6−2.
その日の夜。
アネットは自室で一人、頭を抱えていた。
「・・・何をやってるのよ私は。」
ベッドへ顔を埋める。
昼間の自分を思い出すだけで恥ずかしかった。
嫉妬。
どう考えても嫉妬だった。
セシリアと話すイーサンを見て、胸がざわついた。
しかも機嫌の悪さを本人に気づかれるなんて最悪だ。
「契約結婚でしょう・・・・・。」
そう。
これは愛のない関係だ。
三年後には終わる。
だから深入りしないと決めていたのに。
最近の自分は本当におかしい。
イーサンが笑うか気になる。
誰と話しているか気になる。
優しくされると嬉しい。
そんなの、まるで――。
「だめ。」
それ以上考えるのをやめる。
怖かった。
もし本当に恋だったら。
終わりが決まっている相手を好きになるなんて、苦しいだけだ。
コンコン。
ノック音が響く。
「奥様。」
ロビンの声だった。
「紅茶をお持ちしました。」
「・・・どうぞ。」
扉が開く。
ロビンはいつもの無表情でティーワゴンを押してきた。
だがアネットを見るなり、少し眉を寄せる。
「随分酷い顔をされていますね。」
「放っておいて。」
「旦那様と何か?」
アネットがぎくりとする。
「な、何でもないわ。」
「そうは見えません。」
ロビンは淡々と紅茶を注ぐ。
温かな香りが広がった。
「市場から戻ってから様子がおかしいです」
「・・・観察眼鋭すぎない?」
「仕事ですので。」
相変わらずだ。
アネットは苦笑した。
だが少しだけ気持ちが軽くなる。
ロビンは不思議だった。
冷たいのに、時々こうして絶妙な距離で側にいてくれる。
「どうぞ。」
ロビンがカップを差し出す。
アネットは受け取った。
「ありがとう。」
「・・・・・。」
ロビンは少しだけ黙る。
「奥様は。」
「何?」
「本当に変わった方ですね。」
「また?」
「普通の貴族夫人なら、執事にここまで気を遣いません。」
アネットは首を傾げる。
「そうかしら?」
「ええ。」
ロビンは静かに目を伏せた。
昔からそうだった。
執事は道具だ。優秀であればいい。感情など必要ない。
そう扱われるのが普通だった。
乳兄弟とはいえ、イーサン以外で自分を人として扱う者は少なかった。
だがアネットは違う。
『ありがとう。』
『ロビンも休んで。』
『無理しないでね。』
そんな言葉を自然に口にする。
最初は偽善かと思っていた。
けれど違った、彼女は本当にそういう人間なのだ。
「ロビン?」
黙り込んだロビンを、アネットが不思議そうに見る。
「どうしたの?」
「・・・いえ。」
ロビンは小さく息を吐いた。
「奥様は、旦那様の事がお好きなのですか。」
アネットの手が止まる。
カップの中で紅茶が揺れた。
「な、何を突然。」
「違うのですか。」
「違・・・。」
否定しようとして、言葉が詰まる。
ロビンはその反応だけで察した。
胸の奥が少し痛む。
やはりそうなのか、と。
イーサンも、アネットも、少しずつ変わり始めている。
契約結婚のはずなのに。
「・・・困りますね。」
ロビンがぽつりと呟く。
「え?」
「旦那様は面倒な事になるのを嫌う方ですから。」
アネットの顔色が少し変わる。
その反応を見て、ロビンは内心で舌打ちしたくなった。
「(何を言っているんですか私は。)」
傷つけたいわけじゃない。
むしろ逆だ。
傷ついてほしくない。
契約の終わりは決まっている。
だから深入りするなと伝えたかった。
だが、アネットは少し寂しそうに笑った。
「・・・そうよね、愛さない事を誓った仲だし。」
その顔を見た瞬間。
ロビンの胸が妙に苦しくなった。
アネットは泣きそうな顔だった。
無理して笑っている顔。
アネットは、昔鏡の前で感情を殺していた母親のようだと、自身は気づいていないのだろう。
「奥様。」
気づけばロビンは、いつもより柔らかい声を出していた。
「旦那様は、不器用なだけです。」
アネットが目を瞬かせる。
「え?」
「人の感情に鈍いですし、言葉も足りません。」
「・・・それは知ってるわ。」
「ですが、興味のない相手に時間を使う方ではありません。」
ロビンは静かに続ける。
「市場へ奥様を連れて行ったのも、意見を聞くと言ったのも、旦那様なりに信頼しているからです。」
アネットは何も言えなかった。
そんな風に考えた事がなかったから。
「だからーー」
ロビンはほんの少しだけ笑った。
本当に小さな笑みだった。
「そんなに不安そうな顔をしないでください。」
優しい声だった。
アネットは驚く。
ロビンは基本的に厳しく冷たい。
なのに今の言葉は、不思議なくらい温かかった。
「・・・ロビン。」
「何です。」
「今日は優しいのね。」
ロビンは一瞬黙った。
そして小さく息を吐く。
「気まぐれです。」
「ふふ。」
アネットは少し笑った。
胸の中の重苦しさが、ほんの少し軽くなる。
ロビンはそんなアネットを見ながら、静かに目を伏せた。
――救われているのは、自分の方かもしれない。
そう思った。
