第91話:動き出す勘太――本領発揮
宝暦十四年(一七六四年) 初夏 蝦夷地・松前
「道広様、学問所……いえ、学校を作りましょう」
唐突に切り出した勘太に、俺は眉をひそめた。
「がっこう……? それは何だ」
「ああ、失礼。寺子屋や私塾のようなものだとお考えください」
「寺子屋か。それが藩の財政の立て直しにどう役立つというのだ」
「急がば回れです。
はっきり申し上げて、今の御立場で藩政の財政に口を挟もうなど無謀もいいところ。
お父上が激怒されたのも、道理というものです」
図星を突かれ、俺は言葉に詰まる。
だが、食い下がらずにはいられなかった。
「だが、それでは……何も変わらぬではないか」
「今は、地盤を固める時期です。
目先の小利を追うのではなく、先々の大利を考えて動く。
十年、二十年先を見据えるんですよ」
「いや、それでは俺の謹慎はどうなる。
いつまでもここで燻ってはおれん」
「そのための学校です。分かる御人には、これほど効く一手はありませんよ。
ただ読み書きや算術を教える場所ではない。
……将来、あなたの懐刀となる人材を、自らの手で育てるのです」
懐刀。
その言葉に、俺の背筋がわずかに伸びた。
「なるほど。確かに宗谷の三吉ほどの人材を育てることができれば、
将来、俺が家督を継いだ折には、この上なく頼もしい力になるな」
「そのとおりです。
身の程をわきまえぬ知恵をひけらかすよりも、将来のために自ら有能な臣下を育てようとする。
その殊勝な志を見せる方が、次期藩主としての評判を何倍も高めるはずです」
「だが、お前のことだ。それだけが狙いではあるまい?」
俺が探るように目を細めると、勘太は悪びれもせず、くすりと笑った。
「はは、ようやくわかってきましたね。
教えるのは読み書きだけじゃありません。
……ただ、世の理の見方を、少しだけ変えてやります」
「世の見方を変えるか。また大きく出たな」
「この程度は序の口ですよ。
言っておきますが、学校を作って終わりではありません。
やるべきことは、山のようにあるのですから」
「お、おお。……分かった、お前に任せる」
十年後のために学校を作る。
藩政改革の方策としては想像もできぬ一手だ。
本当にそれが有効なのか、俺にはまだわからない。
だが、勘太の描く絵図には、賭けてみるに値する確信が宿っていた。
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数日後、俺の住まうボロ屋敷は、
突貫の普請によって改装され、新たな看板が掲げられた。
「うんうん、急ごしらえのわりに、なかなかいい出来栄えじゃないですか」
「そうか? ところで、この『松前塾』というのがこの場所の名か」
「ええ、良い名でしょう。余計な飾り気がなくて」
「まあ、分かりやすいと言えばそうだが……なんとも捻りのない名だな。
それに『学校』ではなかったのか?」
「いいんです。松前塾という名の『学校』ですから。
だれでも分かるような名の方が、市中に噂が広まりやすいですから」
「そういうものか。」
「そういうものです。」
「結局、『学校』というのと寺子屋や私塾の違いがよくわからんのだが」
「一番の違いは、誰が運営するかですね。
寺子屋や私塾は個人が教える場ですが、
学校は組織として運営される教育機関です。
同じ方針のもとで、複数の者が決まったやり方で教える仕組みになっています」
「なる……ほど。ますます、わからんが、お前のこだわりなのだな、そこは」
勘太の自信ありげな頷きに納得しかけたが、ふと室内を見渡して溜息をついた。
室内では生徒たちが行儀良く座って守屋の話を聞いていた。
「それにしても、思いのほか生徒の集まりが悪い。
たったの五人……しかも全員がおなごではないか」
「まあ、最初からすべて思惑通りとはいきませんよ。
むしろ、この短期間で五人も集まったことを喜びましょう」
「そうだな。誰も来ぬよりは、はるかに増しだ」
「さて、それじゃあ明日からは道広様も、しっかり腰を据えてお励みくださいね」
「……何? 俺も学ぶのか?」
「当たり前でしょう。
ここ数ヶ月、満足に机に向かう時間もなかったはず。
ここらで巻き返しておかないと、後々苦労されるのはあなたですよ。
上に立つ者として、せめて配下となる者たちに示しがつく程度の見識は身につけていただかねば」
「うう、それはそうだが……」
「やるしか、ないですよ」
にこりと、無慈悲に笑う勘太。
逃げ道など、端から用意されていなかったらしい。
広くもない空間に、七歳から十歳ほどのおなごが五人。
その中に、男の俺が一人混じっているのは、耐え難いほど気恥ずかしかった。
これまで年の近い子供……それも市井の者と接する機会など皆無だったため、
どう振る舞えばいいのか見当もつかない。
初日は、互いの素性を明かし、各々の学力を確かめるだけで終わった。
さすがに次期藩主としての英才教育を受けてきた俺に勝る者はいなかったが、
勘太いわく「油断していれば、すぐに背後を脅かされる程度の差しかない」とのことだった。
それを聞いて、ますます不貞腐れてサボるわけにはいかなくなった。
教師役は、読み書きを守屋。
行儀作法を守屋の細君が担当することになった。
勘太が作成した『教育要綱』という書付を渡され、二人とも熱心に目を通している。
もともと人の世話をすることを好む質らしく、二つ返事で引き受けてくれた。
