置いていかない
肺が焼ける。
汗を吸った服が、夜明け前の風で冷えていく。
それでも足は止めなかった。
前を行くザックの背中が、岩の間に沈みかけた朝の色で灰色に見える。
その後ろを、ミアが黙ってついてきていた。
裸足のつま先は泥で汚れ、裾は枝に引っかかって何度も揺れた。
ハンスは俺の隣にいた。
近い。でも、袖には触れてこない。歩くたびに右肩をかばい、時々、腹を押さえる。
膝も何度か抜けかけた。俺が手を出しかけると、ハンスは自分で一歩を前へ出す。
そのたびに、伸ばしかけた指が行き場をなくした。
前方に、約束の岩場が見えた。
朝まで待つ。レオム隊長は、そう言っていた。
けれど、岩陰に人の気配はない。
置いていかれたのか。そう思った瞬間、岩陰の草が動いた。
「止まれ」低い声と一緒に、伏せていたドルクが弓を向けた。
ザックも片手を上げた。ドルクが俺たちだと気づき、弓を下ろす。
岩の裂け目みたいな陰から、レオム隊長が姿を見せた。
そこでようやく、膝から力が抜けそうになった。
レオム隊長の目が、ザックを見る。そこから俺へ。ハンスへ。
最後に、ミアで止まった。
「報告」
ザックが先に口を開いた。
「殺してないっス。見張りは持ち場を離れたように見せたっス。裏柵は壊して、その娘がハンスを連れて逃げたように見せたっス」
ザックは一度だけ背後の林を見る。
「まあ、上官にしろ見張りにしろ村の娘が逃がしたで報告するでしょう」
レオム隊長は返事をしない。黙ったまま、ミアを見る。
ミアは木の幹に手をついたまま、顔を上げなかった。息を整えようとしているのに、肩の上下が止まらない。
俺は先に言った。
「そいつは、俺が連れてきました」
レオム隊長の目が戻る。
「俺の判断です」
言い切ったあとで、後ろからザックの息が小さく抜けた。
「置いていけば、そいつはまた捕まります。そうなれば、ハンスを逃がした偽装も崩れる」
レオム隊長はもう一度ミアを見た。
「その娘は連れていけない」
ミアの指が、木の幹を掴んだまま止まった。
「戦えん。隊の動きも知らん。帝国兵に顔も知られている」
隊長の目が、今度はハンスへ移った。
「それに、ハンスもその状態だ」
ハンスは立っていた。けれど、立っているだけだった。右肩は落ち、息をするたび腹をかばう。膝もわずかに震えている。
「その娘を連れていけば、お前は、ハンスを担げなくなる」
ミアは木の根元に座り込んだ。力が尽きたみたいに、膝を抱えかけてやめる。
泥だらけの手を、膝の上で握った。その横で、ハンスが立ったまま動かない。
肩だけが揺れている。息が荒いのか、何かをこらえているのか分からなかった。
俺は口を開く。
「ミアが捕まれば、帝国兵は逃げた先を聞く。言わなくても、捕まった場所から逃走経路を洗い直される。ハンスを連れて逃げたはずの娘が、村の近くで見つかる方が不自然です。」
声が少し荒くなった。
「置いていけば、任務まで危なくなる」
レオム隊長は表情を変えない。
「それでも、連れていけば足は遅くなる」
「分かってます」
「簡単に言うな」
「約束と隊の命、どちらを先に守る。お前が潰れれば、守れるものも守れなくなる」
言い返せなかった。
何を言っても、隊長の言うことの方が正しい。
先に声を出したのは、ミアだった。
「いい。行って」
掠れていたが、声は震えなかった。
「私がいると遅くなるんでしょ」
そう言って、ミアは木の幹に手をつき、立ち上がろうとした。
けれど、体力が残っていない。
