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愛さない事を誓いなさい。  作者: 鈴木べにこ


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第5話 雨の日の本音

 朝から強い雨が降っていた。


 窓を叩く雨音は激しく、空も薄暗い。


 ウェルズリー伯爵邸はいつも静かだが今日は余計に冷えて感じた。



「奥様、本日の予定です。」



 執務室でロビンが淡々と紙を差し出す。



「午前は孤児院支援金の確認。午後は北地区の修繕報告の整理となります。」


「分かったわ。」



 アネットは椅子へ座りながら書類を受け取った。


 アネットの伯爵夫人の仕事にも少しずつ慣れてきた。


 帳簿を見る速度も上がったし、使用人達とも自然に会話できるようになっている。


 けれどーー



「・・・この修繕費、少なくない?」



 アネットが眉をひそめる。



「北地区の橋って、この前の視察でかなり傷んでいたでしょう?」


「ええ。」


「なのに予算が足りないわ。」



 ロビンは静かに答える。



「旦那様が別件を優先されたためです。」


「別件?」


「西地区の道路整備です。」



 アネットは書類を見比べた。


 確かに西地区の予算は増えている。


 だが北地区の橋は放置すれば危険だ。



「橋の方が先では?」


「西地区は物流の中心です。道路整備が遅れれば領地全体へ影響が出ます。」


「でも橋が崩れたら人が怪我をするかもしれないでしょう?」


「可能性の話です。」


「可能性でも危ないものは危ないわ。」



 ロビンが少し目を細めた。



「旦那様は最も効率的な判断をされています。」


「・・・またそれ?」



 思わず口から出る。


 ロビンはいつもそうだ。


 イーサンの判断を絶対に否定しない。



「奥様。」


「私は旦那様を責めたいわけじゃないの。ただ――」


「感情論です。」



 以前にも言われた言葉にアネットはムッとする。



「領民を心配するのは感情論なの?」


「経営には優先順位があります。」


「だからって危険を放置していい理由にはならないでしょう!」



 その瞬間、執務室の扉が開いた。



「騒がしいな。」



 イーサンだった。


 空気が止まる。


 ロビンが即座に頭を下げた。



「申し訳ありません。」



 イーサンはゆっくり二人を見る。



「何だ。」



 ロビンが簡潔に説明する。



「北地区の修繕予算について、奥様と意見が分かれまして。」



 イーサンは書類を手に取り、そして短く言った。



「問題ない。」



 即答だった。


 アネットは思わず顔を上げる。



「でも橋が――」


「崩れない。」


「絶対なんてないでしょう?」


「職人に確認済みだ。」



 淡々とした声。


 まるで議論を終わらせるようだった。


 アネットは引き下がれなかった。



「もし何かあったら?」


「その時は対応する。」


「後手に回るんですか?」



 空気が冷える。


 ロビンが青ざめた。



「奥様。」



 止めようとしたのだろう。


 だがアネットは止まらなかった。



「領民が怪我をしてからじゃ遅いです!」



 イーサンの青い瞳が静かに細まる。



「・・・お前は」



 低い声だった。



「数日帳簿を見ただけで、俺の領地運営に口を出すのか。」



 アネットが息を呑む。



「そういう意味じゃ――」


「現場も見た。数字も確認した。その上で決めてる。」



 冷たく、氷みたいな声のイーサン。



「お前の浅い感情論で判断してない。」



 胸が痛んだ。


 分かっている。


 イーサンは感情的になっているわけじゃない。


 事実を言っているだけだ。


 それでも、“浅い”と言われた言葉が刺さった。



「私はっ!」


「中途半端な同情で口を挟むな。」



 その一言で。


 アネットの中の何かが切れた。



「・・・っ!」



 喉が熱くなる、視界が滲む、泣くつもりなんてなかった。


 なのに、母の顔が浮かんだ。



『お前は余計な事を考えなくていい。』


『黙って従っていればいい。』



 昔、父が母へ向けていた冷たい声。


 それが一瞬重なった。



「・・・失礼します。」



 アネットは立ち上がる。


 顔を見られたくなかった。


 そのまま部屋を飛び出す。



「奥様!」



 ロビンの声が聞こえた。


 だが振り返れない。


 廊下を早足で歩く、そうしないと涙が零れそうだった。



「(何で泣いてるのよ・・・。)」



 悔しかった。


 イーサンの言葉が正しいのは分かっている。


 自分はまだ領地運営を学び始めたばかりだ。


 なのに偉そうに口を出した。


 それは事実だ。


 けれど、少しくらい話を聞いてほしかった。


 少しくらい。


 頭ごなしに否定しないでほしかった。


 自室へ戻る。


 扉を閉めた瞬間、ぽろりと涙が落ちた。



「・・・最低。」



 泣くなんて子供みたいだ。


 そう思うほど、涙は止まらなかった。



 一方、執務室では重い沈黙が落ちていた。


 ロビンが静かに口を開く。



「言い過ぎです、旦那様。」



 イーサンは何も答えない。


 ただ書類を見ている。


 だがペンは動いていなかった。



「奥様は領民を心配されていただけです。」


「分かってる。」


「なら何故。」


「・・・感情で判断されるのが嫌いなんだ」



イーサンは小さく息を吐いた。



「一つの判断ミスで、何百人も困る。」



 ロビンは黙る。


 それはイーサンらしい考えだった。


 誰より責任を背負っているからこそ、合理性を求める。



「奥様は旦那様を否定したかったわけではありません。」


「・・・ああ。」



 イーサンは視線を伏せる。



「分かってる。」



 その時だった。


 外で雷が鳴る。激しい雨音が響く。


 イーサンは数秒黙った後、立ち上がった。



「旦那様?」


「北地区へ行く」


「この雨でですか!?」


「橋を確認する。」



 ロビンが目を見開く。


 イーサンはそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。




 夕方。


 雨はさらに強くなっていた。


 アネットは窓辺に座ったまま動けずにいた。


 泣き止んではいたが胸が重い。


 その時、扉がノックされる。



「・・・はい。」


「ロビンです。」



 入ってきたロビンは、珍しく少し焦った顔をしていた。



「奥様」


「何?」


「旦那様が北地区へ向かわれました。」



 アネットが顔を上げる。



「え?」


「橋の確認へ。」



 心臓が跳ねた。



「この土砂降りの雨の中で!?」


「はい。」



 ロビンは静かに続ける。



「・・・旦那様は、奥様の言葉を無視されたわけではありません。」



 アネットは言葉を失う。


 窓の外では激しい雨が降っている。


 イーサンは危険だと分かっていて向かったのだ。


 確認するために、自分の判断が正しいか、本当に問題ないのか。


 その事実に、胸がぎゅっと締め付けられた。



「旦那様は不器用です。」



 ロビンがぽつりと言う。



「ですが、他人の言葉を聞かない方ではありません。」



 アネットは静かに唇を噛む。


 胸の奥が熱かった。


 悔しくて。


 苦しくて。


 でも同時に、少しだけ嬉しかった。

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