第二章 十年
十年という時間は、魔王との戦いに比べれば驚くほど静かに過ぎていった。
世界は少しずつ魔王軍の傷跡から立ち直った。
壊された町は再建され、荒れ果てた畑にも作物が戻り、魔物に怯えて閉ざされていた街道には商人たちの馬車が行き交うようになった。
レオンは時折、王都から頼まれて若い騎士たちの指南をした。
それ以外の時間はほとんど湖畔の家で過ごしていた。
朝は畑をいじり、昼は町へ買い物に行き、夜になればリュシアと食卓を囲む。
そんなある朝。
「……増えたな」
洗面台の前で、レオンは自分の顔を見つめていた。
目尻に細い線がある。
額にも以前はなかった皺が刻まれている。
髪の中には、一本だけ白いものも混じっていた。
「何が?」
リュシアが後ろから覗き込む。
「皺」
「ああ」
「ああ、じゃないだろ」
「三十八歳でしょう? 人族なら普通じゃない」
「お前は?」
「百二十七歳」
「それでその顔かよ」
並んで鏡を見る。
どう考えても、リュシアの方が若く見える。
人族なら二十歳を少し過ぎた程度だ。
十年前と、ほとんど変わっていない。
「ずるいな、エルフ」
「何が?」
「老けない」
「老けるわよ」
「いつだ」
「ゆっくり」
「便利な言葉だな」
レオンが笑う。
そのときはまだ、本気で気にしてはいなかった。
夕方、納屋から昔の剣を持ち出した。
魔王を倒した聖剣ではない。
若い頃、冒険者だった時代に使っていた普通の鋼剣だった。
庭に立ち、久しぶりに構える。
一閃。
二閃。
三閃。
身体は覚えている。
剣筋も衰えていない。
だが十回ほど振ったところで、息が上がった。
「……ん?」
レオンは胸を押さえた。
昔なら百回振ったところで呼吸など乱れなかった。
「どうしたの?」
庭の端で薬草を摘んでいたリュシアが顔を上げる。
「何でもない」
反射的に答えた。
もう一度剣を振る。
肩がわずかに重い。
腿の筋肉も、昔ほど素直についてこない。
レオンは歯を食いしばって続けた。
「無理しない方がいいわよ」
「無理なんかしてない」
「そう?」
「久しぶりだから身体が鈍ってるだけだ」
それは半分、本当だった。
だが半分は違う。
夕食のあと。
レオンは倉庫から一冊の古い魔法写真帳を持ち出した。
魔王討伐の旅の途中で撮った写真が収められている。
二十代だった自分。
まだ僧侶服が新品だったカイン。
若い豹獣人特有の艶のある毛並みをしたガルド。
そしてリュシア。
現在のリュシア。
ほとんど同じだった。
「何見てるの?」
「昔の写真」
隣に妻が腰を下ろす。
「懐かしいわね」
「お前、本当に変わらないな」
「そう?」
「そうだよ」
レオンは自分の顎を触った。
「俺だけ親父になったみたいだ」
「親父よ」
「そこは否定しろ」
リュシアが笑う。
レオンも笑った。
しかしその晩。
妻が眠ったあとも、彼はしばらく起きていた。
自分の手を見る。
まだ剣を握れる。
まだ走れる。
まだ妻を抱き上げることだってできる。
何も問題はない。
なのに、胸の奥にほんの小さな棘が刺さった。
十年。
自分は確かに十年老いた。
妻は、ほとんど老いていない。




