第十五章 少年
春の午後だった。
リュシアは庭で薬草を植え替えていた。
玄関を叩く音がした。
「はい」
手袋を外しながら扉へ向かう。
町の子供だと思った。
扉を開ける。
見知らぬ少年が立っていた。
十歳くらい。
茶色い髪。
灰色の瞳。
人族。
旅装束は埃だらけで、背中には子供用の小さな鞄を背負っている。
「どうしたの?」
少年は答えなかった。
ただリュシアを見上げる。
「道に迷った?」
少年の唇が震えた。
泣きそうな顔をしている。
「お父さんかお母さんは?」
少年は首を振った。
そして。
「……ただいま」
世界から音が消えた。
リュシアの手から手袋が落ちる。
少年も泣いていた。
「ただいま」
もう一度言う。
「遅くなった」
リュシアは動けない。
十年間。
何千回も想像した。
本当に帰ってきたらどうするか。
転生者を名乗る者が来たらどう見分けるか。
レオンなら何と言うか。
考えていたはずなのに。
何一つ言葉が出ない。
「……誰?」
ようやくそれだけを言った。
少年が笑う。
「そりゃそう言うよな」
その笑い方。
一瞬だけ。
胸が締めつけられた。
「名前は?」
「今はルカ」
「今は?」
「前はレオンだった」
リュシアは一歩下がる。
「証拠は」
「ある」
「言って」
「魔王城の話?」
「そんなもの、世界中に本が出てる」
「じゃあカインが飛竜から落ちた話」
「レオンが落ちたのよ」
「あれは飛び降りたんだ」
リュシアの口が開いた。
少年が笑う。
「着地を失敗しただけだ」
「……」
「お前、ずっと落ちたって言ってたよな」
リュシアの膝が震える。
「それだけじゃない」
「新婚初日に俺が目玉焼きを焦がした」
「……」
「お前が炭は食べ物じゃないって言った」
「それも、誰かに話したかもしれない」
「話してないだろ」
「もっと」
少年は困った顔をした。
「何だよ。夫婦の秘密を十歳のガキに言わせる気か」
「あなたが十歳でしょう!」
思わず叫ぶ。
少年が目を丸くする。
そして二人同時に笑った。
笑ったあと、また泣いた。
「じゃあ」
少年が言う。
「寝る前だけ、お前は俺のことレオって呼んでた」
リュシアの息が止まる。
「誰にも言ってない」
「知ってる」
「誰にも」
「ああ」
「カインにも、ガルドにも」
「知ってる」
少年の目から涙が落ちる。
「俺しか知らない」
リュシアの足から力が抜けた。
膝をつく。
少年と目線が同じ高さになる。
手を伸ばす。
抱きしめようとして。
止まった。
目の前にいるのはレオンだ。
そう思う。
だが同時に。
十歳の少年でもある。
「どうした?」
「……分からない」
「何が」
「あなたが、あなたなのか」
少年は黙った。
「顔が違う。声が違う。身体も違う」
「うん」
「あなたなの?」
少年は少し考えた。
「俺も分からない」
リュシアが顔を上げる。
「記憶はある」
「全部?」
「いや」
少年は首を振る。
「穴だらけだ。魔王と戦った記憶より、ここで暮らした記憶の方が多い」
「……」
「カインの顔は覚えてる。でも声が思い出せない。ガルドの笑い方も忘れた」
少年は自分の胸に手を当てた。
「今の父さんも母さんも好きだ」
「両親がいるの?」
「ああ」
「じゃあ、どうしてここに」
「十歳になった誕生日に、急に思い出した」
「何を?」
「この家を」
少年――ルカは家を見上げた。
「湖。庭。暖炉。お前」
そして笑った。
「帰らなきゃ、って思った」
「ご両親は?」
「話した。信じてもらうまで大変だったけど」
「そりゃそうでしょうね」
「旅費を出してくれた」
「一人で来たの?」
「途中までは父さんが一緒だった。町の宿屋にいる」
「……ちゃんとしたご両親ね」
「うん」
リュシアは目を閉じた。
レオンではない。
でも、レオンでもある。
黄金の林檎。
古い木から新しい木につながった枝。
あのときレオンは言った。
『同じ木じゃない』
老婆は答えた。
『なら、どこから違う木なのでしょう』
今。
その答えが目の前にいる。
「遅かったわ」
リュシアが言った。
「え?」
「十年」
少年が苦笑する。
「ごめん」
「本当に遅い」
「赤ん坊じゃ歩けないだろ」
「五歳くらいで来られなかったの?」
「無茶言うなよ」
その言い方。
間違いないと思った。
完全に同じではない。
でも。
確かに、あの人から繋がっている。
リュシアは今度こそ少年を抱きしめた。
昔よりずっと小さい身体だった。
少年も戸惑いながら、リュシアの背中に腕を回した。
「おかえり」
十年間。
言えなかった言葉だった。
「レオン」
少年はしばらく黙っていた。
それから、小さく答えた。
「ただいま」




