表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/18

置いていかない

肺が焼ける。

汗を吸った服が、夜明け前の風で冷えていく。

それでも足は止めなかった。

前を行くザックの背中が、岩の間に沈みかけた朝の色で灰色に見える。


その後ろを、ミアが黙ってついてきていた。

裸足のつま先は泥で汚れ、裾は枝に引っかかって何度も揺れた。


ハンスは俺の隣にいた。

近い。でも、袖には触れてこない。歩くたびに右肩をかばい、時々、腹を押さえる。


膝も何度か抜けかけた。俺が手を出しかけると、ハンスは自分で一歩を前へ出す。

そのたびに、伸ばしかけた指が行き場をなくした。

前方に、約束の岩場が見えた。

朝まで待つ。レオム隊長は、そう言っていた。

けれど、岩陰に人の気配はない。


置いていかれたのか。そう思った瞬間、岩陰の草が動いた。


「止まれ」低い声と一緒に、伏せていたドルクが弓を向けた。


ザックも片手を上げた。ドルクが俺たちだと気づき、弓を下ろす。

岩の裂け目みたいな陰から、レオム隊長が姿を見せた。

そこでようやく、膝から力が抜けそうになった。


レオム隊長の目が、ザックを見る。そこから俺へ。ハンスへ。

最後に、ミアで止まった。

「報告」


ザックが先に口を開いた。

「殺してないっス。見張りは持ち場を離れたように見せたっス。裏柵は壊して、その娘がハンスを連れて逃げたように見せたっス」

ザックは一度だけ背後の林を見る。

「まあ、上官にしろ見張りにしろ村の娘が逃がしたで報告するでしょう」


レオム隊長は返事をしない。黙ったまま、ミアを見る。

ミアは木の幹に手をついたまま、顔を上げなかった。息を整えようとしているのに、肩の上下が止まらない。


俺は先に言った。

「そいつは、俺が連れてきました」


レオム隊長の目が戻る。

「俺の判断です」

言い切ったあとで、後ろからザックの息が小さく抜けた。


「置いていけば、そいつはまた捕まります。そうなれば、ハンスを逃がした偽装も崩れる」


レオム隊長はもう一度ミアを見た。

「その娘は連れていけない」

ミアの指が、木の幹を掴んだまま止まった。


「戦えん。隊の動きも知らん。帝国兵に顔も知られている」

隊長の目が、今度はハンスへ移った。

「それに、ハンスもその状態だ」

ハンスは立っていた。けれど、立っているだけだった。右肩は落ち、息をするたび腹をかばう。膝もわずかに震えている。


「その娘を連れていけば、お前は、ハンスを担げなくなる」


ミアは木の根元に座り込んだ。力が尽きたみたいに、膝を抱えかけてやめる。

泥だらけの手を、膝の上で握った。その横で、ハンスが立ったまま動かない。

肩だけが揺れている。息が荒いのか、何かをこらえているのか分からなかった。


俺は口を開く。

「ミアが捕まれば、帝国兵は逃げた先を聞く。言わなくても、捕まった場所から逃走経路を洗い直される。ハンスを連れて逃げたはずの娘が、村の近くで見つかる方が不自然です。」

