14.愛さない事を誓った先に
ウェルズリー伯爵邸を去ってから、五年の月日が流れていた。
季節は何度も巡った。
春が来て、夏が過ぎ、秋が枯れ、冬が終わる。
その繰り返しの中で、アネットの生活も少しずつ変わっていった。
今アネットが暮らしているのは、小さな地方都市にある侯爵家の屋敷だった。
穏やかで、人の温かい土地だ。
最初は不安もあった。
ウェルズリー伯爵夫人として生きていた自分が、別の土地で一人やっていけるのか。
・・・いや。
アネットは“一人”ではなかった。
「アネット、書類がまた山になっています。」
執務室の扉が開き、静かな声が響く。
振り返らなくても分かる。
「ロビン、ノックくらいしなさいよ。」
「しましたよ。」
「聞こえなかったわ。」
「集中しすぎです。」
ロビンは呆れたように言いながら、机へ新しい紅茶を置いた。
昔と変わらない香り。
アネットは思わず小さく笑う。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
ロビンは自然な動作で机の書類を整理し始める。
五年前。
ウェルズリー伯爵邸を出たあの日。
ロビンは本当にアネットについてきた。
最初は冗談だと思っていた。
だが彼は仕事を辞め、迷いなくアネットの隣へ来た。
『あなたが私を好きじゃなくても、私はあなたについて行きます。』
あの日の言葉通りに。
最初の頃、アネットは戸惑ってばかりだった。
自分はまだイーサンを忘れられていなかったから。
夜になると、ウェルズリー伯爵邸を思い出した。
無口な旦那。
静かな食堂。
ぶっきらぼうな優しさ。
好きだった。
そして、自分は最後まで想いを言えなかった。
好きでした、と。
だから最初の一年は、酷かった。
ロビンに申し訳なくなるくらい泣いてばかりいた。
けれどロビンは、一度も責めなかった。
「また旦那様を思い出しているんですか。」
「・・・失礼ね。」
「顔に出ています。」
「うそ。」
「本当です。」
そんな会話を何度繰り返したか分からない。
ロビンは急かさなかった。
“忘れろ”とも言わなかった。
ただ静かに隣にいた。
疲れた時は紅茶を淹れてくれた。
眠れない夜は本を読んでくれた。
アネットが泣けば、何も言わず背中を撫でた。
見返りなんて、一度も求めなかった。
だから、少しずつ。
本当に少しずつ。
アネットの中にあった痛みは、穏やかな思い出へ変わっていった。
「・・・アネット?」
ロビンが不思議そうに顔を覗き込む。
アネットはハッとして顔を上げた。
「何ですか、ぼーっとして。」
「別に。」
「疲れましたか?」
「少しだけ。」
「なら休憩にしましょう。」
ロビンはそう言って、当然のように焼き菓子を出した。
完全に準備済みだった。
アネットは思わず吹き出す。
「あなた、最初から休ませる気だったでしょう。」
「当たり前です。」
「仕事が終わらないんだけど。」
「倒れられる方が困ります。」
ロビンは真顔だった。
アネットは笑いながら紅茶を飲む。
温かい。
安心する味。
「・・・ねえロビン。」
「はい。」
「あなた、昔より甘くなったわよね。」
ロビンが少し眉を寄せる。
「そうでしょうか。」
「そうよ。最初なんて氷みたいだったのに。」
「誰のせいですか。」
「私?」
「ええ。」
ロビンは静かにアネットを見る。
「あなたが人を変えたんです。」
昔、似たような事を言われた事がある。
『お前が来てから、この屋敷は変わった。』
イーサンの声が頭を過ぎる。
胸が少しだけ痛んだ。
でももう、昔みたいに苦しくはない。
大切な思い出だ。
今でも忘れていない。
きっとこれからも忘れない。
それでも。
今、自分が隣にいたいと思う人は。
「アネット。」
ロビンが静かに呼ぶ。
