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孤児兵アッシュと黒葬の女王蜂  作者: 53ヘルツのクジラ
第二部 魔族領潜入
8/19

後ろから撃つな

昼に近づくころ、林の中の影が足元へ短く縮んだ。

先頭のレオム隊長が手を上げる。


枯れ葉を踏む足音が、一斉に止まった。

枝の隙間から、斜面の下が見えた。

村がある。

家は三十ほど。土壁の家が低い屋根を寄せ合い、中央に広場がある。広場の奥には祠。外れには、川へ向かう細い道が一本伸びていた。

畑では、麦が刈られたあとだった。

煙は少ない。

昼前なら煮炊きの匂いが上がっていてもよさそうなのに、風が運んでくるのは乾いた土と埃の匂いだけだった。

広場では、人が動いていた。

空の籠を抱えた者。


布で包んだ荷を足元に置く者。


周囲の顔色をうかがいながら、祠の戸口へ荷を運ぶ者。

小さな祠だった。


それなのに、村で一番、人の足が集まっていた。

その祠の前で、ひときわ大きな女が立っていた。


遠目でも、村人より頭一つ高い。

白い巫女布を肩から掛けている。


けれど、その袖から出た腕は丸太のように太かった。額からは二本の角が伸びている。

女は広場の端に置かれた籠を一つ持ち上げた。

片手で底を確かめ、中を覗く。


それから、隣にいた若い男へ顎を振った。

男は頷き、籠を抱えて祠の裏へ回っていった。

女は次の籠へ手を伸ばす。

祈りを捧げる巫女というより、荷と人の流れを数えている者の動きだった。

「あれがベルタか」

ドルクが低く言った。

レオム隊長は広場から目を離さない。


村の中にいるのは獣人ばかりだった。

猫人。


犬人。


毛深い腕の男。


角のある老人。

俺たちの顔も耳も、隠しようがない。

隊長の目がミアへ向いた。

「お前なら入れるか」

ミアは小さく息を吸う。

「行ける。見える範囲には、帝国兵はいない」


「伝えろ。ローデル王国軍アルヴェイン卿の使いが来た。ベルタに会いたい」


「アルヴェイン。名前を出せば分かるの?」


「分かるように話は通してある」

ミアは林を出た。

村の端を歩いても、誰も大きく振り返らない。


猫人の娘が一人増えたところで、広場の流れは変わらなかった。

ベルタだけが、途中でミアに気づいた。

籠を持ち上げかけていた手が止まる。


二本の角が、こちらへ少し向いた。

その視線が林の影まで届いたように見えた。

「見えてるっスね」

ザックが言った。

「だろうな」

隊長は短く返す。

広場では、ミアがベルタに何かを言った。


ベルタが頷く。

口元だけが動き、ミアはすぐに顔を上げた。

二言、三言。

それだけで足を返す。

村の端まで戻ってくるころには、ベルタはもう別の籠を手に取っていた。


何事もなかったように、広場の流れが戻っている。

ミアは林に入るなり、声を落として言った。

「水車小屋で会うって」

ザックは村外れの川筋へ目をやった。

上流のどこかで水が落ちる音が、風に混じってかすかに届く。

「用心してるっスね」

レオム隊長は頷いた。

「行くぞ」

水車小屋は、村外れを流れる細い川のそばにあった。

川幅は狭い。


けれど流れは速く、水車の羽板に当たるたび、濁った水が白く跳ねた。

跳ねた水は一瞬だけ光を拾い、すぐ川へ戻っていく。

小屋の壁には古い粉がこびりついている。


中は狭かった。

カビと古い麦の混じった匂いがこもっていた。


壁際には粉袋が積まれている。いくつかは口を縛られ、いくつかは中身を抜かれたまま折り畳まれていた。

中央には低い木箱が二つ置かれ、その上に地図が乗っている。

油皿の光が、地図に描かれた川筋の上で細く揺れていた。


水車が回るたびに、足元の床板が小さく震える。

声を落とせば、外までは届かない。

戸口に、ベルタが立っていた。

近くで見ると、さらに大きい。

