5−2.
夜になっても、雨は止まなかった。
窓ガラスを叩く音が激しい。
アネットは落ち着かないまま、自室を何度も歩き回っていた。
「・・・・・遅い。」
北地区は屋敷から距離がある。
しかもこの悪天候だ。
心配しない方がおかしい。
だが同時に、別の感情も胸の中に渦巻いていた。
昼間の言葉。
『浅い感情論。』
思い出すだけで胸が痛む。
自分が未熟なのは分かっている。
けれど、あんな言い方をしなくても良かったのに。
その時だった。
廊下が少し騒がしくなる。
使用人達の声。足音。
アネットは慌てて部屋を出た。
エントランスへ向かう。
そこにはびしょ濡れのイーサンが立っていた。
「旦那様!」
アネットが駆け寄る。
黒髪から雫が落ちる。
礼服も泥で汚れていた。
ロビンが後ろで深いため息を吐いている。
「だから申し上げたのです。この天候では危険だと。」
「問題なかった。」
「全身濡れている時点で問題大有りです。」
ロビンの小言を聞き流しながら、イーサンは手袋を外した。
そして短く言う。
「橋は補強する。」
アネットが目を見開く。
「え・・・。」
「想定より傷んでた。」
淡々とした口調だった。
わざわざこの雨の中を確認しに行った理由は明白だった。
きっかけはアネットだったからだ。
アネットは胸が詰まる。
「・・・無茶しすぎです。」
「別に。」
「別にじゃありません!」
思わず声が大きくなる。
使用人達がびくりと肩を震わせた。
ロビンが静かに周囲へ目配せする。
「皆、下がりなさい。」
使用人達は慌てて散っていった。
広いエントランスに三人だけが残る。
アネットはイーサンを睨んだ。
「こんな雨の中怪我をしたらどうするんですか!風邪を引いたかも!」
「怪我などしない。風邪も引かん。」
「子供みたいな事言わないでください!」
イーサンがわずかに眉をひそめる。
「何を怒ってる。」
「怒りますよ!」
アネットは胸の奥がぐちゃぐちゃだった。
昼間はあんなに冷たい言い方をしたくせに。
なのに。
自分の言葉をちゃんと聞いて。
危険な雨の中、確認へ行って。
そんな事をされたら、イーサンが余計に分からなくなる。
「旦那様はいつもそうです!」
「・・・は?」
「何考えてるのか全然分からないし、言葉も足りないし!」
ロビンが少し目を見開く。
アネットは止まらなかった。
「冷たい事ばっかり言うくせに、急にこういう事するから・・・!」
声が震える。
イーサンは黙ってアネットを見ていた。
「私はっ・・・!」
そこで言葉が詰まった。
泣きたくなんてなかった。
なのに。
昼間から我慢していた感情が一気に溢れる。
「・・・心配、するでしょう・・・。」
ぽろり、と涙が落ちた。
静寂。
ロビンが息を呑む気配がした。
アネット自身も驚いていた。
また泣いてしまった。
しかも今度はイーサンの前で。
「・・・見ないでくださいっ!」
顔を隠そうとした瞬間。
イーサンの手が伸びる。
濡れた指先が、アネットの頬へ触れた。
涙を拭うように。
「泣くな。」
低い声だった。
怒ってはいない、困ったような、戸惑ったような声音。
アネットは余計に涙が出そうになった。
「誰のせいだと思ってるんですか・・・!」
「・・・悪かった。」
その一言に、ロビンが目を見開いた。
イーサンが素直に謝るのは珍しい。
アネットも驚いていた。
イーサンは静かに続ける。
「言い方が悪かった。」
雨音だけが響く。
アネットは唇を噛んだ。
胸が苦しい。
優しくされると困る。
冷たいままの方が楽なのに。
こんな風に歩み寄られると、期待してしまいそうになる。
それが怖かった。
「・・・私はーー」
アネットは震える声で言う。
「旦那様に認めてほしかったわけじゃありません。」
「ああ。」
「でも、少しくらい話を聞いてほしかった。」
イーサンは何も言わなかった。
ただ静かにアネットを見る。
その青い瞳は、不思議なくらい真っ直ぐだった。
「・・・聞いてる。」
短い声。
それだけなのに。
アネットの胸がまた熱くなる。
ロビンは少し離れた場所で二人を見ていた。
妙な気分だった。
旦那様が誰かを慰める姿なんて、ほとんど見た事がない。
しかも相手はアネットだ。
イーサン本人は気づいていないだろう。
だが、確実に変わり始めている。
「旦那様。」
ロビンが静かに声をかける。
「そのままでは本当に風邪を引きます。」
イーサンが小さく息を吐いた。
「・・・ああ。」
そしてアネットへ視線を落とす。
「お前も冷える。部屋へ戻れ。」
アネットは目元を拭いながら、小さく頷いた。
「・・・はい。」
そのまま背を向ける。
けれど去り際。
不意にイーサンがぽつりと言った。
「お前の意見は、今後も聞く。」
アネットが振り返る。
イーサンはもうロビンへ次の指示を出していた。
いつもの無愛想な伯爵へ戻っている。
けれど、その言葉だけで胸の奥がじんわり熱くなった。
雨はまだ降り続いていた。
それなのに何故かアネットの心の中だけは、少しだけ温かかった。




