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毒を受け入れる

しばらく、誰も動かなかった。

俺は倒れた兵の腰から水袋を抜き取り、踏み荒らされた足跡を崩した。

血のついた草を別の方向へ擦る。死体は低木の影へ押し込んだ。

槍は草の中へ沈める。剣は泥の多い場所へ蹴り込む。


尾根の先に敵影はない。


そこまで確認してから、俺は窪地へ戻った。

「これで少しは、時間を稼げる」

ハンスは返事をしなかった。


俺の顔ではなく、手を見ている。

血のついた指。

短剣。

それから、首筋。


マイトレーヤに刺された場所で、ハンスの目が止まった。

「……アッシュ」

「問題ない」


マイトレーヤが、背後で笑った。

『初めてにしては、とても上手』


ハンスの肩がびくりと揺れる。

それでも、俺ではなく、背後の羽音を睨んだ。

「……おまえが、やらせたんだ」


ミアが林の奥へ目を走らせた。猫耳が、何度か向きを変える。

「ここで揉めてる場合じゃないわ。今の三人が戻らなければ、次が来る」

「行くぞ」

俺は先に立った。


林の中を抜ける間、俺は一度も迷わなかった。

枝の薄い場所も、沈まない土も、見なくても順番が分かった。


自分の足じゃないみたいだった。

背後で、ハンスの息が乱れた。

「……アッシュ」

振り向く前に、マイトレーヤの声が届く。

『左は駄目。土が緩んでいるわ』

右へ逸れる。その直後、背後で土が崩れた。

振り返ると、ハンスが片膝をついていた。

ミアが咄嗟に腕を掴んでいる。


すぐ戻った。


ハンスの胸倉を掴み、ほとんど引き上げるみたいにして立たせる。

ミアも固い土の上へ戻す。

「足元を見ろ」


「……見てたよ」

ハンスの口元が歪む。

「悪かったね」


マイトレーヤが笑う。

『弱ったものは落ちるものよ。守るなら、ちゃんと掴んでいないと』

「うるさい」

ハンスの声は震えていた。

『嫌われたわ』


「ハンス」

俺はハンスの前で膝をついた。

「乗れ」

ハンスは動かない。

「乗れ」

声が硬くなる。ハンスの指が、また土を掴んだ。


ミアが何か言いかけて、唇を閉じた。

俺は、ハンスの腕を取った。


「暴れるな。落ちる」


「やめてってば」

ハンスの声が少し割れる。それでも、俺は腕を肩へ回させた。


膝の裏へ手を入れる。

背負い上げると、思ったより簡単に体が持ち上がった。


耳元で息が止まる。

「降ろして」


「駄目だ」


「……アッシュ」


「隊長に追いつく」

それだけ言って、歩き出した。


「……重くないの」


「軽い」

ハンスは背中で少しだけ不満そうに息を吐く。

ハンスの指が、俺の服を掴む力をほんの少しだけ強めた。


林の出口は近づいている。


枝の影が背中から肩へ流れ、ハンスの髪にかかった草の種が一つ、俺の襟元へ落ちた。



林を抜けた先で、ようやく隊の気配を拾えた。


火は使っていない。煙の匂いもない。それでも、隠れ慣れた兵の沈黙には形がある。


木の幹の陰。

折れていない枝の奥。

風で揺れる葉とは違う、呼吸を止めた気配。


背中で、ハンスの指が俺の服を掴み直した。俺はハンスを背負ったまま、右手を上げる。


すぐに木陰から影が二つ出た。槍の穂先が一度こちらを向き、次の瞬間には下がる。


木立の奥から、レオム隊長が現れた。


まず俺を見る。次に、俺の背中にいるハンスを見る。最後に、少し離れて立つミアで目が止まった。


「追手は」

「止めました」


隊長は少し黙り、俺の首筋へ目を止める。

赤く腫れた刺し傷は、暗がりでも隠れなかったらしい。


「それは何だ」

「掠り傷です」


背中で、ハンスの喉が小さく動いた。けれど、何も言わなかった。

俺は膝を折り、ハンスを地面に下ろした。足が土についた瞬間、ハンスの膝が沈みかける。


「歩けるか」

「問題ありません」

答えたのは俺だった。


隊長の目が、ほんの少し細くなる。

「ハンスに聞いている」


「……行けます」


隊長は俺たち三人を順に見て、それ以上は追及しなかった。


「短く休む。水だけ回せ。そのあと出る」

その声で、隊が短くほどけた。


俺はすぐにハンスの前へ行った。

「座れ」


ハンスは返事をしない。けれど足がもつれ、近くの倒木に腰を落とした。

膝をつく。ハンスの靴は泥で固まり、足首のところだけ布地が盛り上がっていた。

腫れている。


結び目に指をかける。

「……やめ」

構わず、紐をほどいた。

足首の外側に指を当てると、ハンスの肩が跳ねた。


「ここだな」

俺は布を巻き始めた。緩ければ歩くたびにずれる。

固定するために、強めに巻いた。


ハンスが唇を噛む。声は出さない。

