第96話:成長の証明――城へ戻らない理由
宝暦十四年(一七六四年) 晩夏 蝦夷地・松前
城へと続く長い坂道は、いつもの何倍も長く感じられた。
照りつける陽光は痛いほど強いはずなのに、
背筋に沿って流れるのは、汗ではなく、冷たいものだった。
(……落ち着け)
足を止めず、呼吸を整えながら進む。
吸って、吐く。
浅くなりかけた呼吸を、意識して戻す。
(これは報告だ。詰問ではない)
そう自分に言い聞かせても、指先の震えは止まらなかった。
拳を握りしめ、無理やり抑えつける。
これまでにも放蕩を咎められ、叱責を受けたことは何度もある。
だが、今は違う。
(ここでしくじれば――終わる)
胸の奥で、言葉にならないそれが形を持つ。
『廃嫡』という二文字が、鈍く沈んだ。
城門をくぐり、静まり返った廊下を歩く。
一歩踏み出すたびに、心が削られていく感覚があった。
案内された襖の前で、わずかに息を吐く。
「……道広、参りました」
声は、かろうじて揺れなかった。
「入れ」
低く、重い声。
襖を開けた先にいたのは、ただ一人。
父、松前資広。
座しているだけで空間そのものが圧し潰される。
視線が合う。
それだけで、背中に汗がにじんだ。
「……半年ぶり、でございますな。父上」
畳に額をつけるようにして頭を下げた。
視界が暗くなる中、父が俺を確かめる視線だけが落ちてくるのを感じた。
「面を上げよ」
短い一言。
顔を上げると、その目には怒りも失望もなかった。
俺を測る目だった。
「謹慎を申し付けてから半年か」
静かな声。
「……道広。此度の生活、どうであった。ありのままを申せ」
促される。
逃げ道はない。
取り繕えば、一瞬で見抜かれる。
喉がわずかに鳴った。
息を吸う。
――ここからだ。
「商人に理を説く難しさを知りました。
彼らはただ命令に従うのではなく、その裏にある『利』と『仕組み』で動くのです」
父の眉がわずかに動く。俺は続けた。
「若松屋という茶屋との競合、そして吸収合併を経験しました。
相手は味と安さで勝負してきましたが、勘太という少年は『需要の検証』と『回転率』という、
彼らの常識を上回る冷徹な理で盤面をひっくり返しました」
――異様だった。
帳簿の数字。
客の流れ。
滞留。
目に見えなかったものが、形を持っていく感覚。
「俺は帳簿をつけ、客の動きを追いました。
数字として捉えたことで、初めて見えたものがあります」
言葉を選ぶ。
「かつての俺は、民を風景として見ておりました」
一瞬、言葉が止まる。
だが、逸らさない。
「しかし今は違います。
一人ひとりに欲があり、生活があり……それを御することが統治であると学びました」
松前塾の日々が脳裏をよぎる。
笑い声。
失敗。
衝突。
そして――変わる瞬間。
「理だけでは動かぬ者もおります。
ですが、理で逃げ道を塞げば……自ら歩き出す」
あのときの顔が浮かぶ。
納得し、娘を託した、お初の父の顔。
「……その変化を、目の前で見ました」
言葉が止まる。
すべてを語り終えた後、沈黙が降りた。
父はしばらく目を閉じ、やがて小さく頷いた。
「……守屋の報せと、違わぬな」
――通った。
胸の奥で、何かが落ちた。
「道広よ」
父の声が落ちる。
「この父を――恨んでいるか」
唐突な問い。
だが、その意図は分かった。
外で学んできたものの「芯」を確認しているのだ。
迷いはなかった。
「いいえ。恨みなどございません」
即答した。
視線を逸らさず、俺は続けた。
「もしあのまま城にあったならば、俺は何も知らぬまま、
上から見下ろすだけの空虚な男で終わっていたでしょう。
今は違います。
外にこそ、泥の中にこそ、学ぶべき『真実の理』があると知りました」
父の頬が、わずかに緩んだ。
「……はは。よもや、お前の口からそんな言葉が出るとはな。成長したな、道広」
その言葉は、これまでのどんな称賛よりも重く、深く胸に落ちた。
「よい。十分に頭も冷えたようだ。
本日をもって、謹慎を解く。
城へ戻るがよい」
望んでいたはずの言葉だった。
だが、俺の脳裏に浮かんだのは、きらびやかな城の廊下ではない。
米を研ぐ音、塾の子供たちの笑い声。
そして、あの底知れない目をした「共犯者」の姿だ。
(……ここで戻るのか? 成果を『持ち帰る』だけで終わるのか?)