一度立ちかけて、肩が幹にぶつかった。ごっ、と鈍い音がする。それでも悲鳴は出さない。
「早く行って」
ハンスが動かない。
ミアを見たまま、自分の袖口を握っている。指先が白くなっていた。
レオム隊長が荷を持ち直す。
「出るぞ」
ドルクが弓を背へ戻し、ザックが一度だけミアを見る。俺も荷に手を伸ばしかけた。
その時、ハンスが言った。
「待ってください」
声は大きくなかった。それでも、全員の動きが止まった。
レオム隊長が振り返る。
「何だ」
ハンスの肩がひとつ上下する。
「……置いていくのは、嫌です」
レオム隊長の眉が寄る。
「理由は」
ハンスの口が開いて、閉じる。それでも、下がらない。
「……僕は、助けてもらった」
そこまで言って、首を振った。
「それで、今度は……置いていくのは、嫌です」
俺はハンスの横へ行き、腕を掴んだ。
「もういい。今は隊長に従え」
ハンスが俺を見る。
「アッシュは」
「助けてもらった人、置いていけるの」
腕に入れていた力がぶれた。
「俺は、そういう話じゃないとわかった」
出た声は、自分で思っていたより硬かった。
ハンスの肩が揺れる。何かをそこで呑み込んだ動きだった。
「……僕は、嫌だ」
「助けられたままは、嫌だ」
そこで初めて、ミアが顔を上げた。
土のついた手のまま、ハンスを見る。何か言おうとして、言えない。
喉が上下するだけだった。
俺はハンスの腕を掴んだまま、次の言葉を失う。
レオム隊長が口を開いた。
「お前が自分で言うなら話は別だ」
レオム隊長は、ミアではなくハンスを見ていた。
「そこまでに歩けなくなったら置いていく。隊列を乱しても同じだ。守るために連れていくわけじゃない」
ハンスの指が、袖口を握ったまま固まる。
「言い出したのはお前だ。肩を貸すなり、背負うなりしろ」
無理だろ。喉まで出かかった。ハンスは、自分の足で立っているだけでも精一杯だ。
でも、レオム隊長はそれを見ている。
「俺が守るのは隊だ。任務だ。お前の気持ちじゃない」
「その娘を連れていくなら、お前が責任を持て。持てなくなった時は、俺が決める」
ハンスは青ざめたまま、ただ一度うなずいた。
「……はい」
ミアが木の幹に手をついて立ち上がろうとする。
膝が一度、土へ沈みかけた。
倒れきる前に、ハンスが腕を差し出した。
その腕も震えていた。
支える側のくせに、指先まで白い。
ミアは一度だけ、その腕に体重を預ける。
「……ありがと」
そう言うと、すぐ離れた。寄りかかったままではいない。
ミアは自分で立った。
レオム隊長が前へ出る。
「動くぞ」
ドルクが先頭の影へ入り、ザックが後ろを一度だけ振り返った。
俺はいつもの癖で、ハンスを自分の後ろへ入れようとした。
少し手を上げる。
こっちに来い、と言いかける。だが、ハンスは俺の横を抜けた。
何も言わず、ミアの隣へ行く。
俺の上げかけた手だけが、しばらく宙に残った。
ハンスがミアの歩幅に合わせて、少しゆっくり歩く。
◆
村の煙を背に、俺たちは先行した隊の足跡を追って林を急いでいた。
ハンスとミアの足では、同じ速さでは進めない。
枝の折れた跡。
踏み倒された草。
乾いた土に残った浅い靴跡。
それだけが、隊長たちが先へ進んだことを教えている。
距離が開いている。詰められない。
少し前で、ミアの隣にいたハンスの足が止まった。
俺たちは同時に顔を上げた。
林の左手、少し高い斜面の上から、馬具の金具が触れ合う音がした。
「足跡を見ろ。まだ新しい」
ミアがすぐ右手の窪地を指す。俺たちは草の下に身を伏せた。
