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第55話 怖れるセタリ

 宝暦十二年(一七六二年) (晩春) 蝦夷地・宗谷コタン


 足が、勝手に動いていた。


「待て、セタリ! 全員で戻る!」


 シモンの声が背後から飛んできた。  

 だが止まれなかった。  

 止まる理由が、見つからなかった。


 リラがいる。  

 叔母がいる。  

 祖母がいる。

 ......勘太もいる。


 コタンに残したのは、女子どもと戦えない年寄りだけだ。


 肺が燃えるように熱い。 

 枝が頬を打ち、足元の根が何度も躓かせる。 

 それでも脚は止まらなかった。

 

 止められなかった。


 全員で戻れば確かに安全だ。 

 だが全員で戻るには時間がかかる。 

 今この瞬間も、熊はコタンにいる。


(間に合わなければ意味がない。俺一人なら間に合う)


 怖くないと言えば嘘になる。 

 熊の爪がどれほどのものか、俺は知っている。 

 引き裂かれた獲物の骸を、何度も見てきた。


 それでも。


 リラの顔が浮かんだ。 

 叔母の声が聞こえた気がした。 

 祖母の、節くれだった手のひらが。


 そして勘太の、あの不敵な笑顔が。


(あいつなら笑うだろう。遅かったですね、ってな)


「……うおおおおおッ!」


 俺は走り続けた。 

 脚が割れても。

 息が切れても。 

 

 この足が動く限り、止まるわけにはいかなかった。


---


 コタンに駆け込んだ瞬間、熊の姿が目に入った。


 でかい。  

 

 さっき仕留めた熊より、一回り以上大きい。  

 背中の盛り上がりが、チセの屋根に届きそうなほどだ。


 熊はチセの周りをゆっくりと歩き回っていた。  

 中の気配を嗅ぎながら、入り口を探している。


 チセの戸は閉まっている。  

 中から物音はしない。  

 息を殺して籠もっているのだろう。


 だが、熊の鼻は誤魔化せない。  

 時間の問題だ。


 熊は何かを探すようにしきりに周囲を見回している。


(……鉄の、匂い)


(――まさか)


 鼻を突いたその臭気で、思考が真っ白に焼き切れた。

 

 怒りなのか、絶望なのか、そんなことを判別する暇すらない。

 

 喉が勝手に、張り裂けんばかりの叫びを上げていた。


「こっちだあああああ!!」


---


 熊が振り返った。


 小さな黒い瞳が、俺を捉える。  

 鼻がひくりと動いた。


 俺はタシロを抜いた。  

 毒矢はない。  

 槍もない。  

 

 手元にあるのは、勘太が研いだこの一振りだけだ。


(……それでいい)


 熊が低く唸りながら、じりじりと近づいてくる。  

 その足音が地を揺らす。  

 一歩ごとに、地面が沈む気がした。


 俺は後退しながら、熊の注意を引き続けた。  

 チセから遠ざかる方向へ。  

 サラとリラから離れる方向へ。


 熊が踏み込んできた。  

 前足が空を薙ぐ。  

 俺は横へ跳んだ。  

 風圧だけで、体勢を崩される。


(でかい。速い)


 あの夜のオオカミの群れとは、根本的に違う。  

 あれは数で圧してくる恐怖だった。  

 これは、一頭だけで世界を塗り替えるような圧だ。


 二撃目が来た。  

 俺は踏みとどまり、前足の内側へ潜り込んだ。  

 タシロを脇腹に叩き込む。  

 刃が毛皮に阻まれ、浅い。


 熊が体を叩きつけるように噛みついてきた。  

 ぎりぎりのところでかわし、俺は地面を転がった。


 立ち上がろうとした瞬間、視界が熊に覆われた。


(まずい、やられる)


 ぐおっ。


 熊が短く悲鳴を上げ、立ち上がり背を向けた。


 その先には、燃える薪を投げつける勘太がいた。


「こっちだ、でかぶつ」


「ばかやろう、死ぬ気か!」


 熊が勘太に向かった。  

 馬鹿だ。  

 あんな小さな体で、死んでしまう。


 熊が覆いかぶさるように腕を振り下ろした。


「勘太!」


 声が裂けた。


 ぐちゃ、ぐちゃ、と何かを咀嚼する音が響く。


 熊が動きを止めた気がした。

 

 ……。


 悲鳴は、上がらなかった。


 呆然とする俺の手に、リラが弓と矢を押し込んだ。


「セタリ、今のうちに。特製の毒矢よ」


 熊がこちらを振り返った。 その口元から、肉の切れ端がのぞいていた。


 手が震えていた。

 

 それでも、引き絞った。


 首筋に放つ。


 熊が咆哮した。

 

 次の瞬間、近くの木に体当たりした。

 幹が根元から折れ、轟音とともに倒れる。


 狙っていない。

 

 ただ、暴れている。


 脇腹に放つ。


 熊が地面を転げ回った。

 四本の足で土を掻き、周囲の草を根ごと抉る。

 頭を地面に叩きつけ、また立ち上がる。


 熊はチセに突進した。

 

 壁が、大きな音を立てて崩れた。

 屋根の端が落ち、土埃が舞い上がる。


 中から悲鳴が上がった。


 矢を放つ。

 

 また放つ。


 熊は構わず暴れ続けた。

 何も見えていないようだった。

 ただ苦しみの中で、目の前にあるものを壊し続けていた。


 やがて、動きが鈍り始めた。

 よろめきながら、それでも止まらない。


 前足が折れた。


 地面に崩れ落ちながら、まだ頭を上げていた。


 俺はタシロを抜いた。

 

