第97話:次なる一手──監査役という名の布石
宝暦十四年(一七六四年) 晩夏 蝦夷地・松前
俺は勘太に話があると若松屋に呼び出されていた。
裏口から奥の部屋に入るとそこには勘太と清二だけでなく、糧屋の店主夫婦も集まっていた。
「待たせたな」
珍しい顔ぶれに違和感をおぼえつつも取り合えず空いていた場に腰を下ろす。
守屋も俺の背後に控えるように座る。
広くもない部屋にこれだけの人数が揃うと圧迫感があった。
「では、皆、そろったというところで始めるとしましょう」
勘太はそういうと皆に書付を配りだした。
そこには若松屋と糧屋という名前が並んでいた。
少し前からの売り上げと、今後の予測らしき数字が
線で表された図とともに記されていた。
(これはお初の父親に見せたあれと同じものか、内容は若松屋と糧屋のようだが……。
しかし、これはどういうことだ。
これが勘太の予想だというなら、このままでは――)
「勘太さん、これはどういうことですか!
うちの経営が行き詰まるというんですか!」
俺が疑問を口にするよりも先に声をあげたのは清二だった。
書付に記されていたのは数か月後には売り上げが下がり始めるという残酷な未来予想だったからだ。
「うちもです。あんなに盛況なのに。
冗談にしては質が悪いですよ」
糧屋の主人も顔色が悪い。
無理もない。
つぶれそうなところを勘太により救われまだいくらも経っていないのだ。
それがまた立ち行かなくなるなどと言われては黙っていられないだろう。
「落ち着いてください。
それはあくまで予想です。
しかもかなり悲観的な方のね」
「なんだ、それじゃあうちは大丈夫なんですね?」
「脅かさないで下さいよ。
ようやく弁当屋にも慣れてきたってところなのに」
勘太の言葉に安どした様子を見せる二人の店主。
「安心するのは早いです。
数か月後かはわかりませんが、このままではいずれそうなるのは確かです。
遅いか早いかの違いです」
場が静まり返った。
勘太によって救われた二人にとって、その言葉は死刑宣告にも等しかった。
「ですが、今の内から動けば十分間に合います。
そのために今日集まっていただいたんです」
「店にかかわる話で俺が呼ばれたということは、俺にも何か役目があるということか?」
「そうです。
幸いなことに道広様の謹慎が解けました。
これでお上の威光が使えるようになりました」
堂々と公私混同するような発言をする勘太に守屋の顔が険しくなる。
「言っておくが特定の商人に肩入れするような真似は出来んぞ。
ましてや道広様を商売に使おうなどもってのほかだ。
糧屋の時はあくまで赦免のための一時措置にすぎん。
赦免された以上は、当てにされても応じることはできんからな」
腰を浮かせて食って掛かるような剣幕だった。
取り付くしまもない拒絶だ。
「落ち着け、守屋。
まずは話を聞こうじゃないか。
何でもお見通しの勘太のことだ。
その程度のことは織り込み済みだろう。
なあ、勘太?」
俺が少し意地悪く水を向けると勘太はにやりと笑った。
「はは、道広様も言うようになりましたね。
でも、まあ、その通りです。
道広様にできる範囲でご協力をお願いするだけです。
せっかく赦免されたのです。
御立場を危うくするような真似は致しませんよ」
守屋がどっかと腰を下ろす。
「ならばいい。
だが道広様に害が及ぶような兆しが見えれば……ただではすまさんぞ」
(……守屋にしては、いささか剣呑すぎるな)
普段の穏健さとは別人のような強硬さだった。
(まるで、何かを恐れているようだ)
一瞬、胸に引っかかる。
だが――
(……いや、今はいい)
考えを振り払う。
ここで躓いている場合ではない。
汚名を返上するためにも、まずは前に進まねばならない。
「心得ております。
それでは、今後の計画について説明させていただきますね」
まるで何事もなかったような切り替えの早さ。
他の面々は守屋の怒声に縮こまってしまったというのに。
わかっていたことだが子供の胆力ではない。
そして勘太が語る今後の計画もとんでもないものだった。
---
「まず、この松前には二つの大きな勢力が存在します。
アイヌとの交易で利をあげる東側の勢力と、
江戸との交易に重きを置く西側の勢力です。
この二つの勢力が市場を争っているのが、大まかな構図です」
勘太の声は、まるで冷たい井戸水を浴びせかけるように淡々としていた。
「それとうちが何の関係があるんです?
