8.愛を知らない
雨が降っていた。
窓を叩く雨音が静かに屋敷へ響いている。
その日のアネットは、朝からどこか元気がなかった。
使用人達へ指示を出し、帳簿へ目を通し、いつも通り仕事をこなしている。
だが時折ぼんやり窓の外を見つめてしまう。
ロビンはそんなアネットの様子を何度も視界の端で見ていた。
「奥様。」
執務室で紅茶を置きながら声を掛ける。
「何?」
アネットは顔を上げた。
笑っている。
けれどその笑顔が妙に薄い。
「本日は何度目ですか。」
「何が?」
「ぼーっと窓の外を眺めた回数です。」
「数えてたの?」
「ええ。」
「嫌な執事ね。」
アネットは苦笑した。
だがロビンは笑わない。
「何かありましたか。」
「別に。」
「嘘ですね。」
「即答なのね。」
「分かりやすいので。」
アネットは小さくため息を吐く。
最近、ロビンは妙に鋭い。
以前なら必要以上に踏み込んでこなかったのに。
「・・・大した事じゃないわ。」
「なら話せるでしょう。」
「そういう理屈?」
「ええ。」
ロビンは淡々としていた。
アネットはしばらく黙っていたが、やがて机の端に置かれた一通の封筒へ視線を落とす。
「母から手紙が来たの。」
ロビンの目がわずかに動く。
「ご実家から?」
「ええ。」
アネットは封筒をそっと撫でた。
まだ封はされ内容は読まれてないようだった。
「昔からね。」
ぽつりと呟く。
「母は父の事が大好きだったの。」
雨音だけが静かに響く。
ロビンは何も言わず聞いていた。
「父は優しい人だったわ。少なくとも外では。」
アネットは静かに笑う。
「見た目も良くて口も上手くて・・・女性に人気があった。」
そしてーー。
「浮気性だった。」
ロビンの眉がわずかに寄る。
「愛人が何人いたかも分からないくらい。」
アネットの声は淡々としていた、まるで他人事みたいに。
けれどその指先は小さく震えている。
「母はそれでも父を愛していたわ。」
思い出す。
幼い頃、夜遅くまで父を待ち続ける母の姿を。
『今日は帰ってくるかしら。』
そう笑っていた母。
けれど父は帰って来ない。
愛人の元にいるのだと使用人達は知っていた。
幼いアネットでさえ気づいていた。
「母はね、父に愛されようとしてたの。」
料理を覚えて、ドレスを新調して、髪型を変えて、笑顔を作って。
必死に。
本当に必死に。
「でも父は変わらなかった。」
アネットは視線を落とす。
「だから母は、どんどん壊れていったの。」
ロビンは黙っていた。
下手な慰めが不要だと分かっているから。
「泣いてる母を何度も見たわ。」
アネットの声が少し震える。
「愛されたいって・・・どうして私を見てくれないの、って。」
その姿が幼いアネットには怖かった。
愛するという事が。
誰かを求めるという事が。
人をあんな風に壊してしまうのだと知ってしまった。
「だから私。」
アネットは小さく笑う。
「結婚するなら、愛のない関係の方が楽だと思ってたの。」
契約。
割り切った関係。
期待しなければ傷つかない。
そう思っていた。
なのに最近は違う。
イーサンが優しくする度、胸が痛くなる。
期待してしまう。
それが怖かった。
「・・・奥様。」
ロビンが静かに呼ぶ。
アネットは俯いたまま続けた。
「私も、いつか母みたいになるのかしら。」
その瞬間。
ぽたり。
涙が一粒、机へ落ちた。
アネット自身が一番驚いた顔をする。
「・・・あ。」
慌てて目元を押さえる。
「ご、ごめんなさい。」
泣くつもりなんてなかった。
なのに勝手に涙が零れていた。
ロビンは静かに近づく。
そして机の上へハンカチを置いた。
「無理に止めなくていいでしょう。」
優しかった。
その優しさに、余計涙が溢れそうになる。
「変よね。」
アネットは震える声で笑う。
「もう子どもじゃないのに・・・。」
「泣くのに年齢は関係ありません。」
「でも。」
「奥様。」
ロビンは真っ直ぐアネットを見る。
「あなたは、ずっと我慢しすぎです。」
アネットの呼吸が詰まる。
母の事を誰にも言わなかった。
言えなかった。
怖かったから。
弱いと思われるのが。
「私・・・。」
声が震える。
「私・・・怖いの。いつか壊れるのが。」
ロビンが静かに目を細めた。
「人を愛する事が。」
ぽろぽろと涙が零れる。
「だって愛してしまったら、きっと苦しくなる。壊れてしまう。」
母みたいに。
愛されたいと願って。
報われなくて。
壊れてしまう。
「だから最初は、契約で良かったの。」
愛されなくてもいい。
愛さなくてもいい。
そう思えば安心出来た。
なのに。
「最近、分からなくなるの・・・。」
イーサンの優しさを思い出す。
不器用な言葉。
時折向けられる気遣い。
あの静かな眼差し。
全部が胸を乱す。
涙が止まらない。
「怖いのに・・・。」
ロビンは静かにアネットを見つめていた。
その瞳に浮かぶ感情をアネットは知らない。
ただ彼は、ゆっくりと口を開く。
「・・・愛する事は必ずしも不幸になる事ではありません。」
アネットが涙で濡れた目を向ける。
「あなたのお母様は、不幸だったかもしれない。」
ロビンは静かに続ける。
「ですが世の中には違う夫婦もいます。」
「・・・・・。」
「互いを大事にして、穏やかに笑い合う夫婦も。」
アネットは小さく俯いた。
「そんなの・・・。」
「信じられませんか。」
アネットは答えられない。
信じたい気持ちはある。
でも怖い。
傷つくのが。
「ゆっくりでいいんです。」
ロビンの声は静かだった。
「無理に変わる必要はありません。」
その言葉に、アネットはまた涙を零した。
ロビンはそれ以上何も聞かなかった。
ただ静かに紅茶を淹れ直す。
温かな香りが部屋へ広がる。
雨はまだ降り続いていた。
まるでアネットの心の中みたいに、静かに。




