12−3.
その日の夜。
アネットは一人、中庭を歩いていた。
夜風が少し冷たい。
見上げれば、空には淡い月が浮かんでいる。
この庭を歩くのも、あと少し。
そう思うだけで胸が締め付けられた。
「・・・眠れない。」
小さく呟く。
ロビンの告白。
契約終了。
イーサンとの別れ。
全部が頭の中をぐるぐる回っていた。
特に今日は、朝のイーサンの様子が気になって仕方なかった。
何か言いたそうだった。
けれど結局、何も言わなかった。
あの人はいつもそうだ。
大事な事ほど口にしない。
「・・・旦那様らしいけど。」
苦笑した、その時。
「こんな時間に何してる。」
低い声が響いた。
アネットの心臓が跳ねる。
振り返ると、イーサンが立っていた。
黒い上着を羽織った姿。
月明かりの下でも、そのグレーの瞳は静かにこちらを見ている。
「旦那様。」
「冷えるぞ。」
「少し風に当たりたくて。」
イーサンは何も言わず、アネットの隣へ来た。
自然な距離。
けれど今のアネットには近すぎる。
胸がうるさい。
二人で並んで庭を歩く。
沈黙は不思議と苦ではなかった。
三年前なら考えられない。
最初の頃のイーサンは、必要最低限しか話さなかった。
アネットも怖がっていた。
それなのに今は隣にいるだけで安心してしまう。
「・・・あと二日だな。」
イーサンがぽつりと言った。
「・・・はい。」
「実感がない。」
イーサンは前を見たままだった。
「お前がいなくなるのが。」
アネットは息を呑む。
そんな事を言われると思わなかった。
「旦那様・・・。」
「使用人達も落ち着かない。」
イーサンは続ける。
「今日、厨房の皿が三枚割れた。」
アネットは思わず小さく笑った。
「それは大変ですね。」
「お前のせいだ。」
「ひどい言いがかりです。」
少しだけ、いつもの空気になる。
それが嬉しくて。
でも苦しくて。
アネットはそっと視線を伏せた。
「・・・三年前。」
イーサンが静かに言う。
「お前がここへ来た時、正直面倒だと思っていた。」
「知ってます。」
「顔に出てたか。」
「すごく。」
イーサンが少しだけ口元を緩めた。
本当に小さな笑み。
アネットの胸が締め付けられる。
「契約だけ守って、適当に三年過ごせばいいと思ってた。」
「ええ。」
「だが。」
イーサンは少し黙った。
そしてゆっくり言葉を続ける。
「・・・お前が来てから、この屋敷は変わった。」
アネットは目を瞬かせる。
「使用人達がよく笑うようになった。」
低く静かな声。
「領民達も、お前を慕ってる。」
「それは・・・皆が優しいからです。」
「違う。」
イーサンははっきり否定した。
「お前がいたからだ。」
胸が熱くなる。
そんな風に言ってもらえると思わなかった。
「ロビンも変わった。」
「・・・そうですね。」
「前より人間らしくなった。」
アネットは少し笑った。
確かに最初のロビンは氷みたいだった。
今も冷たい時はあるけれど随分柔らかくなったと思う。
「・・・俺も。」
イーサンがぽつりと呟く。
アネットが顔を上げる。
イーサンは少しだけ困ったような顔をしていた。
「お前が来る前より、マシな人間になった気がする。」
その言葉に、アネットの目が熱くなる。
「そんな事・・・。」
「ある。」
イーサンは静かにアネットを見る。
「だから。」
時がゆっくり流れる。
「・・・感謝している。」
アネットの呼吸が止まる。
月明かりの下。
不器用な男が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「三年間、よくやってくれた。」
低い声。
飾り気のない言葉。
なのに、どんな愛の言葉より胸に刺さった。
「旦那様・・・。」
涙が滲む。
イーサンはそんなアネットを見て少しだけ眉を寄せた。
「何故泣く。」
「・・・泣いてません。」
「泣いてる。」
アネットは笑ってしまった。
本当に、この人は。
最後まで不器用だ。
本当は聞きたい。
少しでも自分を必要としてくれているのか。
引き止めたいと思ってくれているのか。
でも、イーサンは言わない。
契約を破るような事は。
だからアネットも聞けなかった。
「・・・私も。」
アネットは小さく笑う。
「ここに来られて良かったです。」
それは本心だった。
苦しかった。切なかった。
でも、この三年間は確かに幸せだった。
イーサンは静かに目を伏せる。
イーサンは喉まで言葉が出かかっていた。
行くな。離れたくない。
――好きだ。
けれど。
『お前を、愛するつもりはない。』
三年前、自分で言った言葉が喉を締め付ける。
今さら何を言う資格がある。
ロビンはもう動いた。
なのに自分は、最後まで何も言えない。
「旦那様?」
アネットが不思議そうに見る。
イーサンはゆっくり息を吐いた。
そして結局。
「・・・風邪を引く前に戻るぞ。」
それだけしか言えなかった。
アネットは少しだけ寂しそうに笑う。
「はい。」
二人は並んで屋敷へ戻る。
その距離は近いのに。
心だけが、どうしようもなく遠かった。