肩幅も腕も、巫女布の中に収まりきっていない。二本の角は額からまっすぐ伸び、根元には布紐が巻かれていた。

巫女布の袖には、白い粉が薄くついている。


指にも粉が残っていた。荷を運び、地図を押さえ、祈りの列までさばいてきた手だった。

ハンスが俺の少し後ろで、ぽつりと言った。

「……すごい角」

水車の音の中で、それだけは妙にはっきり聞こえた。

俺は慌ててハンスの頭を下げさせる。


首根っこを押さえると、服越しにハンスの肩が少し縮んだ。

「馬鹿。かち割られるから黙ってろ」

ベルタは歯を見せて笑った。

「いいだろう!」

声が大きい。

ベルタは自分の角の根元を指で叩く。


こつん、と硬い音がした。

「父方の血だ。帝国兵の兜を二つ割ったことがある」


「……巫女が言っていいの?」

ハンスが小さく聞く。

ベルタはさらに笑った。

「祈る前に、生き残らなきゃならんのでな」

その顔のまま、ベルタはレオム隊長へ向いた。


笑みは残っている。

けれど、目だけがハンスから地図へ移っていた。

「で、王国軍はどこまで呑む」

隊長は木箱の前に立った。

「俺は、斥候隊のレオムだ。先に、お前たちが何をしようとしているのか聞く」


「レオムか。わかった。何が知りたい?」

ベルタは地図の端を指で押さえた。


羊皮紙が擦れる音がする。

地図の中央には、大きな都市の印があった。

隊長はその印を見た。

「この国が帝国に落ちたのはいつだ」


「半年前だ。首都カルザグが落ちた」

ベルタの太い指が、その印を叩く。

「王城、城門、記録所は押さえられた。首都の権力者どもは、そこで割れた」


「帝国派か」


「そうだ。帝国に頭を下げれば地位を残すと言われた連中がいる。倉庫を任され、名簿を任され、徴発を任された」

ベルタの声が少し低くなる。

「だが、その時点ではまだ終わっていなかった。辺境の軍と氏族は抵抗していた。カルザグの外では、帝国兵を通さない土地もあった」

「弾圧は」

ドルクが聞く。

「ある。表で声を上げれば捕まる。名簿に名前を書かれれば、家族を取られる」

ベルタの指が、地図の上で止まった。

「だから皆、祈りの列に紛れる」

「祈りの列?」

俺が聞くと、ベルタは俺を見た。

「メッテイヤ教だ。祠に集まる。祈る。施しを受ける。巡礼に出る」

「それだけなら、帝国兵も見逃すんスね」

ザックが言うと、ベルタは少しだけ笑った。

「見逃すんじゃない。数えるんだ」

地図の端を押さえる指に、少しだけ力が入る。

「誰が来たか。誰が来なくなったか。腹を空かせた者の名前は、よく残る」

ハンスの指が、服の端を握った。

「……祈ってるのは、嘘なの?」

ベルタの目が、そこで初めてハンスへ向いた。

「嘘じゃない。そこを間違えるな」

声が低くなった。

「祈りは本物だ。だから使える」

ハンスは少しだけ黙った。

「……本物だから、使うの?」


「そうだ」

ベルタは表情を変えない。

「女神メッテイヤは長い眠りから戻り、民を救う。そういう言い伝えがある」

「信じているのか」

隊長が聞く。

ベルタは少しだけ口の端を上げた。

「信じている者はいる。信じたい者もいる。信じなければ立っていられん者もいる」

ベルタは地図の端を押さえたまま続けた。

「祠は、祈るだけの場所じゃない。施しに混ぜて物を動かす。巡礼に紛れて人を動かす。葬列なら、帝国兵も荷を改めにくい」

ミアの耳が動いた。


ザックが目を細めた。

「祈りを兵站にしてるんスね」


「帝国が暮らしを兵站にした。なら、こっちは祈りを兵站にする」

「反乱軍だからな」

俺が言うと、ベルタは俺を見た。

「そうだ。だからきれいな理屈だけでは腹は膨れん」

ザックは肩をすくめた。

「神様も忙しいっスね」


「暇な神なら、とっくに帝国に雇われてる」

隊長が地図のカルザグを見下ろす。

「辺境はまだ抵抗していた。なら、なぜ今になって急ぐ」

ベルタは地図の端を押さえる粉袋を、指で少しずらした。


