13.白い結婚の終わり
契約終了の日は、驚くほど晴れていた。
空はどこまでも青く、春の風が柔らかく庭を揺らしている。
まるで別れの日には相応しくない天気だと、アネットはぼんやり思った。
「・・・終わるのね。」
静かな自室。
三年間使ってきた部屋は、もうほとんど空になっていた。
持ち込んだ荷物は少なかった。
契約結婚だったから。
いつでも出て行けるようにしていた。
なのに、空っぽになった部屋を見るだけで胸が苦しい。
ベッド、机、窓辺。
全部に思い出がある。
「奥様。」
ノックの後、ロビンが入ってくる。
今日はもう“執事”ではない。
黒い執事服ではなく、落ち着いた濃紺の外套を羽織っていた。
それだけで妙に知らない人に見える。
ロビンの“奥様”もこれが最後。
「馬車の準備が整いました。」
「・・・ええ。」
アネットは小さく頷く。
とうとうこの時が来てしまった。
ロビンは部屋を見回し、それから静かに言った。
「本当に、何も持っていかないんですね。」
「元々、契約妻だったもの。」
アネットは苦笑する。
「思い出だけで十分よ。」
ロビンは少しだけ眉を寄せた。
その思い出の中に、イーサンがいる事を知っているからだ。
「・・・参りましょう。」
「ええ。」
アネットは最後に部屋を振り返った。
そして小さく頭を下げる。
「お世話になりました。」
誰もいない部屋へ向けた挨拶。
それから二人は廊下へ出た。
屋敷の中は静かだった。
だが一階へ降りた瞬間、アネットは目を見開く。
「・・・え。」
玄関ホールに、使用人達が並んでいた。
料理長。
メイド達。
庭師。
若い使用人達まで全員。
綺麗に左右へ並び、静かにこちらを見ている。
「み、皆・・・?」
アネットの声が震える。
年配のメイド長が一歩前へ出た。
「アネット様。」
その目は赤かった。
「三年間、本当にありがとうございました。」
その瞬間。
他の使用人達も一斉に頭を下げた。
「「「ありがとうございました!」」」
アネットは息を呑む。
胸がいっぱいになる。
「や、やめてください・・・。」
声が震えた。
「私は何も――」
「そんな事ありません!」
若いメイドが泣きながら言った。
「アネット様が来てから、この屋敷は本当に変わったんです!」
「毎日が楽しくなりました!」
「厨房も明るくなりましたし!」
「旦那様も前より怖くなくなりました!」
最後の一言に、少し笑いが起きる。
アネットは涙を堪えながら笑った。
「それ、本当に?」
「本当です!」
料理長が力強く頷く。
「昔の旦那様なんて氷みたいでしたから。」
「ちょっと料理褒めただけで厨房全員大騒ぎでしたもんね。」
「今では普通に『悪くない』って言ってくださいます!」
アネットは思わず吹き出した。
確かに、最初のイーサンは酷かった。
何を考えているか分からないし、笑わないし、近寄りがたかった。
でも、今は違う。
「・・・皆。」
アネットの目から涙が零れる。
「こちらこそ、本当にありがとう。」
そう言った瞬間だった。
たくさんの花びらが舞った。
「えっ!?」
驚くアネットの頭上へ、次々と花びらが降ってくる。
若いメイド達が泣き笑いしながら花を撒いていた。
「ちょ、ちょっと!」
「最後くらい明るく送り出したいんです!」
「アネット様、幸せになってください!」
「ロビン様も!」
アネットは呆然とした。
まるで、結婚式みたいだったから。
ロビンも少し驚いた顔をしている。
だがその後、珍しく小さく笑った。
「困りましたね。」
「ロビン?」
「完全に祝福されています。」
アネットは真っ赤になる。
「ちちち、違うでしょう!?」
するとメイド達が声を揃えた。
「お似合いです!!」
「お二人さん!お幸せに!!」
「や、やめてっ!」
アネットが顔を覆う。
ロビンはそんな彼女を見て、少しだけ目を細めた。
その時。
玄関の奥から足音が響く。
空気が変わった。
アネットが振り返る。
そこにはイーサンが立っていた。
黒い上着姿。
静かなグレーの瞳がこちらを見ている。
使用人達が静かに道を開けた。
アネットの心臓が痛む。
「・・・旦那様。」
イーサンはゆっくり近づいてくる。
その顔はいつも通り無表情だった。
だからこそ分かる。
今、必死に感情を押し殺している。
「馬車は外だ。」
「・・・はい。」
短い会話。
それだけで胸が潰れそうだった。
イーサンはロビンを見る。
「・・・行くんだな。」
「はい。」
ロビンは真っ直ぐ答えた。
イーサンは数秒黙る。
そして。
「アネットを頼む。」
ロビンの目がわずかに見開く。
「・・・承知しました。」
アネットは涙が出そうになった。
イーサンは最後まで、自分を引き止めない。
契約を守る。
それが彼らしい。
でも、それが苦しい。
「旦那様。」
アネットが呼ぶ。
イーサンが視線を向けた。
本当は言いたい事が山ほどあった。
好きでした。
離れたくありません。
もっと一緒にいたかった。
でも。
全部飲み込む。
だってこれは、最初から決められていた終わりだから。
だからアネットは、精一杯笑った。
「・・・三年間、お世話になりました。」
イーサンの喉がわずかに動く。
何か言いかけて。
でも結局。
「・・・ああ。」
それしか言えなかった。
アネットは深く頭を下げる。
そしてロビンと共に屋敷を出た。
花びらが舞う。
使用人達が涙を流しながら手を振っている。
「お幸せにー!!」
「元気でいてください!」
「また遊びに来てくださいね!」
まるで本当に、新郎新婦を送り出すみたいだった。
アネットは泣き笑いしながら手を振る。
そして馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まる。
外の声が遠ざかる。
その瞬間。
「っ・・・!」
アネットの感情が限界を迎えた。
「う、ぁ・・・っ。」
涙が溢れる。
「っ・・・うぅ・・・!」
堪えきれなかった。
三年間、終わってしまった。
本当に終わった。
「ぁ・・・っ、うぅぅ・・・!」
アネットは子供みたいに泣き出した。
ロビンは何も言わなかった。
ただ静かに隣へ座る。
「っ・・旦那様、っ・・・。」
嗚咽混じりの声。
「好き、だったの・・・っ。」
ロビンは目を伏せる。
胸が痛かった。
それでも彼は、そっとアネットの肩を抱いた。
「ええ。」
静かな声。
「知っています。」
アネットは泣き続ける。
「離れたく、なかった・・・っ!」
「はい。」
「もっと、一緒に・・・っ。」
ロビンは何も否定しない。
ただ静かに背を撫でる。
「泣いてください。」
優しい声だった。
「今は、それでいい。」
アネットはロビンへ縋るように泣いた。
馬車はゆっくり進んでいく。
ウェルズリー伯爵邸が、少しずつ遠ざかっていく。
そして屋敷の二階。
窓辺に立つイーサンだけが、最後までその馬車を見つめ続けていた。