少し離れたところから、ミアの声がした。


「その巻き方、足じゃなくて荷物を縛ってるみたい」

「歩ければいい」


ミアは泥のついた膝を抱えて座っていた。

ハンスの足首を見る目だけは、捕虜の手当てをしていた時と同じだった。


俺は結び目を少しだけ緩めた。


「これでどうだ」

ハンスは足先を少し動かす。

「……さっきよりマシ」


近づいてくる足音がした。

レオム隊長だった。


「さっきの追手だが、確認する。何人だ」

「三人です」


「気づかれずにか」

「はい」


「できるなら、最初からやれ」

ハンスの指が、膝の上で強く握られた。

「次はそうします」

ハンスの肩が、わずかに沈む。


「……そうか」


隊列が動き出す。


俺はハンスの腕を取った。

「中央へ入れ」


「……分かった」

ハンスは俺の手を一度見た。それから、列の真ん中へ足を出す。

ミアは列の外へ下がり、ドルクがその横についた。


俺は一番後ろへ回った。前にハンス。その少し外にミア。

見える場所に置いた。


隊列は細く伸び、木々の間へ入っていく。



夜は浅い。眠るための夜ではない。息を潜めるための夜だった。

隊は低い窪地に散り、誰も大きな声を出さない。


俺は見張りの位置にいた。背を木に預け、短剣を手の届く場所に置く。


葉擦れ。

遠くの虫の声。

ハンスの浅い呼吸。


前なら、どれも夜の音で済んでいた。


今は違う。

音のひとつひとつが、細い糸みたいに耳へ残る。

拾おうとしていないのに、勝手に引っかかる。


首筋の刺し跡が、まだ脈を打っていた。


窪地の端で、ハンスが倒木にもたれて座っている。

少し離れたところで、ミアが膝を抱えている。


「……寝ないの」

ミアの声だ。いつの間にか、ハンスの近くまで来ている。

「寝られるように見える?」


「見えない。陸に上がった死にかけの魚みたいな顔してるもの」

それだけ言って、ミアは隣ではなく、少し離れた場所に腰を下ろした。


「昼のあれ」

ハンスの呼吸が止まった。


「……なに?」


「あんた、アッシュのこと怖がってる」


「怖がってないよ」


「じゃあ、何」

ハンスはすぐに答えなかった。


「……分からない」

声は小さかった。


「助けてくれたのは本当だよ。追手を止めたのも、僕たちが死なないためだ」


「うん」


「でも……前は、もっと聞いてくれた」

言葉の間に、浅い呼吸が挟まる。


「僕が遅いとか、無理だとか言ったら、嫌そうな顔しても、一応は止まった」

少し間が空いた。


「今は、僕が何を言っても、その先に答えが決まってるみたい」

ミアは少しだけ目を伏せた。


「死なないために、そうなることもあるんじゃない」


「分かってる」

ハンスの声が落ちる。


「でも、僕のためにあれをやった」

ミアは何も言わなかった。


近くで枝が、乾いた音を立てて落ちた。

ハンスが両手で顔をこする音がした。

「巣主って言った」


「何それ」


「僕、あの時止めればよかったのかな」


「あの状況で、止められたと思う?」

ハンスは何も返さない。


やがて、小さく言った。

「……思わない」


「きっかけはあんたでも、選んだのはあの子でしょ」

ハンスは何も言わない。


「全部あんたのせいにしたら、あの子が勝手に決めた分まで、あんたが背負うことになる」


「……でも、あんたのために選んだのも本当なんでしょうね」

ハンスの喉が、細く鳴った。


ミアは少しだけ息を吐く。

「だから、あんたが一番大事なのは本当なんだと思う」


「分かってるよ」


「だったら、怖いのは、その下に何があるかでしょ」

ハンスはすぐに答えなかった。


「……それ、どうすればいいの」

声は、ひどく小さかった。


ミアはしばらく黙った。

「知らない」


「知らないのに言ったの?」


「知ってたら、こんな場所で泥かぶってないわよ」

ハンスが少しだけ顔を上げた。


ミアは膝の上で指を組み直す。

「でも、怖いなら怖いって言えばいいんじゃない」


「言って、聞いてくれるかな」


「聞かない相手なら、何回でも」


「何回でも?」


「聞くまで」


「……そうだね」

声が、さっきより少しだけ前を向いた。

「何度でもお願いしてみるよ」


「僕を置いて、どこにも行かないでって」

「いつか、アッシュの村に行こうって」


その言葉で、頭の中にずっと詰まっていたものが、ふっと消えた。


首筋の熱が、少しだけ遠のく。


俺は立ち上がった。


葉を踏まない場所を選んで歩く。足音はほとんどしない。

闇の中から出ると、ハンスとミアが同時にこちらを見た。

「異常は?」


「何も」

