閑話:忠義と命令の狭間で
宝暦十四年(一七六四年) 晩夏 蝦夷地・松前
松前城へと続く道を行く私の足取りはどこか軽かった。
若――道広様が資広様との謁見を終え、
自ら「汚名返上のため、まだ城の外で成すべきことがある」と宣言された姿を思い出す。
半年間の謹慎を経て、あの方はまるで別人のように成長された。
その姿は、守役として胸が熱くなるほどだった。
私は若を屋敷へ送り届けた後、再び城へと呼び戻されていた。
主より次なる沙汰を受けるためだ。
殿と直接言葉を交わすのは、いつぶりだろうか。
若の守役としての役目を賜って以来ではないだろうか。
あれは藩のどの派閥にも属さない自分にとっては望外の抜擢だった。
まさに天にも昇る心地だった。
若が元服し名を道広と改められてからも役目は続いた。
それだけにあの謹慎を言いつけられた時のことはこたえた。
このままでは、己の行く末も潰えるのではないかと、胸がざわついた。
しかし、若は自らの手で招き寄せた
得体の知れぬ才を持つ勘太の手腕により、見事赦免を勝ち取られた。
若の努力が認められ、正式に次期藩主としての道が整うのではないか。
そんな淡い期待さえ抱いていたのだ。
だが、謁見の間に座す資広様の重苦しい沈黙が、私の安直な希望を霧散させた。
そこにいたのは、
息子の成長を喜ぶ父ではない。
ただ――
藩という重荷を背負い続けている者の目だった。
---
「……男子三日会わざれば刮目してみよ、か。
変われば変わるものだな。あの道広が、あのような殊勝な物言いをするとは」
資広様の言葉に、私は感情を押し殺して応じた。
若の成長は勘太の影響によるところが大きい。
資広様はその少年の名をも把握し、冷徹に観察しておられた。
「……は、若はこの数か月で……まことに見違えるほどに成長なされました」
「それも、例の宗谷から来た勘太とかいう小僧のおかげか」
「は、いえ……その、多少は影響もあるかと……」
「ふ、よい。――実際のところ、どうなのだ」
その声音には、情の色は微塵もなかった。
資広様の眼差しが、わずかに鋭くなる。
逃げ場はない。
「は。かの者の影響、すさまじく。
若や子供らにとどまらず、あの者の周囲に集まる者、ことごとく……何かしら変わっております」
「ふ、そうか。お前もか、守屋」
「い、いえ、某は……決してそのようなことは」
「隠さずともよい。
非番の折、奥方と連れ立ち、茶屋で楽しげに語らっておるそうではないか」
「な、なぜそれを……」
「わしの目と耳は、お前ひとりではない。
この松前の至るところに置いてある」
資広様は、わずかに目を細めた。
静かに言い切る。
「ゆえに、隠すだけ無駄だ」
「……恐れ入ります」
言葉を失い、ただ頭を垂れる。
「ですが、それではなぜ若を試すような真似を……?」
「試したのではない。確かめただけだ」
短く、断じられる。
「報せなど、所詮は報せだ。
実際のところは見てみねば分からぬ」
勘太の言っていた『理』が、脳裏に重なる。
やはりこのお方は――。
「さすがのご深慮。この守屋、感服仕りました」
「ふ、世辞も板についてきたな。
それも小僧の影響か?」
「い、いえ……これは、本心にございます」
「まあよい。
思った以上だな、その小僧」
「はい。松前に来てわずか数か月。
いくつもの商家を立て直し、人を集め……今もなお広がっております」
一度言葉を切る。
「その上、子供らに教えておりまする内容――
これが、妙に理にかなっておりまして」
自分でも、言いながら違和感があった。
あの勘太の書付は、子供に教えるものとは思えぬほど整いすぎている。
「某が申すのも妙ですが……あの書付、無駄がなく、隙がございません。
子供らの興味を引き、集中が切れる前に終えられるよう計算されております。
合間の休みまで含めて整えられているのです」
思い返す。
あの『教育要領』という名の書付に書かれた進め方。
「気づけば、皆、あの者の言葉を口にしております。
某も……いつの間にか」
はっとして口を閉じた。
「人を育てる、か」
資広様の声は、どこか底を探るようであった。
「そこに藩政への反抗の意思は見えぬのだな?」
「はい、さすがにそんなことが書かれていれば教えるわけにはいきませぬので。
引かれているのは故事やことわざが多く、商家の子らには役立つ内容にございます」
「なるほど、まあ、集められた子供が商家の者だから、そちらに合わせたとも考えられるが……。
引き続き様子を見張る必要がありそうだな」
