2−2.
夕刻。
アネットは鏡の前で小さく息を吐いた。
淡い紺色のドレス。
派手すぎず、だが伯爵夫人として不足のない装い。
メイドが最後に髪飾りを整えながら、不安そうに呟く。
「奥様、緊張していませんか?」
「少しだけ。」
今夜は近隣貴族との会食だった。
つまり、“仲睦まじい伯爵夫妻”を演じなければならない。
契約結婚だと知られてはいけない。
屋敷の使用人達は事情を知っている。
だが外部には完全に秘密だ。
「旦那様と仲良く見せないといけませんものね・・・。」
メイドの言葉に、アネットは苦笑する。
「演技なんて得意じゃないのだけれど。」
その時、扉が叩かれた。
「奥様、お時間です。」
ロビンが呼びにきた。
「今行きます。」
部屋を出ると、ロビンはいつも通り完璧な姿勢で立っていた。
黒い燕尾服姿は隙がなく、いかにも優秀な執事という雰囲気だ。
だがアネットを見る目は少し厳しい。
「今夜の会食ですが。」
「はい。」
「旦那様に必要以上に話しかけないでください。」
「はい?」
「旦那様は会食を好まれておりません。無理に愛想よく振る舞わせれば機嫌を損ねます。」
アネットは少し肩を落とした。
「頑張ろうと思ったのだけど・・・。」
「空回りされる方が困ります。」
ぴしゃりと言われる。
「・・・ロビンって時々かなり辛辣よね。」
「事実を申し上げているだけです。」
「嫌われてるのかしら、私。」
「・・・・・。」
ロビンは一瞬だけ黙った。
「旦那様を傷つける方でなければ、それで結構です。」
その言葉にアネットは少し目を丸くする。
やはりこの人は、何よりイーサンを優先しているのだ。
階段を降りるとエントランスにイーサンが立っていた。
黒のジャケットを纏った姿は圧倒されるほど美しい。
だがその表情はいつも通り無愛想だった。
アネットを見る。
一瞬、ほんの少しだけ視線が止まった。
「・・・・・遅い。」
「申し訳ありません。」
「行くぞ。」
それだけ言って歩き出す。
ロビンがさっと扉を開いた。
馬車へ乗り込む。
中は静かだった、イーサンは窓の外を見ている。
アネットは少し迷った後口を開いた。
「今夜はどんな方がいらっしゃるんですか?」
「・・・近隣貴族だ。」
「仲の良い方ですか?」
「別に」
会話終了。
アネットは思わず口を閉じた。
ロビンの忠告通りだった。
下手に話しかけると空気が凍る。
だが不思議と居心地が悪いわけではない。
イーサンは無口なだけで、威圧してくるわけではなかった。
やがて会場へ到着する。
着飾った貴族達が揃っていた。
アネットがイーサンの隣へ立つと、周囲がざわついた。
「ウェルズリー伯爵だ。」
「奥方、随分お綺麗ね。」
「お似合いだわ。」
ひそひそ声が聞こえる。
イーサンは気にした様子もなく歩き出した。
すると一人の中年貴族が近づいてきた。
「これはウェルズリー伯爵!結婚してから初めてですな!」
「・・・ああ。」
「奥方を紹介していただけますかな?」
イーサンはちらりとアネットを見る。
「妻のアネットだ。」
短い。
本当に最低限しか喋らない。
アネットは微笑み、丁寧に礼をした。
「アネット・ウェルズリーです。よろしくお願いいたします。」
「これはこれは、美しい奥方だ!」
男性は上機嫌に笑う。
「伯爵は随分大事にされているのでしょうな!」
その瞬間、イーサンの眉がぴくりと動いた。
空気が少し冷える。
アネットは慌てて口を開いた。
「主人はとても誠実な方です。」
「ほう!」
「領地のことをいつも真剣に考えておられて・・・尊敬しております。」
イーサンが横目でアネットを見る。
意外そうな目だった。
中年貴族は満足そうに頷いた。
「仲睦まじくて何よりですな!」
去っていく背中を見送りながら、アネットは内心ほっとする。
なんとか乗り切れた。
「・・・お前」
「はい?」
「演技は下手じゃないな。」
イーサンの言葉にアネットは目を瞬かせた。
「褒めてます?」
「別に。」
イーサンの空気が少しだけ柔らかいようにアネットは感じた。
その時だった。
「まあ、ウェルズリー伯爵様!」
派手なドレス姿の女性が近づいてきた。
美しい赤髪の令嬢だった。
「ご結婚されてから全然お会いできなくて寂しかったですわ。」
距離が近い。
慣れた様子でイーサンの腕に触れようとする。
だがイーサンは一歩下がった。
「・・・そうか。」
冷たい。
女性は一瞬表情を引きつらせたが、すぐ笑顔を作る。
「奥様、伯爵様は昔から女性に冷たいんですの。でも本当は優しい方なんですよ?」
何故かアネットに説明してきた。
愛人候補だった人だろうか。
アネットは何となく察する。
「そうなんですね。」
すると女性は探るように笑った。
「伯爵様との新婚生活はいかが?」
周囲の視線が集まる。
値踏みするような空気。
アネットが返答に困った、その時。
不意にイーサンの手がアネットの腰へ回った。
びくりとアネットの肩が震える。
「俺の妻だ。」
低い声。
静かなのに圧がある。
「余計な詮索をするな。」
女性の顔色が変わった。
「ご、ごめんなさい・・・・。」
逃げるように去っていく。
周囲も気まずそうに視線を逸らした。
静寂。
イーサンはすぐ手を離す。
「・・・悪い。」
「い、いえ。」
アネットは少し戸惑っていた。
あまりにも自然だった、本当に夫婦みたいに・・・。
「助かりました。」
「契約だ。」
イーサンは淡々と言う。
「外では夫婦を演じる約束だからな。」
「ええ、そうですね。」
契約。
ただそれだけ。
分かっているのに、何故か少しだけ胸がざわついた。
その頃。
会場の端でロビンは静かに二人を見ていた。
イーサンが自分から女性へ触れるなど珍しい。
それも演技だ。
分かっている。
だが。
「・・・・・面倒ですね。」
小さく呟く。
アネットは厄介だった。
屋敷の空気を変え始めている。
尊敬する旦那様の空気まで。
それが何故か、ロビンには少し気に入らなかった。