ハンスがすぐに答える。ミアは俺を見ていた。何か言いそうな顔をして、結局何も言わない。


「もう少しで交代だ。おまえは横になれ」


「眠くない」


ミアが立ち上がる。

「私は向こうにいる」

去り際、ハンスを一度だけ見た。ハンスは倒木から背を離し、少し体を横へずらす。


足を伸ばすと、やはり痛むらしい。しゃがんで、布の結び目に手をかけた。

そこで、指が止まる。

「痛いところはどこだ」

ハンスが俺を見る。


「……え?」

少しだけ間があった。

「……アッシュ、戻った?」


「何が」


「なんか、さっきまでと違う」

ほんの一瞬だけ考えてから答える。

「……俺じゃないみたいだった。自分でも、少し」

ハンスは何も言わなかった。


それから、足首の外側を指で示す。

「ここ。あと、靴の口が当たる」


「分かった」

布を緩めて巻き直す。

「これでどうだ」


「……アッシュ、絶対さっきより下手になってる」


「うるさい。二回目なんだからマシなはずだ」


「痛いってば」

ハンスの視線が、また首筋で止まった。

「何だ」


「痛くないの」

ほんの一瞬だけ考えてから答える。

「少し熱い」


「……そうなんだ」


「気になるのか」


「そりゃ」

短く返すのが精一杯だったらしい。


しばらくハンスを見ていた。

「……おまえは守る」

唐突に出た。

「それは変わらない」

ハンスは笑わない。頷きもしない。


言葉を間違えたのだと、今度は少し早く分かった。

「違う」

ハンスの目が揺れる。

「守る。けど」

息を吸う。喉の奥で、言葉が少し引っかかった。

「先に聞く」

ハンスは何も言わなかった。


ただ、さっきまで強張っていた肩が、ほんの少しだけ落ちた。

「……ほんとに?」

小さな声だった。責める声ではなかった。俺は答えられなかった。


その時、木の向こうから交代の合図が入った。


「行って」


ハンスの声はまだ掠れていた。


すぐには動けなかった。

数秒だけ、そのままいる。


それから、ようやく立ち上がった。


「少し休め」


「……うん」


背を向けて離れる。

葉が揺れ、影が戻り、俺は交代の兵に持ち場を預けた。




朝は音から来る。


光より先に、葉擦れと、靴裏が土を踏む音が増えていく。


目を開けた。


眠っていたのかどうか、よく分からない。

見張りを代わってから、目を閉じていた時間はある。

だが、意識はずっと浅い場所に残っていた気がする。


冷たい空気を吸う。

息を吸うと、喉の奥にざらつきが残っていた。


首筋の傷は、まだ脈を打っている。

軽さと、妙な冴えだけが残っていた。

見張りの位置から窪地を見下ろす。荷をまとめるドルク。靴紐を締め直すザック。


レオム隊長は、もう列の先を見ていた。声を潜めたまま、列の準備が整っていく。

視線を走らせた。

外周。異常なし。装備。落ちているものなし。最後に、ハンス。


倒木のそばで座ったまま、まだ起ききっていない。目は開いている。

葉先に残った露が、朝の薄い光を受けて白く光っていた。靴が草を払うと、その粒が一つだけ落ちて、泥の上で消えた。


ミアが先にこちらに気づき、少しだけ目を細めた。俺はハンスの前で止まる。

「立てるか」


「……たぶん」

しゃがみ、足首の布を見る。腫れはまだある。だが、歩行は可能だ。


隊長の声が飛ぶ。

「列を組め。十分で出る。今日が接触日だ。遅れは許さん」

今日。

その言葉で、窪地の中の動きが少し速くなった。ハンスが水袋を握ったまま、隊長の方を見た。俺も顔を上げる。


隊長の方へ向かう。途中でミアの横を通った。

「昨日より顔色悪いわよ」


「支障はない」


「その答え方、嫌い」


「好き嫌いで歩けるなら楽だな」

ミアの耳が、少しだけ後ろへ倒れた。

「そういうところよ」

耳には残る。隊長の前で止まると、相手は一度だけ俺の全身を見た。

「動けるな」


「はい」


「なら今日は前寄りだ。ただし独断で進むな」


「了解」


隊列が動き出す。林道は狭く、前後に細く伸びる。

「アッシュ」

振り返る。ハンスが列の真ん中からこちらを見ていた。足をかばっているせいで、隣の兵との間が少し開いている。

「何だ」

ハンスは一度だけ目を伏せた。すぐに上げる。

「……無理しないで」

それだけだった。返す言葉が、少し遅れた。


大丈夫だ、は違う。支障はない、も違う。


列が一歩進む。ハンスの足が、遅れて土を踏む。

「……おまえも」


隊列が動き、距離が開く。

前を向く。鳥が遠くで一度だけ鳴き、すぐに黙った。

隊列は細く伸び、木々の影へ入っていく。





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