 一歩、踏み込む。

 

 また一歩。


 熊の黒い瞳が、ようやく俺を捉えた。


 踏み込んだ。


 喉元へ、タシロを深く突き込む。


 熊の口から、血の混じった泡が溢れた。

 ごふ、ごふ、と低く湿った音が漏れる。

 それでも、まだ息をしていた。


 俺はタシロを引き抜かなかった。


 やがて、音が止んだ。


 熊はゆっくりと、横に倒れた。


 地響きが、足の裏から伝わってきた。


 しばらく、誰も動かなかった。

 荒い息だけが、夕暮れの空気に漂っていた。


「やった! セタリすごい!」


「ああ。だが勘太が……」


 熱狂が覚め、膝をつく俺の背を叩く小さな手があった。


「やあ、お手柄ですね、セタリさん。……これでまた武勇伝が増えた」


「勘太!? お前なんで……」


「まあ、その辺はあとで。今は周囲の警戒を。もう一頭いるかもしれませんよ」


「……ああ、そうだな」


 死にかけたというのに、何というやつだ。  

 底知れなさに驚愕していると、シモンたちが戻ってきた。


「セタリ!」


 後ろから男たちが続いてくる。  

 全員無事だった。


 俺は緊張が解けるのを感じながら、勘太を振り返った。


「種明かしをしろ。  

 熊に潰されて喰われたかと思ったんだぞ」


「ああ、落とし穴ですよ。  

 皆さんが出かけた後に用意しておいたんです。  

 熊が入れず、俺が入れるくらいの大きさのやつを。  

 

 あとは熊が突進してくるのに合わせて穴に落ちただけです」


 言葉も出なかった。  

 

 自分たちが出かけた後に、そんなことをしていたなんて。  

 どこまで先を読んでいるんだ。


「別に、二頭いるとは知りませんでしたよ。  

 追われた熊がこちらに来た時に使えるかもと思って用意しただけです。  

 来なければ穴を掘った労力が無駄になるだけですから。

 それと...。」


 勘太が無言で懐から何かを取り出した。


 次の瞬間、それが俺の口に突っ込まれた。


「なっ——」


 吐き出そうとした。


「大丈夫、毒じゃありません」


 勘太が静かに制した。


 口の中で、じわりと旨味が広がった。


 柔らかい。 燻製の香りが、鼻を抜ける。


「……お前、これを熊に」


「特製のやわらか燻製鹿肉ですよ」


 勘太は自分も一口食べ、満足げに頷いた。


「熊も同じ顔をしていましたよ。一瞬だけ」


 言葉が出なかった。


 リラが呆れたように笑った。


「私も手伝ったんだから。おかげで泥だらけだし、アトゥシが煙臭くなっちゃった」


 男衆の間から、くぐもった笑いが漏れた。 シモンでさえ、口元が緩んでいた。


---


 「……触るな」


 低い声が、場を縫った。


 空気が、変わった。


 シモンだった。


 笑いが、すっと消える。


 誰もが動きを止めた。


 シモンはゆっくりと熊に近づき、一定の距離で足を止めた。


「……山の神よ」


 低く、抑えた声。


「来てくれたことに礼を言う。

 我らは無礼を働かぬよう努める」


 短い祈りだった。


 だが、その場の全員が頭を垂れた。


 セタリは膝をつき、熊の頭に触れる。

 まだ残る熱が、掌に伝わった。


 そっと、まぶたを閉じる。


「……今はここまでだ」


 シモンが言った。


「明日、きちんと送る」


---


 夜、傷の手当てをしながら、勘太が口を開いた。


「セタリさんは今日、正しい判断をしましたか」


 俺は少し考えた。


「……分からない」


「なぜですか」


「シモンは全員で戻ると言った。  

 俺はそれを無視して走った。  


 結果的にコタンを守れたが、  

 一歩間違えれば、死んでいたかもしれない」


「そうですね」


 勘太は静かに頷いた。


「では間違いでしたか」


 俺はまた考えた。


「……間違いでも、なかった気がする」


「なぜですか」


「全員で戻るのを待てば、確かに安全だった。  

 だが、その間に熊がチセに入っていたら。  

 誰かが被害にあっていたかもしれない。  


 俺は一生、それを引きずることになる」


 勘太は少し間を置いてから言った。


「算術に正解があるように、判断にも正解があると思っていましたか」


「……思っていた」


「判断に正解はありません。  

 情報を集めて、考えて、それでも足りない部分を自分の覚悟で埋める。  

 それが判断というものです。


 今日のセタリさんは、ちゃんと判断していました」


 俺は黙っていた。


「ただし」


 勘太が続けた。


「次からは走り出す前に、一呼吸だけ考えてください。  

 それだけあれば、シモンさんに『先に行く』と伝えられます。  

 それだけで、周りの人間が動きやすくなる」


 一呼吸。


 俺は今日の自分を思い返した。  

 

 足が動いていた。  

 

 声をかける余裕は、確かにあったはずだ。


「……それだけでいいのか」


「それだけでいいんです。」


 あの日聞いた言葉が、今日は違う重さを持って響いた。


 囲炉裏の炭が、静かに赤く燃えている。  

 リラはとっくに眠っていた。  

 

 その寝顔を見ながら、俺はゆっくりと目を閉じた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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