第56話:チセ改造計画
宝暦十二年(一七六二年) 晩春 蝦夷地・宗谷コタン
チセの修繕は、翌朝から始まった。
熊に壊された壁の一角は、板を組み直せば済む話だ。
だが、勘太はそこで止まらなかった。
「せっかくなので、増設しましょう」
朝飯のオハウを啜りながら、当然のように言い放った。
「増設?」
シモンが眉をひそめる。
「床暖房と、燻製小屋です。
宗谷の作業小屋で試したものですが、冬の寒さが段違いになります。
それに、燻製小屋があれば鹿肉の保存も楽になる」
「燃料はどうする。薪を余分に使うのは困る」
「泥炭を使います。燃焼効率が高く、長持ちするので。
故郷の村でも使ってたので、扱いは心得てます。
以前、オオカミから逃げるときに見かけました。
セタリさん、覚えてますよね」
俺は少し考えた。
「……ある。足跡があったあたりだな。
森の少し手前、湿地が広がっている場所だ」
勘太がうんうんとうなずく。
「場所も問題ないようですので、集めに行きましょう」
勘太は碗を置き、すでに頭の中で設計図を描いているような目をしていた。
エカシがしばらく黙って勘太を見ていた。 それから静かに頷いた。
「そうだな、やってみるか」
---
午前中から、コタン総出の作業になった。
男衆が壁の修繕を進める傍らで、勘太は地面に棒で図を描きながら、
床下の煙道の構造を説明していた。
最初は半信半疑だった男たちも、勘太が一つ一つ理を説くうちに、黙って手を動かし始めた。
「セタリさん、『課外授業』です」
勘太が振り返り、俺を呼んだ。
「『課外授業』?」
「土を運んでください。あの丘の斜面の粘土質の土です。 『パテ』の材料になります」
俺は少し鼻白んだ。
猟師に土運びをさせるか。
だが、やることがないのも事実だった。
俺は黙って桶を手に取り、丘へ向かった。
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重かった。
粘土質の土は水分を含んでいて、桶一杯で相当な重さになる。
それを何度も往復した。
だが、悪くなかった。
肩から背中、腰にかけて、普段の弓や槍の修練では使わない筋肉が動いている。
体の奥底から熱が湧き上がり、汗が滲む。
(……久しぶりだな、この感覚)
知らず知らず、口元が緩んでいた。
「まだ余裕がありそうですね、セタリさん」
振り返ると、勘太が涼しい顔で立っていた。
「次は石を運んでください。
火床に使います。
できれば平らなものを選んで、一抱えくらいの大きさで」
「……わかった」
俺はまた丘へ向かった。
足元の土は乾いており、ところどころに石が顔を出している。
手頃なものを見繕い、腰を落として両腕で抱え上げた。
石は土より重かった。
腕にずしりと沈み、重さが骨に食い込む。
それでも、膝が砕けるような重みではない。
息を整え、足場を確かめながら、一歩ずつ運ぶ。
足を滑らせれば終わりだ。
無理に急がず、確実に下る。
所定の場所へ置くと、ようやく腕の力を抜いた。
掌に残る鈍い震えを振り払い、すぐに踵を返す。
三往復目が終わった頃には、肩と腕にじわりと疲労が溜まっていた。
一息ついていると、勘太がまた声をかけてきた。
「次は溝堀りです。地面に引いた線の通り掘って下さい。
手の先からひじのあたりまでの深さでお願いします。」
「……お前、わざとやっているだろう」
「『課外授業』ですから」
勘太は笑っていた。
悪びれる様子が一切ない。
まあ、いい。
やってやろうじゃないか。
俺はアトゥシを脱ぎ捨て、上半身をはだける。
掘り棒を線の上に据え、息を整えて突き込んだ。
硬い土は一度では割れず、手首に鈍い衝撃が返る。
位置を少しずらし、もう一度。
今度はわずかに沈み、捻るとひびが走った。
柄を倒すと土が浮き、塊が崩れる。
突いて、捻って、起こす――単純だが、確実に溝が深くなる。
肩に熱がたまり、息が荒くなる。
それでも手は止めない。
線に沿って、ただ掘り進める。
熱く火照った身体に、まだ冷たい風が心地よかった。
---
日が中天を過ぎた頃、チセの裏手から祈りの声が聞こえてきた。
低く、静かな、リラの声だ。
俺は流木を担いだまま、足を止めた。
チセの裏に、祖母とリラが向かい合って座っていた。
二人の前には、熊の毛皮と、白く削ったイナウが並んでいる。
熊のカムイを、その国へ送り返す儀式だ。
リラの口から出るのは、普段の彼女とは全く違う言葉だった。
