11−2.
“契約終了まで、あと半年”
その事実は、最近のアネットの胸を静かに締め付けていた。
「・・・平気じゃないのが困るのよね。」
アネットは自室で小さく呟いた。
窓の外では、春風が庭の花を揺らしている。
この屋敷にも随分慣れてしまった。
使用人達との会話、領地の仕事、ロビンの淹れる紅茶、そしてぶっきらぼうなイーサンの言葉。
まだ半年もあるのに終わることを考えると泣きそうだった。
コンコン。
ノック音が響く。
「奥様、失礼いたします。」
ロビンだった。
「どうぞ。」
入ってきたロビンは、銀の盆に紅茶と焼き菓子を乗せていた。
「少し休憩を。」
「ありがとう。」
アネットがソファへ座ると、ロビンが静かに紅茶を淹れる。
温かな香りが広がった。
「・・・最近、考え事が多いですね。」
ロビンがぽつりと言った。
アネットは少し苦笑する。
「また顔に出てる?」
「ええ、かなり。」
「嫌ね。」
ロビンは淡々とカップを差し出した。
「契約終了の事ですか。」
アネットの手が止まる。
やはり誤魔化せない。
「・・・そうね。」
「不安ですか。」
「不安というかーー」
アネットは視線を落とした。
何が不安なのか、自分でも分からない。
ただ胸が落ち着かない。
「契約が終わったら、この屋敷を出るでしょう?」
「ええ。」
「それが少し想像つかなくて。」
ロビンは静かに聞いていた。
「ここに来た時は、早く三年終わらないかなって思ってたのにね。」
アネットは苦笑した。
「人間って勝手だわ。」
ロビンは小さく目を伏せる。
その気持ちは分かる気がした。
アネットが来る前の屋敷は、もっと静かだった。
必要最低限の会話しかない。
冷えた空気。
イーサンも今以上に無関心だった。
けれど今は違う。
使用人達もよく笑い、食堂の空気も柔らかい。
旦那様も以前より人間らしくなった。
その中心にいるのは、間違いなくアネットだった。
「・・・奥様。」
「何?」
「もし契約終了後、行く場所がまだ決まっていないのでしたら。」
アネットが顔を上げる。
ロビンは淡々と続けた。
「私の知人の侯爵家をご紹介しましょうか。」
「侯爵家?」
「ええ。地方の小さな屋敷ですが、執務補佐を探しているそうです。」
アネットは少し驚いた。
「私が?」
「奥様なら問題なく務まります。」
「でも、貴族夫人だった人間を雇うなんて・・・。」
「その家は実力主義ですので。」
ロビンは静かに紅茶を口にする。
「帳簿整理もできますし、社交も問題ない。領地運営も学ばれている。」
「褒めすぎよ。」
「事実です。」
さらりと言われて、アネットは少し照れた。
ロビンは滅多に大袈裟な事を言わない。
だからこそ、その評価は嬉しかった。
「地方ですので静かに暮らせるかと。」
静かに暮らす。
イーサンのいない生活。
この屋敷ではない場所。
そういう未来が確実に近づいている。
「・・・良い場所なの?」
「穏やかな土地です。」
ロビンは珍しく少しだけ柔らかい表情をした。
「花が綺麗で、食事も美味しい。」
「ふふ、旅行案内みたい。」
「実際、過ごしやすい場所ですよ。」
アネットは少し想像してみた。
小さな町。
穏やかな日々。
誰にも期待せず、静かに暮らす人生。
三年前のアネットならそれを望んでいたはずなのに。
今は何故か胸が苦しい。
「・・・奥様は。」
ロビンがふと口を開く。
「この屋敷がお好きなのですね。」
アネットは少し驚いて、それから小さく笑った。
「そうかもしれない・・・・使用人達も優しいし、領地の人達も温かいし。」
「ええ。」
「ロビンもいるしね。」
ロビンが一瞬だけ目を瞬かせた。
「・・・私ですか。」
「あなたがいなかったら、私はとっくに逃げ出してたかもしれないわ。」
アネットは笑う。
「厳しいけど、すごく助けてもらってるもの。」
ロビンは少し黙った。
胸の奥がじんわり熱くなる。
こんな風に真っ直ぐ感謝を伝えてくるから。
「・・・光栄です。」
静かな声だった。
その時。
「何の話だ。」
二人が同時に振り返る。
扉の前にイーサンが立っていた。
黒い上着姿。
相変わらず無表情だが、視線だけがこちらを見ている。
「旦那様。」
アネットが立ち上がる。
ロビンは静かに一礼した。
「契約終了後のお話です。」
その瞬間。
イーサンの空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。
「内容は。」
「奥様へ仕事先をご紹介しようかと。」
沈黙。
イーサンはゆっくりアネットを見る。
「決めたのか。」
「え?」
「働く場所を。」
アネットは言葉に詰まった。
「まだ・・・候補の話です。」
「そうか。」
短い返事。
だが何故か少し冷たく聞こえた。
イーサンはそのまま数秒黙り、静かに言った。
「まだ半年ある。」
「・・・はい。」
「慌てて決める必要はない。」
それだけ言うと、イーサンは部屋へ入ってきた。
アネットは少し困惑する。
イーサンにしては珍しい。
いつもなら必要な用件だけ伝えて去っていくのに。
イーサンは自然にソファへ腰を下ろした。
まるで“ここにいる”のが当然みたいに。
ロビンが無言で追加の紅茶を準備する。
静かな空気。
けれど何故か、アネットの心臓だけが落ち着かなかった。
契約終了まで、あと半年。
その終わりが。
少しずつ現実になり始めていた。