追手は、俺たちのいる窪地へ向かっているのではない。斜面の上、尾根筋を進んでいる。村の方から来て、そのままレオム隊長たちの後を追っていた。
ミアの唇だけが動いた。
「……追ってる」
このまま行かせたら、隊長たちに食いつかれる。
けれど、ここからでは届かない。斜面まで距離がある。
『見過ごすの?』
すぐ横で、声がした。
黒い影が、土に触れずに揺れている。
『あなたならできるのに』
「……できる?」
声を殺して返す。
『ええ。あの程度なら』
「どうやる?」
『私に刺される必要があるわ』
「なぜだ」
『あなたは、私の巣主になるの』
ハンスの呼吸が一度止まった。
草の向こうでは、まだ馬具の金具が鳴っている。
『私の毒に慣れれば、少しずつ使えるようになるわ』
マイトレーヤはさらりと言った。
『慣れる前に欲張れば、死ぬけれど』
「……お前の力が使えるのか」
『少しだけ。今はね』
「毒は、俺に入るんだな」
『ええ。でも、坊やだけで終わるとは限らない』
その言い方に、ハンスの指が俺の腕を掴んだ。
「やめて」
低い声だった。
「アッシュ、自分が死ぬかもって思ってないでしょ」
「俺は、役に立ちたい」
ハンスの指が、ゆっくり離れた。
「巣主って何」
マイトレーヤが、初めてそちらを見る。
『私の巣。私の器。いずれ、王になるもの』
「……やめて」
今度ははっきりと言った。
俺は振り向かない。
「来るぞ」
追手の足音が近い。片膝をつく。わずかに首を傾ける。
「やれ」
マイトレーヤの影が、すぐそこに寄った。
細い針のようなものが、首筋に触れた。
次の瞬間、深く刺さる。息が止まった。
首筋の傷から、黒い蜜を流し込まれたみたいな熱が入ってくる。
熱は皮膚の下で脈打ち、肩へ、胸へ、背骨の内側へ這い込んだ。
視界が揺れる。すぐに戻る。
最初に入ってきたのは、ハンスの顔だった。
口が少し開いている。声は出ていない。
目だけが、俺の首筋に貼りついていた。
「……大丈夫だ」
立ち上がった瞬間、林がさっきまでと違って見えた。
草の倒れ方。
斜面の固い土。
木の根の張り出した位置。
全部が、一度に目へ入ってくる。
体は軽い。喉の焼ける感じも、足の重さも消えていた。
追手は三人。
尾根の先頭は膝を折って足跡を見ている。
中央は槍。
後方だけが少し遅れていた。
「ここで待て。動くな」
窪地を出た。最初の一歩だけ、草を踏む音が残る。
次の足は、音の出ない場所へ落ちた。
黒い蜂が先に尾根へ上がる。
中央の槍持ちの目の前をかすめた。
男の視線が、一瞬だけ蜂を追う。
その間に、俺は遅れていた後方の男の背後へ入った。
男が振り向く前に、左手で口を押さえ、右手の刃を首の横へ入れる。
声は出ない。
膝が崩れる。
中央の槍持ちが振り返る。叫ばれる。
そう思った時には、蜂が手首へ落ちていた。
槍の握りが緩む。内側へ入り、顎の下へ刃を差し込んだ。
くぐもった音が、草の上に落ちる。
先頭が剣を抜いた。
中央の体を押し、そいつの視界へ倒す。足元へ蜂が落ちた。
脛をかすめ、重心が外れる。
膝が落ちる。倒れきる前に、刃を入れた。
林の中で、馬具の金具がまだ小さく揺れていた。
それで終わった。
振り返ると、窪地の草むらの中で、ハンスが息を止めたままこっちを見ていた。
ミアは口元を押さえ、倒れた兵の方を見ている。
ハンスは俺の顔ではなく、濡れた短剣を見ていた。
――――
あとがき
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