うちは茶屋だ。アイヌも江戸も関係ない」
清二は、半ば吐き捨てるように言った。
その言葉には、そんな争いに巻き込まれる筋合いはない、という拒絶が滲んでいた。
勘太は、首を横に振った。
「それがあるんですよ。
この松前で売られているものの多くは、他所からの仕入れです。
近場で生産されているものは、驚くほど少ない。
ですから茶屋であっても無関係ではありません。
燃料となる薪は東から、茶や米などは西を通して江戸から入ってきているんです」
俺は、背後に控える守屋がわずかに身じろぎする気配を感じた。
勘太が語っているのは、単なる商売の話ではない。
松前藩という国の喉元を、誰が握っているか――
統治の根幹に関わる話だ。
「なるほど。ですが、それでどうしてうちの売り上げが下がるんです?
今は順調じゃないですか」
「そうです。うちだって、たくさんの常連客がついている」
「問題は客じゃなくて、『仕入れ』ですよ」
勘太は、静かに言い切った。
「こちらが儲かっているのを見て、彼らがこれまで通りの値で売ってくれると思いますか?
儲かっている分、こちらにも寄こせと、仕入れ値を上げてくるに決まっています」
「……値を上げてくる、と?」
「ええ。ですが、問題はそこじゃない。
上げられるだけなら、まだいい。
断るという手がありますから」
一瞬、場の空気が緩む。
だが――次の一言で、それは消えた。
「今回は違います。『断れない形』で上げてきます」
「断れない、だと?」
「はい。松前は狭い。
取引先、そのまた先まで辿れば、ほとんどが同じ勢力に繋がっています」
勘太は、書付の一点を指で叩いた。
「断れば、別の仕入れ先も同じ値を出す。
さらに断れば――今度は品が入らなくなる」
(……詰み、か)
俺の脳裏に、かつて守屋と指した将棋の盤面が浮かんだ。
逃げ場を塞がれ、じりじりと包囲網が狭まっていく感覚。
「選べるのは二つだけです。
値上げを呑まずに品を失い、店を畳むか。
値上げを呑んで利を削られ、やがて店を畳むか。
彼らが本気で締めに来れば――逃げ場は、ありません」
若松屋の奥座敷に、沈痛な沈黙が落ちた。
これまで自分たちが築いてきた繁盛が、実は、ひどく脆いものだったと思い知らされたのだ。
「……どうすればいいんです?
あるんでしょう、打開策が」
清二の声に、あきらめはなかった。
「もちろんです。
勢力には勢力を。
こちらも、独自の勢力を築きます」
「独自勢力……」
その言葉に、守屋の表情がわずかに強張った。
「そうです。我々のように、どちらにも属さない商家を束ねて第三勢力を立ち上げます。
俺が再建を請け負っている商家は、ほとんど取り込める。
それに、両者の勢力から引き抜いてもいい。
条件次第で動くのが商人です。
後ろ盾を見せれば、なびく者は必ず出ます」
「なるほど、その後ろ盾に俺を使う気か。
……いや、俺というより藩の威光か」
「ええ、その通りです」
守屋が立ち上がった。
「ならんぞ。先ほども言ったはずだ。
特定の商人に肩入れするような真似は許さんと!」
その一言は、怒声というより――叩きつけるような声だった。
座敷の空気が、ぴたりと止まる。
(……重い)
ただの反対ではない。
進ませまいとする意思だ。
「落ち着け、守屋。
……勘太。二人には悪いが、お前たちだけを特別扱いするわけにはいかん。
それでは、賄賂で便宜を図る輩と同じだ」
「道広様……」
見捨てられた子供のような目を向けてくる。だが、こればかりは仕方ない。
俺にも、譲れない一線がある。
「勘違いしないでください。
便宜を図っていただく話ではありません。
道広様には、我々が藩の定めに従っているかを見ていただきたい。
監査役として」
「監査役だと」
「つまり、我々を公正な商いをする集団として認めていただく」
「監査ならやっているはずだ。
それとどう違う?」
「道広様がおっしゃっているのは取り締まりでしょう。
監査とは違います。
取り締まりは、隠しているものを暴くことです。
監査は違います。
自分からすべてを明らかにするんです」
「それに何の意味がある?
