10ー4.
ロビンはアネットの横に立ち、小さく呟く。
「奥様。」
「何?」
「無理はしないでください。」
その声はいつもより少しだけ柔らかかった。
アネットは小さく頷く。
「うん。」
火の明かりの向こうで、イーサンが再び指示を出し始める。
その横顔を見ながら。
アネットは知らず知らずのうちに、その言葉を胸の中で繰り返していた。
『お前は外さない。』
それは救いなのか。
それとも――。
まだ、分からなかった。
夜が更けるほど、現場の空気は張り詰めていった。
松明の数が増え、影が揺れるたびに土砂の山が不気味に見える。
作業は順調に進んでいるはずなのに、誰も完全には気を抜けない。
「この区画、あと半刻で抜けます!」
「補強材、急げ!」
ロビンの声が飛び、作業員達が一斉に動く。
その中でアネットも小さな補助作業を任されていた。
道具の受け渡し、記録係への報告、簡単な指示の伝達。
それだけなのに、思っていたよりずっと忙しい。
「これ、思ったより大変ですね。」
小声で呟くと、すぐ隣からロビンの声が返ってきた。
「今さら気づきましたか。」
「意地悪。」
「事実です。」
いつものやり取り。
でも、どこか安心する。
その時だった。
ドン、と低い音が響いた。
地面がわずかに揺れる。
「崩れるぞ!」
誰かの叫び。
一瞬で空気が凍る。
補強中の土壁の一部が、軋むように音を立てた。
「退避!」
ロビンの声が鋭く響く。
作業員達が一斉に離れる。
しかし一人、動きが遅れた。
荷重板を支えていた若い男が、土砂に足を取られて転ぶ。
「――っ!」
アネットの体が先に動いていた。
考えるより先。
彼の腕を掴む。
「立って!」
引き上げようとするが、重い。
土砂がさらに崩れ始める。
「奥様、離れてください!」
ロビンの声。
だがアネットは手を離さなかった。
「無理です、このままだと巻き込まれます!」
その瞬間だった。
「左に倒せ。」
低い声。
イーサンだった。
迷いのない指示。
現場の空気が一瞬で変わる。
「板ごと左へ!」
ロビンが即座に反応する。
「皆んなで支えろ!」
作業員達が動く。
イーサンの指示通り、荷重のバランスが崩れる方向へ意図的に倒す。
その瞬間――
ズガッ、と音を立てて土砂が崩れ落ちた。
さっきまで人がいた場所に、重い土の塊が落ちる。
静寂。
一瞬、誰も動けなかった。
「・・・助かった。」
誰かが呟く。
若い男は震えながら座り込んでいた。
「す、すみません・・・!」
アネットは息を吐き、ようやく手を離す。
心臓がうるさい。
手が震えている。
その時、イーサンが近づいてきた。
無言。
だがその視線は、まずアネットを確認している。
「怪我は。」
「ありません。」
「そうか。」
それだけ。
怒りもない、責めもしない、ただの事実確認。
その淡々とした態度に、逆に安心する。
ロビンが若い男の肩を軽く叩いた。
「次からは単独で無理をしないように。」
「は、はい!」
ロビンは視線を上げる。
そしてアネットを見た。
「奥様。」
「・・・はい。」
「今の判断、悪くありませんでした。」
アネットは目を瞬く。
「え?」
「ですが、次は“助ける側の安全”も優先してください。」
静かな注意。
叱責ではない。
指導。
アネットは少しだけ頷いた。
「・・・分かりました。」
ロビンはそれ以上言わなかった。
代わりに小さく息を吐く。
「本当に・・・手がかかりますね。」
その言い方に、少しだけ優しさが混ざっている。
アネットは思わず笑ってしまう。
「旦那様とロビンが助けてくれるんでしょ。」
「そうですね。」
そのやり取りの横で、イーサンは静かに現場を見ていた。
そしてぽつりと呟く。
「終わらせる。」
それだけ。
しかしその一言で空気が変わる。
再び作業が動き出す。
夜の中、領主の声は短く、しかし確かだった。
しばらくして。
作業は大きな山を越え、通路の確保がほぼ完了した。
人々の緊張も少しずつ解けていく。
焚き火のそばに戻ったアネットは、ようやく深く息を吐いた。
「・・・疲れた。」
思わず本音が出る。
ロビンが隣に座る。
「当然です。」
「即答しないで。」
「事実です。」
アネットは苦笑する。
少し離れた場所で、イーサンがまだ現場を見ている。
その背中は相変わらず静かだ。
だが、さっきより少しだけ緩んで見えた。
「ねえ、ロビン。」
「何ですか。」
「さっきの・・・。」
言いかけて、言葉を選ぶ。
「旦那様、すごかったわね!」
ロビンはすぐに返さない。
少しだけ間があった。
「ええ。」
短い肯定。
それ以上は語らない。
アネットは焚き火を見つめる。
「本当に、迷わない人ね。」
「迷わないようにしているだけです。」
「違うの?」
ロビンは少しだけ視線を落とした。
「迷っている時間がないだけです。」
その言葉は、少しだけ重かった。
アネットは黙る。
遠くでイーサンが指示を終え、こちらへ歩いてくる。
泥のついたコート。
疲れは見えるが、歩き方は変わらない。
「終わった。」
短い一言。
アネットは立ち上がる。
「お疲れ様です。」
「ああ。」
それだけ。
いつもの無口。
でも今は違う。
アネットは気づいていた。
この人は“誰よりも先に現場に立つ人”なのだと。
守るために。
迷わずに。
ロビンが静かに立ち上がる。
「では撤収準備を。」
「分かった。」
イーサンが短く答える。
そして一瞬だけ、アネットを見る。
「戻るぞ。」
「・・・はい。」
その言葉は、いつもより少しだけ柔らかかった。
アネットは気づかないふりをしたまま頷く。
でも胸の奥では、また別の感情が静かに育っていた。