声が少し荒くなった。


「置いていけば、任務まで危なくなる」

レオム隊長は表情を変えない。

「それでも、連れていけば足は遅くなる」


「分かってます」


「簡単に言うな」

「約束と隊の命、どちらを先に守る。お前が潰れれば、守れるものも守れなくなる」

言い返せなかった。

何を言っても、隊長の言うことの方が正しい。


先に声を出したのは、ミアだった。

「いい。行って」

掠れていたが、声は震えなかった。

「私がいると遅くなるんでしょ」

そう言って、ミアは木の幹に手をつき、立ち上がろうとした。

けれど、体力が残っていない。

一度立ちかけて、肩が幹にぶつかった。ごっ、と鈍い音がする。それでも悲鳴は出さない。

「早く行って」


ハンスが動かない。

ミアを見たまま、自分の袖口を握っている。指先が白くなっていた。

レオム隊長が荷を持ち直す。

「出るぞ」

ドルクが弓を背へ戻し、ザックが一度だけミアを見る。俺も荷に手を伸ばしかけた。

その時、ハンスが言った。

「待ってください」

声は大きくなかった。それでも、全員の動きが止まった。


レオム隊長が振り返る。

「何だ」

ハンスの肩がひとつ上下する。

「……置いていくのは、嫌です」

レオム隊長の眉が寄る。

「理由は」

ハンスの口が開いて、閉じる。それでも、下がらない。

「……僕は、助けてもらった」

そこまで言って、首を振った。

「それで、今度は……置いていくのは、嫌です」

俺はハンスの横へ行き、腕を掴んだ。

「もういい。今は隊長に従え」

ハンスが俺を見る。

「アッシュは」


「助けてもらった人、置いていけるの」

腕に入れていた力がぶれた。

「俺は、そういう話じゃないとわかった」

出た声は、自分で思っていたより硬かった。


ハンスの肩が揺れる。何かをそこで呑み込んだ動きだった。

「……僕は、嫌だ」


「助けられたままは、嫌だ」

そこで初めて、ミアが顔を上げた。

土のついた手のまま、ハンスを見る。何か言おうとして、言えない。

喉が上下するだけだった。

俺はハンスの腕を掴んだまま、次の言葉を失う。


レオム隊長が口を開いた。

「お前が自分で言うなら話は別だ」


レオム隊長は、ミアではなくハンスを見ていた。

「そこまでに歩けなくなったら置いていく。隊列を乱しても同じだ。守るために連れていくわけじゃない」

ハンスの指が、袖口を握ったまま固まる。

「言い出したのはお前だ。肩を貸すなり、背負うなりしろ」

無理だろ。喉まで出かかった。ハンスは、自分の足で立っているだけでも精一杯だ。

でも、レオム隊長はそれを見ている。


「俺が守るのは隊だ。任務だ。お前の気持ちじゃない」


「その娘を連れていくなら、お前が責任を持て。持てなくなった時は、俺が決める」

ハンスは青ざめたまま、ただ一度うなずいた。

「……はい」


ミアが木の幹に手をついて立ち上がろうとする。

膝が一度、土へ沈みかけた。


倒れきる前に、ハンスが腕を差し出した。


その腕も震えていた。

支える側のくせに、指先まで白い。


ミアは一度だけ、その腕に体重を預ける。

「……ありがと」

そう言うと、すぐ離れた。寄りかかったままではいない。

ミアは自分で立った。


レオム隊長が前へ出る。

「動くぞ」


ドルクが先頭の影へ入り、ザックが後ろを一度だけ振り返った。

俺はいつもの癖で、ハンスを自分の後ろへ入れようとした。

少し手を上げる。


こっちに来い、と言いかける。だが、ハンスは俺の横を抜けた。

何も言わず、ミアの隣へ行く。

俺の上げかけた手だけが、しばらく宙に残った。

ハンスがミアの歩幅に合わせて、少しゆっくり歩く。



村の煙を背に、俺たちは先行した隊の足跡を追って林を急いでいた。

ハンスとミアの足では、同じ速さでは進めない。


枝の折れた跡。

踏み倒された草。

乾いた土に残った浅い靴跡。


それだけが、隊長たちが先へ進んだことを教えている。


距離が開いている。詰められない。

少し前で、ミアの隣にいたハンスの足が止まった。

