9−2.
その日の夜。
アネットは自室へ戻った後も、なかなか眠れなかった。
窓の外では風が木々を揺らしている。
イーサンの言葉が頭から離れない。
『お前は、お前の母親とは違う。』
『笑ってる方がマシだ。』
不器用で。
全然甘い言葉なんかじゃない。
なのに胸の奥へ深く残る。
「・・・本当にずるい!」
ぽつりと呟く。
期待したくないのに。
好きになってはいけないのに。
イーサンは時々こんな風に心を揺らしてくる。
アネットはため息を吐き、無理やり気持ちを切り替えるように机へ向かった。
明日の視察資料を整理しよう。
そう思った時だった。
――コンコン。
「奥様。」
ロビンの声。
「どうぞ。」
扉が開き、ロビンが入ってくる。
手には数冊の帳簿があった。
「南側市場の追加資料です。」
「こんな時間に!?」
「旦那様が明日確認したいと。」
アネットは苦笑する。
「働き者ね。」
「あなた達二人ともです。」
ロビンは帳簿を机へ置いた。
そして何気なくアネットを見る。
「・・・眠れてませんね。」
「また顔に出てる?」
「かなり。」
「嫌だわ。」
アネットは困ったように笑う。
ロビンは少し黙った後、静かに言った。
「旦那様と何か話しましたか。」
アネットの肩がぴくりと揺れる。
「・・・どうして?」
「戻って来た時の顔が違いました。」
「それも顔に出てたの?」
「ええ。」
ロビンは淡々としている。
アネットは少し拗ねた表情になりながらも、観念したように椅子へ座った。
「少し昔話をしただけよ。」
「実家の話ですか。」
「・・・うん。」
ロビンはそれ以上追及しなかった。
その気遣いがありがたかった。
アネットは小さく息を吐く。
「ロビン。」
「はい。」
「あなたって、昔はもっと冷たかったわよね。」
ロビンの眉がわずかに動く。
「そうですか?」
「そうよ。最初なんて“契約妻”って顔に書いてあったもの。」
「書いてません。」
「書いてたわ。」
ロビンは少しだけ視線を逸らした。
「・・・最初は、すぐ離婚すると思っていましたから。」
「正直ね。」
「旦那様が他人へ興味を持つとは思っていませんでした。」
アネットは一瞬言葉を失う。
「・・・興味?」
「ええ。」
ロビンは静かに続けた。
「旦那様は昔から、人と深く関わる方ではありません。」
使用人に、貴族にも、友人にすら一定以上近づけない。
そんな男だった。
「でも最近は違います。」
ロビンの視線がアネットへ向く。
「旦那様は、あなたを気にしている。」
アネットの胸が跳ねた。
「そ、それは伯爵夫人だから。」
「違います。」
即答だった。
「以前の旦那様なら、誰かの顔色なんて気にしません。」
ロビンは淡々と事実を並べる。
「食事を取ったか確認する事もない。体調を気遣う事もない。泣いた顔を見てあんな顔をする事も。」
「・・・あんな顔?」
「怖かったですよ。」
真顔だった。
アネットは思わず吹き出す。
「ふふ、そんなに?」
「ええ。市場で奥様が顔色変えた瞬間、空気が冷えました。」
「大袈裟よ。」
「事実です。」
ロビンはため息を吐く。
「周囲の商人達が怯えてました。」
「・・・旦那様って無自覚に威圧感ありますものね。」
「かなり。」
二人は少し笑った。
穏やかな空気が流れる。
だがふとロビンは真面目な顔へ戻った。
「・・・ですが。」
「?」
「奥様。」
静かな声。
「あなたは、旦那様を怖がる必要はありません。」
アネットが目を瞬く。
「え?」
「旦那様はあなたを傷つけません。」
真っ直ぐな言葉だった。
アネットは胸が少し痛くなる。
そんな保証、誰にも出来ないのに。
「・・・・分からないわ。」
アネットは俯きながら呟く。
「人って変わるでしょう?」
父のように、母のように。
「確かに人は変わります。実際に旦那様は変わりました。」
「え?」
「あなたのせいで。」
「・・・・・。」
「とてもいい方向にです。」
ロビンは静かに言う。
「以前は屋敷へ帰っても仕事しかしなかった人です。」
食事も適当で会話も最低限。
笑う事も少なかった。
「でも最近は違います。」
ロビンは少し目を細める。
「奥様がいる食卓にはちゃんと来る。」
アネットの胸が熱くなる。
「奥様が領地へ出ると言えば同行する。」
そんなの、偶然かもしれない。
そう思いたいのに。
「奥様が泣けば、あんな顔をする。」
ロビンは静かに言った。
「少なくとも私は、旦那様が誰かにあんな顔をするのを初めて見ました。」
アネットは言葉を失った。
胸が苦しい。
嬉しい。
怖い。
全部混ざっている。
「・・・だから困るの。」
ぽつりと零れる。
「優しくされると、期待しちゃうから。」
ロビンは少し黙った。
その横顔はどこか複雑だった。
けれど彼は静かに口を開く。
「期待していいんじゃないですか。」
「え?」
「少なくとも旦那様は、あなたを大切にしています。」
アネットは俯く。
「でも私は・・・。」
怖い。
好きになるのが。
愛するのが。
失うのが。
「奥様。」
ロビンは静かにアネットを見る。
「もし旦那様があなたを泣かせるような事があれば。」
「?」
「その時は私が旦那様を殴ります。」
真顔だった。
アネットはぽかんとした後、思わず吹き出した。
「ふふっ・・・!」
「笑い事ではありません。」
「だって、あなた執事でしょう?」
「ええ。」
「主人殴るの?」
「必要なら。」
あまりにも真顔で言うから、アネットは涙が出るほど笑ってしまった。
ロビンは呆れたようにため息を吐く。
けれどその目は少しだけ優しかった。
「・・・やっと笑いましたね。」
その言葉に、アネットは笑みを止める。
ロビンは小さく笑う。
アネットは心が温かくなるのを感じた。
「ありがとう、ロビン」
「どういたしまして。」
ロビンは静かに一礼した。
その背中を見ながらアネットは思う。
この屋敷には、不器用だけど優しい人達がいる。
だからきっと・・・離れる時が来たら、すごく寂しくなる。




