10ー3.
土と木の匂いが混ざる簡素な空間の中で、松明の火だけが揺れている。
作業員達は交代で休みに入り、場内には静けさが戻りつつあった。
アネットは毛布を肩にかけながら、焚き火のそばに座っていた。
まだ心臓の鼓動が落ち着かない。
さっきの光景が頭から離れなかった。
崩れた土砂。
叫び声。
そして一瞬で判断して、全員を動かしたイーサン。
「(旦那様・・・。)」
いつもとは同じ人とは思えないほどだった。
普段は無口で、必要最低限しか喋らないのに。
あの時だけは違った、迷いがなかった。
命を守る事に一切の躊躇がなかった。
「何を見ている。」
振り返るとイーサンが立っていた。
コートは泥で汚れ、袖も少し濡れている。
それでも姿勢は崩れていない。
「旦那様。」
「休め。」
短い一言。
アネットは首を振る。
「まだ大丈夫です。」
「顔が大丈夫じゃない。」
「そんなに?」
「疲れてる。」
即答だった。
アネットは少し笑う。
「旦那様ほどじゃないですよ。」
「俺は慣れてる。」
「そういう問題じゃ。」
「そういう問題だ。」
会話が短い。
でも不思議と、いつもより近い。
イーサンは焚き火の反対側に腰を下ろした。
無言。
火の音だけが響く。
アネットは少しだけ横目で彼を見る。
横顔はいつも通り無表情だ。
でも、さっきの迷いのなさがまだ残っている気がした。
「・・・さっきの事。」
アネットがぽつりと呟く。
イーサンは視線だけ向ける。
「怖かったです。」
「何が。」
「全部です。」
アネットは少し言葉を探す。
「一瞬で状況を判断して、人を動かして、誰も迷ってなかった。」
「それが仕事だ。」
「でも。」
アネットは視線を落とす。
「誰かが怪我してたかもしれないのに、すぐ動けるのが・・・すごいと思った。」
イーサンは少し黙る。
火がぱち、と弾けた。
「怪我させる方が問題だ。」
それだけ。
あまりにも簡潔な答え。
アネットは少しだけ笑ってしまう。
「やっぱり単純ですね。」
「複雑な方がいいか。」
「いえ。」
即答だった。
イーサンはほんのわずかに目を細める。
それは怒りでもなく疑問でもない。
ただ観察している目だった。
「お前はさっきから変だな。」
「え?」
「黙る時間が長い。」
アネットはドキッとする。
また見抜かれている。
「・・・少し考えてただけです。」
「何を。」
逃げ道がない。
アネットは小さく息を吐いた。
「旦那様って、本当に変わらないですね。」
「悪いか。」
「いいえ。」
少し間を置く。
「むしろ・・・羨ましいです。」
イーサンの視線が動く。
「羨ましい?」
「迷わないから。」
アネットは焚き火を見つめる。
「さっきもそうですけど・・・必要な時に、ちゃんと決められるのって。」
簡単なようで難しい。
自分にはできない。
いつも迷う。
誰かを思い出してしまう。
怖くなる。
アネットは小さく笑った。
「やっぱり、ちょっと違うかも。」
「何だ。」
「怖い、の方が近いかもしれません。」
イーサンの眉がわずかに動く。
「俺が?」
「はい。」
アネットは正直に頷く。
「だって、迷わないって事は・・・誰かを切り捨てる事もできるって事でしょう?」
静かな沈黙。
焚き火の音だけが続く。
イーサンは少しだけ視線を落とした。
「切り捨ててるんじゃない。」
低い声。
「優先してるだけだ。」
その言葉に、アネットは少しだけ息を呑む。
「・・・優先。」
「全部を守るのは無理だ。」
イーサンは淡々と続ける。
「だから守る順番を決める。」
それだけの事だとでも言うように。
アネットはしばらく黙った。
そしてぽつりと呟く。
「それでも、誰かは守れないんですね。」
イーサンは答えない。
答えられないのではなく、答える必要がないと判断した沈黙だった。
その沈黙が、少しだけ胸に刺さる。
アネットは自分の手を見つめた。
「(やっぱり・・・この人は優しい。)」
でも同時に、現実的すぎる。
その境界線が、どうしようもなく遠い。
「・・・旦那様。」
「何だ。」
「もし、私がその“優先”から外れたらどうするんですか。」
冗談のつもりだった。
軽く流すつもりだった。
でも言った瞬間、空気が変わった。
イーサンの視線が真っ直ぐ向く。
「外れない。」
一言。
即答。
迷いゼロ。
アネットの心臓が跳ねる。
「え・・・。」
「お前は外さない。」
それだけ言って、また焚き火に視線を戻した。
まるで当然の事のように。
アネットは言葉を失う。
胸の奥が熱くなる。
でも同時に、怖さもある。
こんな風に“決められている”感じが。
嬉しいのに。
苦しい。
「失礼します。」
そこへロビンの声が割って入った。
少し息を切らしている。
「次の班、準備できました。」
「分かった。」
イーサンはすぐに立ち上がる。
いつもの無駄のない動き。
アネットも慌てて立ち上がる。
「私も行きます。」
「残れ。」
イーサンの即答。
「え?」
「もう夜だ」
「でも。」
「足手まといになる。」
冷たいようで、合理的な言葉。
アネットは一瞬固まる。
その時だった。
「旦那様。」
ロビンが静かに口を開く。
イーサンが振り返る。
「奥様は現場理解も進んでいます。見学ではなく補助としてなら問題ありません。」
淡々とした声。
だが、はっきりとした反論だった。
アネットは目を瞬く。
「ロビン?」
ロビンはアネットを見ないまま続ける。
「それに、現場の士気も上がります。」
イーサンは少し黙る。
数秒の間。
そして。
「好きにしろ。」
短く言った。
許可だった。
アネットは驚く。
「いいんですか?」
「ロビンの責任だ。」
「そこに押し付けるんですか。」
「そうだ。」
即答。
ロビンはため息を吐いた。
「承知しました。」
アネットは思わず笑ってしまう。
この二人、本当に対照的だ。
無口で合理的な領主。
それを現実に落とし込む執事。
その間にいる自分。
不思議な関係だ。
でも、その輪の中にいるのが少しだけ心地いいと思ってしまう自分がいた。