ざらり、と重い音がする。

水車が重く回る。


床板が小さく震えた。

「一か月前、首都の帝国派が、ザルガド政府の名で帝国と停戦した」

ベルタは地図の上で、首都から街道へ指を滑らせる。

「表向きは戦後復興だ。橋を直す。倉庫を建て直す。食糧を配る。そういう名で帝国の役人が入ってきた」

「復興って、いいことじゃないの」

ハンスが小さく言った。

ベルタは笑わなかった。

「いいことだ。橋は直る。倉庫も建つ。粥も配られる」

そこで、地図の首都を指で叩いた。

「誰が橋を通ったか。誰が倉庫に来たか。誰が粥を受け取ったか。全部、名前が残る」

俺は、孤児院の黒パンを思い出した。食った分は、いつか体で返す。あそこにも、名簿があった。


口の中に、古い麦の味が蘇る。

「復興支援の名で、首輪を配ったわけか」

隊長が言った。

ベルタは頷く。

「首都の帝国派は、それに乗った。邪魔なのは辺境軍だ。帝国に従わず、反乱が起きればこちら側に回る兵だからな」


「それで王国戦線へ送ったのか」


「命令書には、ザルガド政府の印が押されている。だが書いたのは帝国派だ」


「証拠は」


「命令を運んだ者を、一人押さえている。写しもある」

ベルタの指が、カルザグから王国側の前線へ滑る。

「勝つためじゃない。削るためだ」

ハンスが小さく言った。

「……味方を?」

ベルタはハンスを見た。

「帝国派にとって、辺境軍は味方じゃない。いつか自分たちに槍を向ける兵だ」

指先が前線の印で止まる。

「このまま王国とやり合えば、辺境軍は削れる。生き残っても、ばらされる。隊を割られ、頭をすげ替えられる」

「反乱の戦力が消えるな」

隊長が言った。

「ああ。だから急ぐ」

ベルタは地図のカルザグをもう一度叩いた。

「首都の中には、まだ動ける者がいる。外には、まだ踵を返せる辺境軍がいる。だが長くはもたん」

水車の音に、粉袋の擦れる音が混じった。

「七日後、最後の辺境軍がカルザグの近くを通る。だが、数は少ない。だから、前線の辺境軍もその日に動く」


「それを王国軍に撃たれると困るというわけか」


「困るどころじゃない」

ベルタは隊長を見た。

「前線の辺境軍が反乱の主力だ」

小屋の中で、誰もすぐには返事をしなかった。水車だけが重い音を立てて回っている。

俺は地図を見た。

カルザグも、前線も、辺境軍も、遠い。


けれど帝国兵がこの村へ戻るなら、話は別だった。

この村が潰れれば、ハンスを寝かせる場所も消える。


ミアを隠す場所も消える。

国の形なんか分からない。


でも、その火がハンスの寝床まで来るなら、止めるしかない。

ハンスが、小さく口を開いた。

「じゃあ、前線の辺境軍が本気でローデル軍と戦わなければいいんじゃないの?」

レオム隊長がハンスを見た。


答えたのはベルタだった。

「子どもの答えだな」

ハンスの肩が小さく跳ねる。

「悪い意味じゃない。まだ、味方って言葉を信じてる」

ベルタは前線の印を押さえた。

「指揮官は帝国派に替えられている。命令に逆らえば、臆病者では済まん。裏切りだ。家族を首都に置いている兵もいる。退けば、先に家が燃える」

「……味方なのに」


「味方という札が貼ってあるだけだ。檻にも札は貼れる」

隊長の指が、前線の印を押さえた。

「それに、ローデル軍から見れば、向こうは敵だ。手を抜いているかどうかなど分からん。攻められれば、撃ち返す」

ハンスは地図を見た。

前線の印から、カルザグへ戻る線を目で追う。

「……だから、王都から止めないといけない」


「ああ」

ベルタが低く言った。

「王国には何を求める」


「簡単だ」

ベルタは隊長を見る。

「後ろから撃つな」

その声だけは、水車の音にも紛れなかった。

「共闘しろとは言わん。反転する辺境軍を撃つな。それだけでいい」

俺は思わず言った。

「それを王都に通せって? じゃあ、もっとまともな理屈を用意しろ」

