第6話 変わり始めた心
雨の日の一件以来。
アネットは妙にイーサンを意識するようになっていた。
別に特別優しくされたわけではない。
相変わらず無口だし、愛想もない。
会話だって必要最低限。
それなのにーー
『・・・悪かった。』
『お前の意見は、今後も聞く。』
あの言葉が頭から離れない。
「・・・重症だわ。」
朝、自室の鏡を見ながらアネットは小さく呟いた。
契約結婚。
愛し合わない関係。
自分はそれを望んだはずなのに。
最近の自分は少しおかしい。
イーサンが近くにいると落ち着かないし、声を探してしまう。
まるで恋をしているみたいだった。
「ないないない!」
慌てて首を振る。
そんなわけがない。
これはきっと、“安心”だ。
イーサンは無理に愛を押し付けてこない。期待もしない。だから一緒にいて楽なだけ。
そう。
きっとそれだけ。
「奥様。」
ノック音と共にロビンの声がした。
「朝食のお時間です。」
「今行くわ。」
アネットは気持ちを切り替え、部屋を出る。
食堂へ向かう途中。
使用人達とすれ違うたびに挨拶を交わした。
「おはようございます、奥様。」
「おはよう。」
以前より屋敷の空気は柔らかい。
それはアネット自身も感じていた。
食堂へ入ると、既にイーサンが席についていた。
新聞を読んでいる。
いつも通りの無表情。
アネットは少しだけほっとした。
いつものイーサンだ。
「おはようございます、旦那様。」
「・・・ああ。」
短い返事。
なのにそれだけで胸がざわつく自分が嫌になる。
ロビンが朝食を並べていく。
温かなスープ、焼きたてのパン、静かな朝。
「今日の予定は。」
ロビンの言葉にイーサンが新聞から目を離さず言った。
「午前は商会との打ち合わせです。午後は――」
ロビンが説明を始める。
アネットも資料へ目を通した。
「東地区の市場視察?」
「ええ。」
ロビンが頷く。
「最近、新しい商人が増えておりますので。」
「お前も来るか?」
不意にイーサンが言った。
アネットは目を瞬かせる。
「私も?」
「嫌ならいい。」
「いえ、行きます。」
即答してしまってから、アネットは少し気まずくなる。
まるで嬉しそうだった気がした。
イーサンは気づいていないのか、淡々とコーヒーを飲む。
ロビンだけが静かに二人を見ていた。
そして、訪れた市場は活気に満ちていた。
「伯爵様だ!」
「奥様もいらっしゃる!」
領民達が次々声をかけてくる。
イーサンは相変わらず必要最低限しか喋らない。
だが以前よりアネットは分かるようになっていた。
彼はちゃんと見ている。
店の品揃え。客の流れ。物価。
全部確認している。
「最近、果物の値段が上がってるわね。」
アネットが呟くと、イーサンが短く答える。
「輸送量が減った。」
「雨の影響ですか?」
「ああ。」
自然に会話が続く。
それだけで、アネットの胸が少し温かくなった。
その時だった。
「イーサン様!」
明るい声が響く。
振り返ると、一人の女性が駆け寄ってきた。
美しい栗色の髪。
華やかな笑顔。
年はアネット達と同じくらいだろうか。
「久しぶりですわ!」
女性は嬉しそうにイーサンを見る。
イーサンの眉がわずかに動いた。
「・・・セシリアか。」
知り合いらしい。
しかも名前呼びだ。
アネットの胸が少しざわつく。
「王都以来ですわね。お元気そうで安心しました。」
「・・・ああ。」
「まあ、こちらが奥様?」
セシリアがアネットを見る。
「初めまして。セシリア・フォードです。」
「アネット・ウェルズリーです」
笑顔で挨拶を返す。
だが胸の奥が落ち着かなかった。
「イーサン様は昔から女性に興味がなくて。」
セシリアがくすくす笑う。
「まさか結婚されるなんて驚きましたわ。」
親しげだった。
距離感が近い。
昔からの知り合いなのだろう。
「お二人は仲がよろしいのですね。」
アネットが言うと、セシリアは楽しそうに頷いた。
「幼馴染なんです。」
その瞬間、何故か胸がちくりと痛んだ。
幼馴染。
自分の知らないイーサンを知っている女性。
そう思っただけで、妙に落ち着かない。
「イーサン様って、昔は本当に怖かったんですよ?」
「余計な事を言うな。」
「あら本当ですのに。」
セシリアは楽しそうに笑う。
イーサンも迷惑そうではあるが、追い払ったりはしない。
アネットはそれを見て、胸の奥が少し重くなる。
「(・・・変なの。)」
契約結婚なのに。
自分には関係ないのに。
「では私はこれで」
セシリアが微笑む。
「またお会いしましょうね、イーサン様。」
「ああ。」
女性が去っていく。
アネットは何故かその背中を目で追ってしまった。
その後もしばらく、市場を歩いた。
けれどアネットは妙に静かだった。
ロビンがちらりと様子を見る。
「奥様?」
「え?」
「お疲れですか。」
「ううん、大丈夫。」
笑顔を作る。
だがロビンは気づいていた。
先ほどからアネットの視線が、無意識にイーサンへ向いていることを。
帰りの馬車。
沈黙が続く。
イーサンは窓の外を見ていた。
アネットは迷った末、口を開く。
「・・・旦那様。」
「何だ。」
「セシリア様って、綺麗な方ですね。」
「そうか。」
それだけ。
アネットは少しムッとした。
普通、もう少し何かないだろうか。
「仲が良いんですね。」
「昔から知ってるだけだ。」
「ふうん・・・。」
自分でも驚くほど素っ気ない声が出た。
イーサンがちらりとアネットを見る。
「何だ。」
「別に。」
アネットは窓の外へ顔を向けた。
胸がもやもやする。意味が分からない。
その時。
「・・・変な顔してるぞ」
「え?」
「機嫌悪いのか。」
アネットは言葉に詰まる。
図星だった。
「そんな事ありません。」
「そうは見えん。」
イーサンは静かにアネットを見る。
真っ直ぐな青い瞳。
逃げ場がない。
アネットは耐えきれず視線を逸らした。
「・・・少しだけ。」
「何が。」
アネットは初めて気づく。
自分が何に引っかかっていたのか。
イーサンが他の女性と親しげに話していたこと。
それが嫌だったのだ。
「(・・・うそ。)」
胸がどくりと鳴る。
あり得ない。
だって自分は、恋愛なんてしたくなかったのに。
愛し合うなんて無理だと思っていたのに。
なのに。
今、自分は。
契約結婚の夫に嫉妬している。