低く、滑らかで、まるで水が岩を伝うような祈りの言葉。
風がその声を運び、木々の間へと消えていく。
(アイヌの魂送り……文化的には興味深い儀式だ。
熊をウェンカムイと定義しながらも、その魂を丁寧に送るという二重構造は——)
風がリラの黒髪を揺らした。
祈りの言葉を紡ぐリラの横顔が、夕暮れ前の柔らかな光の中にあった。
いつもの快活さが消え、静かな、凛とした何かをまとっている。
俺は流木を担いだまま、動けなかった。
隣に来た気配があった。
勘太だった。
珍しく、何も言わなかった。
その横顔が、いつもより少しだけ赤かった。
二人並んで、しばらく儀式を見ていた。
やがて、リラが最後の言葉を紡ぎ、深く頭を下げた。 祖母が静かに頷く。
沈黙が、コタンを包んだ。
「さあ、終わったわ」
リラが立ち上がった瞬間、声が元に戻った。
「勘太、熊の素材をはぐわよ。手伝いなさい」
野草でも摘むかのような気軽さで、リラが勘太の腕を引いた。
儀式のときの神秘的な雰囲気は霧散していた。
「……あ、ああ、わかった」
勘太の返事には、落胆の色がにじんでいた。
リラに引きずられながら、ぼそりと呟くのが聞こえた。
「……俺のどきどきを返せ」
俺は笑いをこらえながら、石を積み直す作業に戻った。
---
夕暮れ時、床下の煙道が一通り完成した。
最初の火入れは、盛大に煙が漏れた。
吹き出した煙に、男衆が激しく咳き込み、
鼻と口を覆いながら外へ逃げ出す、俺も勘太を抱えて外へ飛び出した。
「……げほっ、げほっ! 予定、通りです……っ」
勘太は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも不敵に笑った。
一度火を落とし、煙が引くのを待ってから、あいつは煤のついた場所を指差した。
「予定通りだと?」
「最初は必ず漏れます。漏れた場所を塞いでいけばいいだけです」
勘太は煙の出ている箇所を一つずつ確認し、『パテ』で丁寧に塞いでいった。 二度目の火入れ。
今度は煙が漏れなかった。
一刻ほど経った頃。
「……あったかいな」
誰かが呟いた。
チセの床から、じわりと温もりが上がってきていた。
外は晩春の冷たい風が吹いているというのに、この空間だけが別の季節のようだった。
エカシが床に手をついた。 その表情が、かすかに変わった。
「……なるほどな」
それだけ言って、また黙った。
シモンが腕を組んで床を見つめていた。
「来年の冬が楽しみだ」
男衆の間から、くぐもった笑いが漏れた。
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夜、燻製小屋の仕込みをしながら、勘太が口を開いた。
「セタリさん、今日の『課外授業』はどうでしたか」
「悪くなかった」
俺は正直に答えた。
「普段使わない筋肉が動いた。弓や槍だけでは偏りがある」
「そうですね。猟師の体は特定の動作に最適化されすぎていることがある。
全身の筋肉を満遍なく使う作業は、それを補正します」
「『課外授業』の目的はそれか?」
「体の鍛錬はおまけみたいなものですけどね。
ここのところ、座学続きで鬱憤もたまってるだろうし、気晴らしにでもなれば、くらいのものです」
おまけ、という言葉に俺は引っかかった。
「本当の狙いは?」
勘太は燻製小屋の煙の具合を確認しながら、少し間を置いた。
「コタンの人たちと一緒に汗をかくことです。
セタリさんは猟師として一目置かれてますが、 少し遠い存在でもある。
一緒に土を運んで、石を積んで、同じ汗をかく。
それだけで、距離が変わります」
俺は黙って考えた。
確かに、今日の作業の中で、男衆との会話が増えていた。
普段なら声をかけてこない年長の猟師が、石の積み方を相談してきた。
「……お前は、どこまで考えてやっている」
「さて、どこまででしょうね」
勘太は笑った。
その笑顔を見て、俺はあの夜の川辺を思い出した。
『悪魔』と契約した日のことを。
「次は何を考えている」
「燻製の仕込みが安定したら、少し遠出をしようかと思ってます。 お土産を持ってね」
囲炉裏の炭が、静かに赤く燃えている。
燻製小屋から漏れる煙の匂いが、夜風に乗ってコタンに広がっていた。
勘太は満足そうに、その煙を眺めていた。
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