「何?」
「今日、仕事が終わったら街へ行きませんか。」
「珍しいわね。」
「新しい菓子店が出来たそうです。」
「また甘いもの?」
「あなた好きでしょう。」
「否定できない。」
アネットは笑った。
その笑顔を見て、ロビンの表情も少し柔らかくなる。
昔は滅多に笑わなかった人なのに。
今ではアネットの前で自然に笑う。
そんな彼を見た瞬間。
胸の奥がふわりと温かくなった。
苦しくない。
怖くない。
ただ安心する。
帰る場所みたいな感情。
アネットはふと気づく。
「(・・・ああ。)」
いつからだろう。
ロビンの隣が、こんなにも落ち着くようになったのは。
気づけば彼は、生活の一部になっていた。
朝起きればいて。
仕事をすれば隣にいて。
疲れた時は支えてくれる。
泣いた時は慰めてくれる。
ずっと。
本当にずっと。
「・・・ロビン。」
「はい。」
アネットは少しだけ緊張しながら口を開いた。
「私、あなたと結婚したいわ。」
ロビンの動きが止まる。
完全に固まった。
「・・・今、何と?」
「だから。」
アネットは照れ隠しみたいに笑う。
「結婚したいって言ったの。」
数秒の沈黙。
そして。
「・・・少々お待ちください。」
「え?」
「心の準備が。」
「何であなたが慌てるのよ。」
「五年越しですよ!?」
珍しく声が大きかった。
アネットは吹き出す。
ロビンの耳が真っ赤になっている。
「あなたでもそんな顔するのね。」
「します!」
ロビンは深く息を吐いた。
そして静かに、アネットの手を取る。
その手は少し震えていた。
「愛しています。」
真っ直ぐな声。
五年間、一度も変わらなかった想い。
「ずっと、あなただけを。」
アネットの胸が熱くなる。
こんなにも大切に想われ続ける事が、どれほど幸せか。
今のアネットは知っていた。
「私も。」
アネットは微笑む。
「愛してるわ、ロビン。」
その瞬間。
ロビンは静かにアネットを抱き締めた。
強く。
壊れ物を扱うみたいに優しく。
長かった片想いが、ようやく報われた瞬間だった。
――それから数日後。
ウェルズリー伯爵邸。
広い屋敷は静まり返っていた。
使用人はいる。
仕事もある。
けれど昔よりずっと、人の気配が薄い。
イーサンは執務室で、一通の手紙を見つめていた。
差出人はロビン。
数年に一度だけ送られてくる近況報告。
それが今日、久しぶりに届いた。
イーサンは静かに封を開く。
そこにはアネットと結婚した事が簡潔な文章で書かれていた。
イーサンはしばらく動かなかった。
部屋には時計の音だけが響く。
「・・・そうか。」
低い声が零れる。
窓の外では春の花が揺れていた。
アネットが好きだった花。
彼女が植えたいと言っていた花だ。
今でも庭師達が大切に育てている。
イーサンは静かに目を閉じた。
思い出すのはあの夜。
『・・・感謝してる。』
結局、自分はそれしか言えなかった。
本当は違った。
離れたくなかった。
行くなと言いたかった。
好きだと。
そう言えたなら。
何か変わったのだろうか。
「今さらだな。」
小さく笑う。
全部遅かった。
自分は最後まで、契約に縛られていた。
愛さないと誓った。
だから。
好きだと言えなかった。
イーサンは静かに手紙を閉じる。
胸の奥が痛む。
きっとこの痛みは、一生消えない。
それでも。
アネットが幸せなら、それでいい。
そう思おうとする。
けれど同時に思ってしまうのだ。
――もしあの時、勇気を出せていたら。
――もし契約より、自分の気持ちを選べていたら。
春風が静かに窓を揺らす。
愛さない事を誓った先で。
結局、愛してしまったのは自分だった。
END
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