて地響きのような穏やかな寝息を立て始めると、
焚き火の爆ぜる音だけが周囲を支配した。
「……ねえ、勘太」
リラが、橙色の光に照らされた横顔で、静かに隣の少年に声をかけた。
その瞳には、故郷を離れた不安よりも、これから始まる未知への期待が強く宿っているように見えた。
勘太は木簡に筆を走らせる手を止め、焚き火越しに彼女を見つめた。
「なに」
夜の帳が、ゆっくりと原生林を包み込んでいく。
三人の長い旅は、まだ始まったばかりだった。
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