「は、決して目を離さず何かあればすぐに報告に上がります」
「うむ、たのんだぞ」
「道広様のことは、今まで通りでよろしいのですか?」
「ん、ああ、道広か。
まあ、今は好きにさせておけ。
自分で汚名を返上したいと言っておるのだ」
あまりにもあっさりとした声音だった。
「は、承知いたしました」
「なんだ、不服か」
その一言に、胸が強く跳ねた。
「いえ、決してそのようなことは」
「お前は分かりやすい男だな、お前は」
くすりと笑う。
「まあ、だからこそ道広に付けたのだがな……。
わしとて、あれを何とも思っておらぬわけではない。
……だが、それだけだ。」
資広様は茶を一口含み、静かに器を置かれた。
そのわずかな間に、背筋が伸びる。
「藩主ともなれば、他に見るべきものがある」
その言葉の重さに、思わず息を呑んだ。
表情は穏やかなままだった。
だが、先ほどまでとはどこか違って見えた。
「は……」
「非情と思うか」
「……いえ。藩主として、当然の御判断かと」
「そうだ。 わしは非情ではない。情はある。
だが、優先は藩だ。
藩主である以上、最優先すべきは藩の利益だ」
空気が張り詰めた。
何かが来る――そう感じた。
「その小僧、そして道広が藩に害を及ぼすようなら――消せ」
理解するまで、数瞬かかった。
いや――理解したくなかった。
言葉が出なかった。
「は?」
「聞こえなかったか?消せと言ったのだ」
「お、お待ちください。なぜ――」
「守屋」
最後まで口にすることはできなかった。
「命だ」
それがすべてだった。
喉がひりついた。
「……は。承知仕りました」
どうにかそれだけを口にする。
胸の奥に残ったものは、そのまま押し込めた。
口の中がカラカラに乾ききっていた。
「よい。
大人しくしておるうちは構わん。放っておけ」
そして、静かに続ける。
「だが、商人らを束ね、何かを企てるようなら――その時は分かるな」
「は」
「道広の警護と監視、引き続き怠るな」
「は」
足が思うように動かなかった。
胸の奥の冷たさが消えぬまま、御前を下がる。
廊下に出た瞬間、うまく呼吸できなかった。
残暑の湿気が、衣の内側にまとわりつく。
濡れ布が貼り付いたようだった。
歩きながら、言葉を反芻する。
――消せ。
道広様を。
そして、勘太も。
それだけで済むのだろうか――。
あの場にいる者たち。
あの塾に集う子ら。
関わった商家。
どこまでが切り捨てられるのか。
想像するだけで、背筋が冷えた。
(大丈夫だ。よからぬことさえしなければ問題はない。
今のところはその兆しは……ない。
それに、そうなる前に若を諫めれば済むはずだ……)
嫌な予感を振り払うように、強く頭を振った。
止まりそうになる足を無理やり屋敷へと向けた。
---
「おお、守屋。遅かったな。もう支度はできておるぞ。今日は祝いの宴だ」
道広様の顔が、眩しかった。
屈託のない笑み。
何も知らぬ顔。
胸の奥が、鈍く痛む。
「申し訳ございません。資広様に、若のことをいろいろと問われておりました。
……おお、これは美味そうですな」
「ふむ。父上は随分と俺を気にかけてくださっているようだ。
ご期待に応え、汚名を返上してみせねばな」
「はい、その意気でございますぞ、若」
「若、言うな」
笑い声。
変わらぬやり取り。
(言えるわけがない)
自らの主からの苛烈な命。
実行するときが来ないことを願うばかりだった。
(……もし、その時が来たなら)
一瞬、腰の脇にあるものの重みを思い出す。
手に馴染んだ柄。
抜いたときの感触。
――いや。
首を振る。
あり得ぬ。
許されるはずがない。
「どうした、守屋。喰わぬのか?
勘太の特製カニ鍋だ。
食べやすいようにカニの身を全部殻から出してある。
俺も手伝ったのだぞ」
その言葉が、胸の底に沈んで動かなかった。
まるで重石のように。
「……いえ、いただきます」
椀を取る手が、わずかに震えた。
それを悟られぬよう、指に力を込める。
道広様の笑顔が眩しい。
その無垢さが、胸の奥をひどく刺した。
(――もし、その時が来たなら)
その思いを、汁で無理やり流し込んだ。
「そうだ、しっかり食え。
お前にも、これからまだ働いてもらわねばならんからな」
「……は」
椀を置き、杯をあおる。
酒精が喉を焼いた。
それでも、胸の奥の冷たさは消えない。
その冷たさだけが、確かな現実だった。
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