守屋の妻は子に恵まれなかったこともあり、「これほど多くの子を世話できるとは」と、
これまでに見たことがないほど嬉しそうにしていた。
そういえば、俺は守屋に子がいないことさえ、これまで気にしたことがなかった。
守屋の歳ならば、子がいても不思議ではない。
もしや、俺が勝手気ままに連れ回しているせいで、
あいつは家のことを疎かにせざるを得なかったのではないか。
そんな、当たり前のことにさえ、今さら気づかされる。
俺は本当に、己の足元のことすら見えていなかった。
この学校は、俺にその「視界」を取り戻させるためのものでもあるのだろうか。
(その可能性は……高いな)
勘太の一手には、常に幾重もの狙いが潜んでいる。
握り飯を売った時がそうだった。
ただの小商いに見せて、市中の動向を測り、
競合する若松屋を陥れて吸収合併まで成し遂げた。
この学校も、単なる人材育成で終わるとは到底思えなかった。
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そんな懸念を抱きながら一日を終えようとしていると、守屋が歩み寄ってきた。
「若、初日を終えたご感想は?」
「ふん、見ていたのなら分かるだろう。
おなごどもと並んで数を数えるなど、退屈なだけだ」
「ははは。さすがにあの状況では、居眠りもままなりませんな」
「これが毎日続くと思うと、気が滅入る。
勘太の言うことも理解できるが、こうして悠長に座っている場合ではないと思うのだがな」
「焦りは禁物ですぞ、若。あなた様はまだお若い。
今はじっくりと実力を蓄え、根を張る時期なのです。
大人になれば、嫌でも荒波に立ち向かわねばならんのですから。
……どうしてもとおっしゃるなら、学校が終わった後の時間をどう使うか、
勘太に相談してみてはいかがですか」
「……そうか、そうだな」
俺は守屋の言葉に従い、勘太のいる若松屋へと足を向けた。
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すると、そこではまた別の、奇妙な一手が動き始めていた。
「な……なんだ、これは……」
若松屋の入り口に、大人ほどの大きさがある『招き猫』が鎮座していた。
屏風絵からそのまま抜け出してきたような、異様な存在感を放つ造形。
極彩色の色彩が通りを歩く人々の目を釘付けにしている。
通行人は皆、驚きをもって足を止め、中には縁起物だとばかりに像を撫でていく者すらいた。
「これも……勘太の仕業か」
裏口へ回り、奥の部屋へ踏み込む。
中には勘太の姿はなく、主人の清二が帳簿をつけていた。
「清二、勘太はいないのか?」
「これは道広様。勘太さんなら『糧屋』へ向かわれましたよ」
「かてや……?」
「ああ、まだご存じありませんでしたか。
握り飯を売っている店のことです。
元々は『茶屋』という名でしたが、看板もなく名前だけでは
何の店か分からぬと勘太さんが指摘されまして。
それで糧を売る店……『糧屋』と改めたのです。
うちの前の招き猫はご覧になりましたか?
あちらも看板やら外装が様変わりしておりますよ」
「やはり勘太か。奴は一体何を企んでいるんだ」
「なんでも、『市場調査』が一段落したゆえ、
これからは『暖簾』を強化する段階だとか。色々と新しくなっておりますよ」
「あんな猫の像を置く意味があるのか? 確かに人目は引くが、本当に客寄せになっているのか」
「劇的とは言えませんが、確かに効いております。
あれを目当てに来られる方もおいでですし、
何より商人の間では『縁起が良い』と商談の場に使ってくださる方も増えました」
「なるほど、縁起か」
「私ら商人は、そういうゲン担ぎを重んじますからね。
まあ、あのような巨大な猫を店の前に置こうなどという奇策、誰にも思いつきませんが」
清二がくっくっと笑う。
それはそうだろう。
松前どころか、江戸の町を探してもあんな奇抜な店はないはずだ。
(待てよ。……そういうことか)
『若松屋といえば招き猫』。
強烈な印象を植え付け、他店との違いを町人たちの脳裏に刻み込もうとしているのか。
「この分だと、糧屋の方でも何かやっているのだろうな」
「ええ、あちらも面白いことになっておりますよ。ぜひ、お立ち寄りください」
---
俺は促されるまま、『糧屋』へと足を運んだ。
「なんだ、この行列は……」
糧屋の前には、以前とは比べ物にならぬ人だかりができていた。
店の正面、高い位置には、でかでかと握り飯の絵が描かれた看板が掲げられ、
その横に大きく『糧屋』と記されている。
なるほど、これなら遠目からでも「ここで飯が買える」と一目で分かる。
店の中に入ると、若松屋のような華やかさはないが、不思議と落ち着く空間になっていた。
客たちは茶を飲みながら談笑しており、以前の殺伐とした空気は微塵もない。
「これは、道広様。よくおいでくださいました」
俺が店を見回していると、主人が寄ってきた。
「ああ。勘太はいるか」
「はい、奥の間に」
「分かった。邪魔したな」
俺は奥の部屋へと踏み込んだ。
そこでは勘太が、これまでに見たこともないほどの勢いで筆を走らせていた。
「勘太、少しいいか」
「あれ、道広様。どうされました?」
「学校のことで相談がある。
……次期藩主としてふさわしい教養を身につける必要があるのは理解した。
だが、毎日これだけでは……。
何か他に、俺にやれることはないのか?」
「ないことはないですが……。良いのですか?