ベルタの視線が俺へ向く。

「まともな理屈なら、そこに転がっている」

ベルタは粉のついた指で、地図の前線を押さえた。

「王国軍が辺境軍を潰せば、帝国派が喜ぶ。帝国が得をする。王国は、敵の片棒を担ぐことになる」

隊長は黙っていた。

ベルタは続ける。

「それに、前線の辺境軍が戻れば、帝国は背中を刺される。王国にとっても悪い話ではない」

「最初からそれを言えよ」


「お前が急いで噛みついたんだろう」

ベルタは短く返した。

会議の空気は軽くならない。ただ、少しだけ呼吸できる場所ができた。

ベルタの指が、前線の印を押さえる。

「王国があれを潰せば、カルザグは落ちない。俺たちも終わる」


「それを王都へ持ち帰れと?」


「そうだ」

隊長は黙った。

ザックが懐から通信魔具を少しだけ出す。

「これで済む話じゃないっスか」

隊長は首を振る。

「王都までは届かん。砦を中継にする前提の魔具だ」

「それに」

ベルタが言う。

「漏れれば反乱は潰れる」

隊長はベルタを見た。

「背後から撃たない約束は、俺一人の返事では済まん。王都へ戻る」

「来た道は使えんぞ」

ドルクが指摘した。

「ああ」

隊長の指が地図の南をなぞった。

「山越えで、白鷺渡河を使う」

ザックの顔が渋くなる。

「遠いっスね」


「通常は六日、俺たちなら…」


「四日だろう」

ドルクが低く言った。

「雨が来れば渡れん」


「だから急ぐ」

隊長は地図から顔を上げた。

「王都まで届けばいい。王城からなら、砦を中継して前線へ命令を飛ばせる」

隊長は前線の印を見た。

「ぎりぎりだが、間に合わせる」

「王都が呑んだかどうかは、どう知る」

ベルタが聞いた。

隊長はすぐには答えなかった。地図の前線を見て、指を止める。

「砦から合図を出す」


「どんな」


「四日後の正午までにローデル側の砦が砲撃を止める。南塔に赤布を二枚掲げる」


「それが、背中を撃たない合図か」


「ああ」

ベルタは少しだけ目を細めた。


地図の前線の印を、指先で押さえる。

「正午を過ぎても旗がなければ」


「俺が間に合わなかったと思え」

隊長は、ベルタの視線を受けたまま答えた。

ベルタは、前線の印から指を離さなかった。

「わかった」

「前線の辺境軍には、どう伝える」

隊長が聞くと、ベルタは地図の端を押さえた。

「補給に入っている者がいる」


「兵ではなく、補給か」


「前線は腹と荷で動く。施しの荷は、粥鍋まで届くんだ」

ベルタは王国戦線の印を指で押さえた。

「矢束、干し肉、水樽、馬の飼葉。そこを運ぶ者の中に、俺たちの仲間がいる。そいつらが口で伝える」

「内容は」

「南塔に赤布が二枚上がれば、四日後の夜、反帝国派は動く。旗がなければ、主力は残る。抜けられる小隊だけが五日目から抜ける」

「中止ではないのか」


「もう中止にできる段階じゃない。首都近くの合流地まで二日かかる」

ベルタは、カルザグの印を叩いた。

「旗がなければ、首都を取る作戦から、帝国の手足を折る作戦に切り替える。記録所、徴兵所、倉庫。燃やす場所は決めてある」

そこで、ようやく話が形になった。

隊長は四日目の正午までに、王都から砦へ命令が届かなきゃならない。


旗が上がれば、前線の辺境軍は反転する。


旗が上がらなければ、反乱軍は首都を取るのを諦め、帝国の手足だけを焼く。

遅れれば、誰かが死ぬ。

王国軍が辺境軍を撃てば、帝国派が残る。


帝国兵は村へ戻る。

地図の上の線が、急にハンスの足元まで伸びてきた気がした。

隊長の目が、ハンスへ向いた。

その視線だけで、言われることが分かった。

「ハンスは残す」



――――

あとがき


ここまで読んでくださってありがとうございます。


コメントでもらえると嬉しいです。




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