第一章 魔王を倒した、その翌年
魔王を倒した勇者レオンが、次に戦うことになった相手は、焦げついた目玉焼きだった。
「……レオン。それ、食べるつもり?」
背後から呆れた声が飛んできた。
振り返れば、腰まで届く銀色の髪を寝癖のまま垂らした女が、戸口にもたれてこちらを見ている。尖った耳。透き通るような肌。百人に聞けば百人が絶世の美女と答えるだろう。
その女――エルフの大魔法使いリュシアは、つい一年前まで勇者レオンと共に魔王軍を相手に世界中を駆け回っていた。
そして今は、彼の妻だった。
「食べる。食べ物を粗末にするなって、昔お前も言ってただろ」
「炭を食べ物に含めるならね」
「卵の部分はまだ残ってる」
「黒いけど」
「……勇者を舐めるな。これくらいなら食える」
「魔王に勝った人が目玉焼きに負けるのは嫌よ、私」
そう言いながらも、リュシアは笑っていた。
レオンも笑う。
魔王城で最後の一撃を放ったときよりも、こんな朝の方が幸せだと思えた。
世界を救った英雄には、王都に屋敷を与えるという話もあった。爵位も領地も用意すると国王は言った。
だがレオンはすべて断った。
代わりに望んだのは、王都から馬車で三日ほど離れた湖畔の町にある小さな家だった。
二階建てで、庭がある。
魔王討伐の報奨金があれば城ほどの屋敷だって建てられたが、二人にはこれで十分だった。
「今日はカインたちが来るんだろ?」
「昼過ぎって言ってたわ」
「なら魚でも買ってくるか」
「お願い。その前に、その炭は捨てなさい」
「食う」
「意地にならなくていいのに」
かつて世界最強と呼ばれた男は、真っ黒な目玉焼きを口へ押し込み、盛大に顔をしかめた。
◇
昼過ぎ。
「勇者様が自分で玄関を開けるなんて、ずいぶん庶民的になったものですねえ」
朗らかな声と共に家に入ってきたのは、元勇者パーティの僧侶カインだった。
人族の男で、レオンより二歳年上。魔王討伐の旅では回復魔法と補助魔法を一手に担っていた。
その後ろには、巨大な肉の塊を抱えた豹獣人の男が立っている。
「土産だ」
「でかすぎるだろ、ガルド」
「祝い事だろう」
「何の祝いだ」
「久しぶりに四人で飯を食う祝いだ」
ガルドは真顔で答えた。
豹の頭部を持つ大柄な獣人である。剣士としての腕はレオンと並び、魔王軍の四天王を一騎打ちで倒した猛者だった。
「相変わらず意味が分からないわね」
リュシアが苦笑しながら肉を受け取る。
「だが嫌いじゃない」
レオンが言う。
「だろう」
その日、四人は日が沈むまで食べ、飲み、笑った。
話題になるのは昔のことばかりだった。
「覚えてますか。レオンが飛竜の背中から落ちたとき」
「落ちてない。飛び降りたんだ」
「地面に頭から刺さっただろう」
「着地を失敗しただけだ」
「それを落ちたと言うのよ」
三人に笑われ、レオンが酒の杯を睨む。
「お前ら、魔王を倒した勇者に対して敬意が足りないぞ」
「魔王を倒せたのは私たちがいたからでしょう?」
「回復してやった回数なら千回を超えるな」
「俺は二千回くらいお前の前に立った気がする」
「分かった。もういい」
レオンは肩を落とした。
それでも口元は笑っている。
魔王を倒した。
世界は救われた。
もう誰も、明日死ぬかもしれないと思いながら眠る必要はない。
これから先は、こういう毎日が続く。
四人は誰もが、そう思っていた。
「それにしても」
カインが酒を飲みながら言った。
「レオンが最初に結婚するとは思いませんでしたね」
「俺もだ」
「本人まで言うの?」
リュシアが眉を上げる。
「いや、旅をしてた頃のお前、俺に興味なさそうだっただろ」
「そんなことないわよ」
「俺が告白したとき『考えておく』って言ったじゃないか」
「五年の旅を一緒にした相手に突然結婚してくれと言われたのよ。少しくらい考えるでしょう」
「返事まで三日かかった」
「たった三日じゃない」
「俺には三年くらいに感じた」
「大げさね」
ガルドが鼻を鳴らした。
「平和だな」
その言葉に、全員が黙った。
そして笑った。
「ああ」
レオンは妻を見た。
「これからのほうが長いんだからな」
何気なく言った言葉だった。
リュシアだけが、一瞬だけ笑みを消した。
レオンは気づかなかった。
その夜も、四人は遅くまで酒を飲んだ。