お勉強だけで済むのは、今のうちだけですよ。
すぐに自由に出歩く時間すらなくなりますが」
「む……。そうなのか」
不敵な言葉に、俺は思わずたじろぐ。
「ええ。今は謹慎中ですが、それが解けて城に戻られれば、今のように自由には動けません。
加えて何らかの役目も任されるでしょうし。
……お父上が下された『謹慎』という沙汰には、
今のうちだけでも自由にさせてやりたいという親心があったのではないでしょうか」
「父上が、そんなことを……?」
「まあ、俺の推測に過ぎませんが。
道広様の奔放さを考えれば、城に詰め切りで政務に当たる生活には耐えられぬと思われたのでしょう。
かといって、次期藩主を野放しにはできぬ。
そこで謹慎という名目を与え、城の外で世界を見せようとした……。
幸い、道広様には謹慎を言い渡すに足る、立派な『失敗』もありましたしね」
「確かに。そう考えると、父上のらしくない強硬な態度も合点がいくが……」
「考えたところで答えは出ません。
知りたければ、いずれ直接聞けば良いのです。
変に思い違いをして、確執を深めるよりはマシでしょう」
「そうだな。機会があれば、そうしよう」
「そうしてください」
勘太はあっさりと言い切り、再び手元の書付に目を戻した。
そこには見慣れぬ単語と、夥しい数の数字が並んでいた。
「ところで……それは何を書いているんだ?」
「これですか? これは酒屋の帳簿です」
「はあ? なぜそんなものがここにあるのだ」
「預かっているのですよ。酒屋だけではありません。飯屋に魚屋、乾物屋のものもございます」
「待て待て、お前は何を企んでいる。なぜ他人の店の帳簿などを……」
「何って、再建ですよ。困っているのは皆、同じですからね。
帳簿を確認して、どこに無駄があり、どこを直すべきか、問題点を洗い出しているところです」
「みんな同じだと……?
それを、これらすべての店で、ここや若松屋と同じような改革をするつもりか?」
机の上には、十を超える帳簿が積まれていた。
「少し違いますね。
何をするかは、困窮している原因によって変わります。
まあ、利益が出るように立て直すという点では同じですが」
「そんなことが可能なのか? しかも、これほど大量に……」
「はは、任せてください。
どちらかと言うと、これこそが俺の本業、本来の生業ですから」
……こいつは、一体何者なのだ。
俺と変わらぬ歳でやれることではない。
どう考えても異常だ。
しかも、これが本業だというのか。
では、これまでのは一体何だったというのだ。
「いつの間に、そんな店の主人たちと接触したんだ」
「大半は、若松屋の常連さんですよ。
その紹介や、噂を聞きつけて来られた方です。
あの若松屋の繁盛ぶりを見れば、俺の言葉にも説得力が出ますからね。
清二さんにも強く口添えいただきましたし」
「……あれも撒き餌だったか。いったい、お前はどこまで先を読んでいるんだ」
「別に、そんなに先を読んでいるわけじゃありませんよ。少しだけですよ、少しだけ」
「少しだけ、か……」
その「少し」が、俺の認識している物差しとは大きくズレていることだけは、嫌というほど理解できた。
「これらの店からは、立て直しを手伝う代わりに、
定額で『差配の手料(コンサル料)』をいただく契約になっています。
これが上手くいけば、俺たちの当座の資金を賄えるようになります。
いつまでも道広様に出していただいたり、若松屋の蓄えを持ち出すわけにはいきませんからね。
自分でも稼がないと」
そう言って笑う勘太の瞳は、爛々と燃えていた。
あの日、海辺で本音で向き合って以来、
こいつは松前に来たばかりの頃とは別人のように、精力的に動き出した。
まるで水を得た魚のようだ。
その姿は確かに頼もしかったが……同時に、得体の知れない恐怖を禁じ得なかった。
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