むしろ損ではないのか?自ら内情を明かすとは」
「そこが肝です。
他の勢力も、同じことを考える。
隠す。誤魔化す。懐柔する。
それがお上との正しい付き合い方だと」
「……確かに、それが定石だ」
「だから、気づかない。
信用という看板の強さに。
お上公認の、公正な商いをする集団。
そう名乗れるだけで――人は集まる。
嘘で固めた連中と、どちらを選ぶか。
答えは決まっています」
「……そうだな。嘘つきと付き合いたい者などおらん」
かつての自分の行いが脳裏をよぎった。
九つの真実に一つの嘘を混ぜるなどと、勘太を試したつもりでいた。
……浅はかだった。
「まあ、商売です。
多少のごまかしや誇張は手管の内でしょう。
……ですが、度を越えている」
「はい。
このしばらく、いくつも帳簿を見ましたが――どこも同じです」
「……搾られている、ということか」
勘太が頷く。
「あのやり方は、いずれ町そのものを潰します。
ここで止めなければ、松前は持ちません」
「いつになく熱っぽいじゃないか」
勘太は、表情を崩さなかった。
「笑い事じゃありません、道広様。
これは松前が行き詰まっている原因そのものです。
誰もが目先の利に食いつき、全体が痩せていく。
それでも、誰も手を止めない。
本来なら、藩が手を入れるべき話です」
誰も、すぐには口を開かなかった。
提示された策が、あまりにも大きすぎたからだ。
商いの延長ではない。
勢力と勢力の間に、楔を打ち込む話だった。
「……本気か」
気づけば、口にしていた。
勘太は迷いなく頷く。
「本気です。でなければ、わざわざ道広様をお呼びしません」
「だがな……」
言葉を選ぶ。
……軽々しく、頷ける話ではない。
「……それは、東西すべてを敵に回す話だぞ」
俺の言葉に、清二たちが息を呑んだ。
今さらながら、その意味を悟ったのだろう。
「ええ。――だから、正面からはやりません」
勘太は即答した。
「まともにやれば、勝ち目はありません」
「……では、どうする」
「気づかせないまま、削ります」
さらりと言ってのける。
内容は、穏やかではない。
「監査という形で信用を積む。
そうすれば、取引は自然とこちらに流れる。
――値を吊り上げても、意味はなくなる」
「……」
「流れも変える。
こちらに回る品を増やし、
直接仕入れの口を開く。
そうすれば――
気づいたときには、向こうの取引は半分になっている」
背筋に、冷たいものが走った。
(……静かに、殺すか)
派手な争いではない。
だが、確実に削る。
「そんなことが……本当にできるのか?」
糧屋の主人が、かすれた声で問う。
「できますよ」
勘太は迷いなく言った。
「もう、始まってますから」
「なに?」
「若松屋と糧屋の間で、仕入れの一部を融通し合っているでしょう。
あれもその一歩です」
「……あれが?」
「ええ。小さく見えますが、ああいう横の繋がりが一番効くんです。
既存の流れを、少しずつ外していく」
なるほど、と頷きかけて――止まる。
(……待て)
違和感。
筋は通っている。
だが――
(……いつから仕込んでいた?)
まるで、最初から盤面のすべてを知っているような口ぶりだ。
だが、それはありえない。
俺の謹慎がいつ解けるかなど、読みようがない。
それこそ父上と通じてでもいない限りは――そして、それはありえぬ。
先を読んでいる。
そのために手を打っている。
そこまではいい。
だが――
(どこまでだ)
思考が、わずかに冷える。
勘太が以前口にしていた言葉がよぎる。
十年先、二十年先を見据えて人を育てる――
あのときは、ただの理想だと思っていた。
だが、違う。
あれは理想ではない。
現実だ。
本気で先を読み、
そのために手を打ち、
今を動かしている。
その事実に、背筋が粟立った。
その時。
「……やめておけ」
低い声が、座敷の空気を断ち切った。
守屋だった。
その眼は、勘太を真っ直ぐに見据えている。
「それは、遊びでは済まん」
いつもの穏やかさはない。
崖の縁に立つ者を、無理にでも引き戻そうとする声音。
「一歩、踏み違えれば――」
言いかけて、口を噤む。
わずかに、視線が揺れた。
――恐れている。
何を、とは言わない。
だが、それだけで十分だった。
(……やはり、何かあるな)
ただの用心ではない。
あの反応は――知っている者のそれだ。
勘太は、その様子を静かに見ていた。
「ご忠告、ありがとうございます」
柔らかい口調。だが――
「ですが、何もしなければ、いずれ潰される」
はっきりと言い切る。
「ゆっくり死ぬか、動いて生き残るか――
選べるのは、それだけです」
逃げ道を、完全に塞ぐ言い方だった。
沈黙。
先ほどとは違う。
迷いではない。
覚悟を問う沈黙だ。
視線が集まる。
俺へ。
(……そういうことか)
苦く、笑いかけて――やめた。
最初から、この場はそのための場だったのだ。
選ぶのは俺。
そして――
責を負うのも、俺。
ゆっくりと息を吐く。
(……仕方ないな)
腹を決める。
「……いいだろう」
その一言で、空気がわずかに揺れた。
「ただし、条件がある」
勘太の目が細まる。
「なんでしょう」
「暴走は許さん。
商いの範疇を越える動きは、すべて俺に通せ」
言葉を切る。
「これは商いだ。
謀にするつもりはない」
だが――
勘太は、にやりと笑った。
「承知しました。道広様」
その笑みは、どこか楽しげだった。
まるで。
俺の覚悟すら、読まれていたかのように。
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