9.嫌いな人
その日の朝は、少し肌寒かった。
窓を開けると秋の風がふわりとカーテンを揺らす。
アネットは鏡の前で髪を整えながら、小さく息を吐いた。
最近、妙に胸が落ち着かない。
理由は分かっている。
分かっているからこそ、考えないようにしていた。
「奥様、そろそろ出発のお時間です。」
扉の向こうからロビンの声が響く。
「ええ、今行くわ。」
今日は領地視察の日だった。
南側の市場で新しく大きな商会が店を出すため、流通や治安の確認を行うらしい。
本来ならアネットが同行する必要はない。
けれど最近は領地運営へ関わる事も増え、自然と同行するようになっていた。
最初は“契約妻”として最低限の役割だけ果たせればいいと思っていたのに。
今では領地の人々の顔を覚え、問題点を考え、少しでも役に立ちたいと思うようになっている。
それが不思議だった。
屋敷の前には既に馬車が待機していた。
イーサンはいつものように無言で立っている。
黒いコート姿、整った顔立ち、相変わらず近寄りがたい雰囲気だ。
「お待たせしました。」
アネットが近づくと、イーサンは短く視線を向けた。
「寒いな。」
「え?」
「羽織り持ったか。」
ぶっきらぼうな言葉。
だがちゃんと気遣っている。
アネットの胸が小さく騒ぐ。
「持ちました。」
「そうか。」
短い返事。
それだけなのに嬉しくなってしまう自分が嫌だった。
ロビンがそんな二人を静かに見ている。
「旦那様、奥様。そろそろ。」
「ああ。」
三人は馬車へ乗り込んだ。
市場は朝から賑わっていた。
焼き立てのパンの香り、野菜を並べる商人達、元気な子どもの声。
「伯爵様だ!」
「奥様も!」
領民達が嬉しそうに頭を下げる。
アネットは自然に微笑み返した。
「おはようございます。」
「この前の薬草茶、本当に効きました!」
「まあ、良かった。」
「妻が喜んでまして!」
市場の女性達が集まってくる。
以前ならこんな風に話しかけられる事へ緊張していただろう。
だが今は違う。
この土地の人々と関わる時間がいつの間にか嫌いではなくなっていた。
「奥様、これ持っていってください!」
果物屋の老人が林檎を差し出す。
「え?でも。」
「お礼です!」
周囲も笑っている。
アネットは困ったように笑った。
「・・・ありがとうございます。」
受け取ると、周囲から拍手まで起こった。
「本当に人気ですね。」
少し後ろにいたロビンがぼそりと言う。
「ロビンは最初嫌ってたのよね。」
「嫌ってません。」
「絶対嫌ってたわ。」
「警戒していただけです。」
「それを世間では嫌ってるって言うのよ。」
ロビンが眉を寄せる。
その顔がおかしくてアネットは思わず笑った。
イーサンはそんな二人を横目で見ている。
何も言わない。
けれど少しだけ目元が緩んでいた。
視察は順調だった。
新しい商会の責任者と話し、流通経路を確認し、倉庫の管理状態を見る。
イーサンは必要最低限しか喋らない。
だが判断は的確で早かった。
領民達も彼を信頼している。
「旦那様って、ちゃんと領主してますよね。」
アネットがぽつりと呟く。
「当たり前だ。」
イーサンが即答した。
「失礼な事言うな。」
「褒めてるんです。」
「褒め方がおかしい。」
珍しく返しが早い。
アネットは吹き出した。
ロビンが小さくため息を吐く。
「最近、旦那様は奥様相手だと会話量が増えましたね。」
「・・・そうか?」
「自覚ないんですか?」
「ない。」
「でしょうね。」
ロビンは呆れたようだった。
アネットはなんとなく照れ臭くなって視線を逸らす。
そんな時だった。
「聞いたか?また愛人囲ったらしいぞ。」
近くの酒場から男達の笑い声が聞こえてきた。
「今度は随分若い娘だってな!」
「奥方が可哀想だ!」
「でも金持ちはそんなもんだろ。」
「どうせ家には金入れてるんだろうし問題ないさ!」
下品な笑い声。
その瞬間。
アネットの足が止まり、空気が変わる。
「・・・奥様?」
ロビンが気づいた。
アネットはじっと酒場の方を見ている。
表情が消えていた。
「愛人を作る人ってーー」
静かな声だった。
「本当に嫌い!」
ロビンが目を見開く。
イーサンもアネットを見る。
「家族を傷つけてるのに、平気な顔して笑って!」
アネットの拳が小さく震えていた。
「最低よ!」
いつもの穏やかな彼女からは想像出来ないほど冷たい声音だった。
周囲の空気が静まる。
アネットははっとしたように俯いた。
「・・・ごめんなさい。」
「謝る必要ない。」
イーサンがぶっきらぼうに言う。