俺たちは同時に顔を上げた。

林の左手、少し高い斜面の上から、馬具の金具が触れ合う音がした。


「足跡を見ろ。まだ新しい」


ミアがすぐ右手の窪地を指す。俺たちは草の下に身を伏せた。

追手は、俺たちのいる窪地へ向かっているのではない。斜面の上、尾根筋を進んでいる。村の方から来て、そのままレオム隊長たちの後を追っていた。


ミアの唇だけが動いた。


「……追ってる」

このまま行かせたら、隊長たちに食いつかれる。


けれど、ここからでは届かない。斜面まで距離がある。


『見過ごすの?』

すぐ横で、声がした。

黒い影が、土に触れずに揺れている。


『あなたならできるのに』


「……できる?」

声を殺して返す。


『ええ。あの程度なら』


「どうやる?」


『私に刺される必要があるわ』


「なぜだ」


『あなたは、私の巣主になるの』


ハンスの呼吸が一度止まった。

草の向こうでは、まだ馬具の金具が鳴っている。


『私の毒に慣れれば、少しずつ使えるようになるわ』


マイトレーヤはさらりと言った。


『慣れる前に欲張れば、死ぬけれど』


「……お前の力が使えるのか」


『少しだけ。今はね』


「毒は、俺に入るんだな」


『ええ。でも、坊やだけで終わるとは限らない』


その言い方に、ハンスの指が俺の腕を掴んだ。


「やめて」

低い声だった。


「アッシュ、自分が死ぬかもって思ってないでしょ」


「俺は、役に立ちたい」

ハンスの指が、ゆっくり離れた。

「巣主って何」


マイトレーヤが、初めてそちらを見る。

『私の巣。私の器。いずれ、王になるもの』


「……やめて」

今度ははっきりと言った。


俺は振り向かない。


「来るぞ」


追手の足音が近い。片膝をつく。わずかに首を傾ける。

「やれ」

マイトレーヤの影が、すぐそこに寄った。

細い針のようなものが、首筋に触れた。

次の瞬間、深く刺さる。息が止まった。


首筋の傷から、黒い蜜を流し込まれたみたいな熱が入ってくる。

熱は皮膚の下で脈打ち、肩へ、胸へ、背骨の内側へ這い込んだ。

視界が揺れる。すぐに戻る。


最初に入ってきたのは、ハンスの顔だった。


口が少し開いている。声は出ていない。

目だけが、俺の首筋に貼りついていた。


「……大丈夫だ」


立ち上がった瞬間、林がさっきまでと違って見えた。


草の倒れ方。

斜面の固い土。

木の根の張り出した位置。


全部が、一度に目へ入ってくる。


体は軽い。喉の焼ける感じも、足の重さも消えていた。


追手は三人。


尾根の先頭は膝を折って足跡を見ている。

中央は槍。

後方だけが少し遅れていた。


「ここで待て。動くな」


窪地を出た。最初の一歩だけ、草を踏む音が残る。

次の足は、音の出ない場所へ落ちた。


黒い蜂が先に尾根へ上がる。


中央の槍持ちの目の前をかすめた。

男の視線が、一瞬だけ蜂を追う。


その間に、俺は遅れていた後方の男の背後へ入った。


男が振り向く前に、左手で口を押さえ、右手の刃を首の横へ入れる。

声は出ない。

膝が崩れる。


中央の槍持ちが振り返る。叫ばれる。

そう思った時には、蜂が手首へ落ちていた。


槍の握りが緩む。内側へ入り、顎の下へ刃を差し込んだ。

くぐもった音が、草の上に落ちる。


先頭が剣を抜いた。


中央の体を押し、そいつの視界へ倒す。足元へ蜂が落ちた。

脛をかすめ、重心が外れる。


膝が落ちる。倒れきる前に、刃を入れた。

林の中で、馬具の金具がまだ小さく揺れていた。


それで終わった。

振り返ると、窪地の草むらの中で、ハンスが息を止めたままこっちを見ていた。


ミアは口元を押さえ、倒れた兵の方を見ている。


ハンスは俺の顔ではなく、濡れた短剣を見ていた。




――――

あとがき


ここまで読んでくださってありがとうございます。

コメントでもらえると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