翌朝。
アネットは寝不足のまま朝食の席へ向かった。
昨夜ロビンに励まされたおかげで気持ちは少し落ち着いた。
けれど問題は解決していない。
むしろ自覚してしまった分、余計に厄介だった。
「(私は旦那様を・・・。)」
考えるだけで顔が熱くなる。
あり得ない。
絶対に駄目だ。
三年後には終わる関係なのに。
そんな相手へ心を寄せるなんて、自分で自分を傷つけるだけだ。
食堂の扉を開ける。
すると既にイーサンが席についていた。
「おはようございます。」
「ああ。」
低い声。
いつも通り。
なのに目が合った瞬間、アネットの心臓が跳ねた。
「(無理無理無理。)」
昨日まで普通に話せていたのに。
意識してしまうと急に駄目になる。
アネットは慌てて席へ座った。
ロビンが静かに朝食を並べていく。
そしてちらりとアネットを見た。
ほんの一瞬、ロビンが自分の顔を指さして何かを伝えて来た。
「(何のこと?私の顔に何か付いてる?)」
イーサンが小さく眉を寄せた。
「どうした。」
「え?」
「顔が赤い。」
アネットはぶわっと熱くなる。
「な、何でもありません!」
「熱か。」
「違います!」
即答しすぎて余計に怪しい。
ロビンが静かに紅茶を注ぎながら、わずかに口元を緩めた。
完全に面白がっている。
「(ロビン・・・!)」
アネットがじとりと睨む。
だがロビンは知らないふりをした。
「奥様。」
「な、何?」
「本日は南棟の倉庫確認があります。」
「そうだったわね。」
「旦那様も同行されます。」
「えっ。」
アネットが固まる。
イーサンは淡々とパンを食べていた。
「問題あるか。」
「い、いえ。」
問題しかない。
今は出来れば距離を置きたかった。
なのに仕事となれば避けられない。
ロビンがさらりと追撃する。
「今日は長時間ご一緒になりますので。」
「・・・そう。」
絶対わざとだ。
アネットは確信した。
一方イーサンは、二人の妙な空気に少しだけ違和感を覚えていた。
特にアネットがおかしい。
目が合うたび逸らされる。
落ち着きがない。
「何かしたか、俺。」
ぽつりと呟く。
ロビンは一瞬吹き出しそうになった。
「いえ、何も。」
「なら何故避ける。」
「さあ。」
ロビンは涼しい顔で答える。
だが、ロビンは内心はかなり複雑だった。
アネットを見ていると守りたくなる。
笑っていてほしいと思う。
昨日泣きそうな顔を見た時は、胸が痛んだ。
それなのに。
アネットがイーサンを見つめる目を見ると、妙に苦しくなる。
「(・・・本当に面倒ですね。)」
自分で思う。
こんな感情は不要だ。
執事失格だ。
それでも、アネットの笑顔一つで救われる自分がいる。
午前。
三人は南棟の古い倉庫へ向かった。
使用頻度の低い建物らしく、人も少ない。
「この辺りは湿気が多いですね。」
アネットが棚を見回しながら言う。
「書類管理には向いてないかも。」
「移動させるか。」
イーサンが短く返す。
自然な会話だった。
以前より確実に増えている。
アネットは嬉しくなる自分に気づき、慌てて気持ちを押し込めた。
だがその時。
「きゃっ――!」
足元が滑る。
古い床板に水が染みていたのだ。
身体が傾く。
次の瞬間。
ぐい、と強い力で腕を引かれた。
「危なっ!」
気づけばイーサンの胸へ倒れ込んでいた。
近い。
近すぎる。
アネットの思考が止まる。
「・・・ちゃんと見ろ。」
低い声が頭上から降る。
イーサンの腕がしっかり腰を支えていた。
心臓が壊れそうなほど鳴る。
「す、すみません・・・!」
慌てて離れようとする。
だがイーサンは少し眉を寄せた。
「顔赤いぞ。」
「だ、大丈夫です!」
「本当に熱あるんじゃないか。」
イーサンはそう言って額へ手を伸ばそうとする。
「っ!!」
アネットは反射的に後ろへ下がった。
イーサンが僅かに目を見開く。
空気が止まった。
「悪い。」
イーサンが静かに手を引く。
アネットはハッとした。
「ち、違うんです!そうじゃなくて!」
だが上手く言葉が出ない。
イーサンは表情を変えない。
「無理するな。今日は部屋で休め。」
「だから違っ・・・。」
「ロビン。」
「はい。」
「アネットを部屋へ。」
「かしこまりました。」
イーサンはそのまま倉庫の奥へ歩いていく。
アネットは立ち尽くした。
胸が痛い、違うのに。
避けたかったわけじゃない。
ただ、触れられたら自分の気持ちが全部バレそうで怖かっただけなのに。
「奥様。」
隣でロビンが静かに声をかける。
アネットは唇を噛んだ。
「・・・最低ね、私。」
「そんな事ありません。」
「でも旦那様、傷ついた顔してた。」
ロビンは少し黙る。
確かに珍しかった。
イーサンがあんな顔をするのは。
「・・・旦那様は。」
ロビンがぽつりと言う。
「奥様が思っているより、奥様に嫌われる事を気にされていますよ。」
アネットが顔を上げる。
「え・・・?」
ロビンはそれ以上何も言わなかった。
ただ静かに、困ったように笑った。




