12.言えなかった言葉
契約終了まで、あと三日。
ウェルズリー伯爵邸は静かだった。
もちろん使用人達は普段通り働いているし、領地の仕事も滞りなく回っている。
けれど屋敷全体に、どこか落ち着かない空気が流れていた。
三年前にやってきた伯爵夫人――アネットが、もうすぐこの屋敷を去る。
皆、それを理解しているからだ。
アネット自身も荷造りを終えていた。
もともと持ち込んだ荷物は少ない。
契約結婚だったから。
“自分の居場所”だと思わないようにしていた。
なのに。
「……寂しいなんて、変よね。」
空になった棚を見つめ、アネットは小さく笑った。
最初は冷たい場所だと思っていた。
旦那は無口で愛想がなく、執事は嫌味ばかり。
けれど今は違う。
この屋敷には温かい思い出が増えすぎてしまった。
コンコン
ノック音が響く。
「奥様。」
ロビンだった。
「入ってもよろしいですか。」
「ええ、どうぞ。」
扉が開く。
いつもの執事服。
いつもの整った姿。
だが最近のロビンはどこか様子がおかしかった。
考え込む事が増えたし、時々ひどく苦しそうな顔をする。
「紅茶をお持ちしました。」
「ありがとう。」
ロビンは静かにカップを置いた。
慣れた手つき。
三年間、何度も見てきた光景。
もう見られなくなるのだと思うと胸が痛む。
「・・・荷造りは終わったのですね。」
「ええ。」
「随分少ない。」
「もともと少なかったもの。」
アネットは少し笑った。
「いつか出て行くつもりだったから。」
ロビンの指先がぴくりと止まる。
その表情が一瞬だけ険しくなった。
「・・・奥様。」
「何?」
「旦那様には、お気持ちを伝えないのですか。」
アネットの呼吸が止まる。
「・・・何の事かしら。」
「誤魔化さないでください。」
ロビンの声は静かだった。
だが逃がさない強さがあった。
「あなたは旦那様がお好きでしょう?」
アネットの顔が一気に熱くなる。
「っ……!」
言葉が出ない。
ロビンはそんな彼女を真っ直ぐ見ていた。
「なら何故、伝えないのです。」
アネットは俯く。
「・・・・・契約、だもの。」
「契約なら、好きになってはいけない?」
「・・・っ。」
「旦那様が迷惑するから?」
ロビンの声が少し低くなる。
「あなたはいつもそれだ。」
アネットがゆっくり顔を上げる。
「旦那様の事ばかり優先して、自分を後回しにする。」
「だって・・・。」
「だって?」
ロビンが一歩近づいた。
「あなたは、本当にそれで満足なんですか。」
満足なわけがない。
本当は離れたくない。
ずっと側にいたい。
でも、そんな事を望める立場じゃない、と手を強く握る。
「・・・私は。」
アネットは小さく笑った。
「旦那様に困った顔をさせたくない・・・それが怖いの。」
ロビンは黙る。
「最後くらい、綺麗に終わりたい。」
ロビンにはその笑顔がひどく苦しそうにみえた。
ロビンの胸が痛む。
この人は最後まで、自分より他人を優先する。
だから、もう我慢出来なかった。
「・・・嫌なんです。」
「え?」
ロビンの声が震える。
アネットが目を見開いた。
「あなたがそんな風に笑うのが!」
ロビンは真っ直ぐアネットを見る。
もう執事の顔ではなかった。
三年間、感情を押し殺してきた男の顔だった。
「最初、私はあなたが嫌いでした。」
「・・・知ってるわ。」
「旦那様を振り回す存在だと思っていた。」
ロビンは苦く笑う。
「ですが違った。使用人達が笑うようになった。旦那様が変わった。」
そして。
「・・・私も。」
ロビンは静かに息を吐く。
「貴女の存在に、いつの間にか救われてしまった。」
アネットの心臓が大きく跳ねる。
「ロビン・・・?」
「だから。」
ロビンは一歩近づいた。
「私は貴女が好きです!」
アネットの顔が一気に真っ赤になる。
「えっ!?」
頭が真っ白になる。
ロビンが。
自分に。
「私は契約終了後、この屋敷を出ます。」
「・・・え?」
アネットが固まる。
ロビンは淡々と言った。
「旦那様には既に話しました。」
「な、何で!?」
「決めたからです。」
その瞳は真っ直ぐだった。
「私はあなたについて行きます。」
「は・・・?」
「たとえーー」
ロビンは静かに笑った。
泣きそうな顔だった。
「あなたが私を好きじゃなくても。」
アネットの胸が強く揺れる。
「ただ、私はあなたの側にいたい。」
静かな告白だった。
押し付けじゃない。
見返りも求めない。
ただ真っ直ぐな想いだけがあった。
「嫌われても構いません。」
ロビンは続ける。
「迷惑だと思われてもいい。」
「ロビン・・・。」
「それでも私は、あなたについて行きます。」
アネットは何も言えなかった。
顔が熱い。
胸が苦しい。
こんな風に想いを向けられた事なんてなかった。
しかも。
『あなたが私を好きじゃなくても』
ロビンは、自分の気持ちがイーサンへ向いていると知った上で言っているのだ。
「・・・バカなの?」
アネットがポツリと呟く。
ロビンは小さく目を細めた。
「ええ、自分でも思います。それでも貴女が好きなんです。」
「・・・うそぉ。」
アネットは赤裸々な告白に恥ずかしさから両手で顔を覆った。
ロビンはそんな彼女を見つめながら、静かに一礼する。
「返事は要りません。」
「え・・・。」
「今のあなたは、旦那様の事で頭がいっぱいでしょうから。」
図星だった。
アネットが固まる。
ロビンは踵を返す。
「ただ、覚えていてください。」
扉の前で振り返った。
「あなたが一人になるつもりでも、私は勝手について行きます。」
そしてそのまま部屋を出ていく。
扉が閉まる。
一人残されたアネットは、その場へへたり込んだ。
「・・・何なのよ、もう。」
真っ赤な顔のまま、アネットは呟く。
胸がうるさい。
涙が出そうだった。
そして彼女はまだ知らない。
ロビンから“屋敷を出る”と告げられた時。
イーサンがどんな顔をしていたのかを。