一瞬だけ迷いがよぎったが、すぐに消えた。
あの場所で、まだやり残したことがある。
俺は、もう一度深く頭を下げた。
「……父上。お願いがございます。
城に戻ることは、今しばらくお待ちいただきたく」
空気が変わる。
父の目が鋭く細まる。
「理由を申せ。謹慎が解けるのだぞ」
「はい。俺はまだ、何も成しておりません」
俺は顔を上げ、父の視線を受け止めた。
「ただ時を過ごし、反省の色を見せただけで戻れば、
それは単なる『親の温情』、血筋という名の特権でしかありません。
俺は、自らの手で、これまでの汚名を返上したいのです」
「松前塾で始めた改革を形にします。
子供たちに説いた『新しい理』を広げ、松前の確かな富へと変えてみせます。
十年、二十年先を見据え、俺の懐刀となる人材をあの学び舎で育て上げてみせます」
さらに続けた。
「それを成し遂げるまでは――。
堂々と結果を示せるまでは、城の敷居を跨ぐわけには参りませぬ」
言い切った。
逃げ道は完全に消えた。
長い沈黙。
父は無表情のまま俺を凝視していたが、やがて、ゆっくりと頷いた。
「……本当に見違えたな。道広」
声音には、確かな満足と、微かな誇らしさがあった。
「よかろう。気が済むまでやってみるがいい。
お前が城に戻るその日……松前の景色がどう変わっているか、楽しみに待っているぞ」
それで、話は終わりだった。
城を出る足取りは軽い。
だが、胃の辺りがきゅっと締め付けられる。
(……やったな)
わずかに、頬が緩んだ。
赦免を受けながら、それを自ら突き返した。
(完全に、後には引けなくなった)
もう「お坊ちゃんの修行」ではない。
見上げれば、夏の終わりの入道雲が高く積み上がっていた。
俺は、踵を返した。
向かう先は、城ではない。
待っている「怪物」と、これから変わっていく者たちの元へ。
今度は、逃げるためではない。
進むために。
---
「やったぞ! 赦免だ。謹慎を解かれた!」
城では抑えていた激情が屋敷に戻ったことで解放された。
胸の奥に溜まっていた澱が、一気に霧散していくような開放感があった。
「ああ、慌てるな。城には戻らんぞ。俺にはここでまだやることがあるからな」
驚いてこちらを見た勘太を制するように、俺は軽く手を振った。
――自らの手で、これまでの汚名を返上したい。
父上に宣言した思いに嘘はない。
だが、俺はそれ以上に、ここで手に入れた『自由』を、まだ手放したくなかった。
城に戻れば、またあの格式ばった退屈な日常と、家督を巡るどろどろとした視線が待っている。
このボロ屋敷を「松前塾」と名付け、市井の子供たちに読み書きを教え、
商いの機微を学んできた日々。
泥にまみれ、汗をかき、自らの足で土を踏みしめる手応え。
それこそが、今の俺にとっての「生」の実感だった。
それが偽らざる俺の本心だった。
「……そうですか。それはよかった。
それでは今日はお祝いですね。
ふさわしい逸品をご用意しましょう」
だが、勘太の反応は、俺の熱量とは正反対に冷ややかなものだった。
祝いの言葉を口にしながらも、その目は笑っていない。
それどころか、俺を通して父の幻影を見ている――そんな目だった。
「なんだ、せっかく謹慎が解けたのに。
喜んでくれないのか?」
肩透かしを食らったような気分に、思わず声が強くなる。
ここまでこぎ着けたのだ。
少しくらい、一緒に喜んでくれてもいいだろうに。
「いえ、謹慎が解けたことは喜ばしいです。
ただお父上の反応がちょっと気になって」
「父上の反応?」
思わず眉をひそめた。
「俺の成長を認めてくださった。
それのどこがおかしい」
言いながら、どこかで引っかかるものもあった。
だが、それを認めるのは、どうにも癪だった。
「反応がきれいすぎる」
勘太は淡々と言う。
「まるで、用意された筋書きをなぞっているような――そんな印象を受けます」
「考えすぎだろう」
即座に返す。
だが、言葉ほどの確信はなかった。
「そうかもしれませんね」
勘太はあっさりと引いた。
「まあ、どちらでも構いません。
そうである可能性を、計算に入れておくだけですから」
「……何の話だ」
「こちらの話です」
視線だけをこちらに向ける。
「道広様は、お気になさらず。
そのままでいていただいた方が、都合がいい」
「なんだかよくわからんが……まあいい」
深く考えるのをやめる。
考えたところで、こいつの頭の中は読めない。
「知らぬほうがうまく回る、というやつだな」
「ええ、そういうことです」
小さく頷くと、勘太はすぐにいつもの調子に戻った。
「では、今日は赦免祝いといきましょう。
喜ばしいことには、違いありませんから」
「そうだな。清二も呼んで、ぱーっとやるか」
「はい。ところで守屋様はご一緒だったのでは?」
「……そういえば、姿が見えんな。
まあ、いずれ戻るだろう。
それまでに支度を済ませてしまおう」
話はそれで終わった。
父上の真意。
勘太の思惑。
どちらも、霧の中だ。
だが――。
今だけは、それでいいと思った。
ようやく手に入れたこの時間を、
余計なことで曇らせたくはない。
笑って、騒いで、飲んで。
それでいい。
――どうせ。
この時間が、そう長く続かないことくらい、
どこかで分かっているのだから。
だからこそ。
今だけは、何も考えずにいようと思った。
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