「行くぞ。」
それ以上何も聞かなかった。
だがアネットの表情は、その後もどこか硬かった。
屋敷へ戻る頃には、空は茜色に染まっていた。
夕食の時間。
長いテーブル。
静かな食器の音。
普段通りのはずなのに、アネットはどこか上の空だった。
「・・・奥様。」
ロビンが小声で呼ぶ。
「スープ、冷めます。」
「あ・・・ごめんなさい。」
アネットは慌ててスプーンを持つ。
イーサンは向かい側から静かにその様子を見ていた。
「・・・・・。」
無言の視線。
落ち着かない。
最近、この人に見られると胸が変になる。
「・・・何ですか?」
アネットが耐えきれず聞く。
「元気がない。」
イーサンの言葉にアネットの心臓が跳ねる。
「そ、そんな事・・・。」
「ある。」
即答だった。
ロビンが小さく息を吐く。
「奥様、誤魔化しても無駄ですよ。」
「ロビン!?」
「元気がない事ぐらい、誰がどう見てもわかります。」
「うっ・・・。」
ロビンの言葉に気まずそうなアネット。
「・・・食後、中庭へ来い。」
イーサンがぽつりと言う。
「え?」
「少し話す。」
アネットは目を瞬く。
珍しい。
イーサンの方からそんな事を言うなんて。
夜。
中庭には静かな月明かりが降り注いでいた。
秋の虫の声。ひんやりした風。
アネットが中庭へ出ると、イーサンは既にそこにいた。
「旦那様。」
「来たか。」
短いやり取り。
だが嫌な沈黙ではなかった。
「・・・昼の事だが。」
イーサンが口を開く。
アネットの肩が少し揺れる。
「何か思い出したのか。」
鋭い。
本当にこの人は時々妙に鋭い。
「……どうしてそう思うんですか。」
「顔。」
「私ってそんなに分かりやすい?」
「ああ」
即答だった。
アネットは恥ずかしくて顔を押さえる。
そうしてしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
「・・・父の事を思い出したんです。」
イーサンは黙って聞いている。
「父は愛人ばかり作る人でした。」
静かな声。
「母は、ずっと泣いてた。」
思い出す。
父の帰りを待つ母。
笑顔を作る母。
でも夜になると一人で泣いていた。
「それでも母は父を愛してたんです。」
理解出来なかった。
どうしてそんな男を愛せるのか。
「私は父が嫌いでした。」
今でも許せない。
家庭を壊して平気な顔をしている人間が。
「・・・旦那様。」
アネットは少し笑った。
「私、愛って怖いんです。」
イーサンのグレーの瞳が静かに向けられる。
「愛すれば愛する程苦しくなるでしょう?」
「・・・・・。」
「母みたいになるくらいなら、最初から愛さない方が楽だって思ってました。」
だから契約結婚に安心した。
愛されなくてもいい。
愛さなくてもいい。
そう思えば傷つかないから。
なのに最近は違う。
イーサンの優しさが胸を苦しくする。
期待してしまう。
それが怖かった。
「・・・私は。」
アネットは俯く。
「母みたいになりたくないんです。」
静かな沈黙。
イーサンはしばらく何も言わなかった。
やがて低く口を開く。
「・・・お前の父親は最低だな。」
真顔だった。
アネットは思わず目を瞬く。
「え?」
「泣かせるくらいなら最初から結婚するな。」
その言葉があまりにも真っ直ぐで。
アネットは少し笑ってしまう。
「旦那様って時々すごく単純ですよね。」
「複雑に考える必要あるか?」
「・・・ないかもしれません。」
イーサンは静かにアネットを見る。
「お前は、お前の母親とは違う。」
真っ直ぐで低い声。
「同じにはならない。」
アネットの胸が熱くなる。
「・・・どうしてそんな風に言えるんですか。」
「お前は強いからだ。」
即答だった。
アネットは息を呑む。
イーサンは愛を語るような人ではない。
不器用で、無口で、感情表現も少ない。
でも時々こんな風に真っ直ぐ言葉をくれる。
だから困る。
期待してしまうから。
「・・・ありがとうございます。」
アネットが小さく笑う。
イーサンはその顔をじっと見つめた。
そしてぽつりと呟く。
「泣いてない方がいい。」
「え?」
「お前は笑ってる方がマシだ。」
不器用すぎる言い方だった。
けれど優しい。
アネットは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
同時に怖くなる。
こんな風に優しくされ続けたら。
きっともう、自分は戻れない。
「(契約終了した後に、わたしはどうなってるのかしら?)」




