猫耳の娘
◆ハンス
狭い部屋だった。
壁は土で塗り固められ、ところどころ乾いたひびが走っている。
天井は低い。梁から吊るされた小さな油皿だけが、黄色い火を揺らしていた。
床には藁が薄く散っている。
古い血の匂いと、湿った土の匂いが混ざっていた。息を吸うたび、肺の奥に重いものが沈んでいく。
僕は部屋の真ん中で、椅子に縛られていた。
背もたれは粗い木で、縄は手首の骨に食い込んでいる。足先は冷えきっていて、自分の足じゃないみたいだった。少し動こうとしても、指に力が入らない。
椅子に縛られているというより、体だけがこの部屋に残されている感じがした。
扉の前に、帝国兵が二人立っている。
一人は壁にもたれ、腕を組んでいた。
もう一人は、僕の前で手袋をはめ直している。
革が擦れる音が、やけに響いた。
「この村のものではないな。どこから来た?」
答える前に、拳が飛んだ。
顔が横へ弾かれる。
油皿の火が二つにぶれて、すぐ一つに戻った。
頬の奥で鈍いものが広がる。痛い、と思うより先に、息が浅くなった。
「仲間はいるのか?」
二発目が横腹に入った。
椅子ごと傾く。
縄に引かれた手首から、体が遅れて戻された。足先が床を探す。でも、冷えたつま先は藁を擦っただけだった。
息が入らない。
喉を開けても、胸の奥で空気が止まる。
咳き込みたいのに、音にならない。
アッシュ。
来る。
来る。
声には出さない。
名前を口にしたら、あの人たちに渡してしまう気がした。
だから呼ばない。呼びたくて、呼べない。
油皿の火が揺れるたび、床に散った藁の影が伸びたり縮んだりした。そこへ視線を落とす。影を見ていれば、目を閉じずに済んだ。
「……」
部下の眉が吊り上がる。
拳が上がる前に、奥で椅子を引く音がした。
上官が立ち上がる。
靴音が近づく。
部下の拳が止まった。
手袋の指が、僕の顎を持ち上げる。冷たい革の感触が、血のついた皮膚に触れた。背中がぞくりと冷える。
「雑には扱えんな」
僕は顔を背けようとした。
でも、首がうまく動かない。
力を入れているはずなのに、体の中身が薄くなったみたいに、命令が届かない。
上官は僕の口元と、肩に巻かれた包帯を見た。
それから部下の耳元へ何かを囁く。
二人は部屋を出た。
扉が閉まる。
外で閂が落ちる音がした。
重い鉄の音だ。
部屋には、油皿の火が燃える音だけが残った。
アッシュ。
来る。
来る。
僕は縄を少し引いた。
すぐに手首から力が抜ける。
背もたれの木に、血で湿った指が触れた。動かせるのに、ほどけない。考えるだけで息が切れた。
どれくらい経ったのかは分からない。
油皿の火が短くなり、皿の縁に黒い煤が溜まっていた。床に落ちた血のしずくは、最初より濃い色になっている。
その時、扉の外で足音が止まった。
閂が上がる。
扉が少しだけ開く。
入ってきたのは、僕とそう歳の変わらない猫耳の娘だった。
薄汚れた服は体に合っていない。袖は長すぎて、手の甲を半分隠している。頬には、消えきらないあざが残っていた。
しゃがんだ拍子に、裾の下から裸足が見えた。
つま先まで薄く泥で汚れている。
黒に近い髪の上で、猫耳だけが落ち着かずに動いていた。
娘は何も言わず、僕の前にしゃがんだ。
片手には、水を張った木椀。
もう片方には、濡らした布を持っている。
布が頬に触れた。
冷たい水が皮膚に広がり、息が止まりかける。血が薄まり、赤い筋になって首へ落ちた。
「じっとして」
声は低い。
「拭くから」
「……うん」
返事をしただけで腹の奥が縮んだ。
呼吸が浅くなる。
娘の手つきは慣れていた。
頬。
口元。
首。
手首。
指先。
布は何度も木椀の水に戻された。最初は澄んでいた水が、頬を拭くたび薄く赤くなり、手首を拭くころには底の木目が見えなくなっていた。
娘は布を沈め、片手で絞る。
赤く濁った水が、指の間から落ちる。
ぽた、ぽた、と静かな音が鳴った。
その間も、耳だけは落ち着かない。
外で靴音が通るたび、片方の耳が扉へ向く。音が遠ざかると、また僕の方へ戻る。慣れているのに、平気なわけじゃない。そういう動きだった。
僕の視線は、娘の耳に吸われた。
布が手首の縄の跡をなぞる。
「魔族って……」
喉が引きつる。
息を入れ直す。
「角とかあるのかと思ってた」
布は止まらない。
「……耳なんだ」
今度は、ぴたりと止まった。
娘がようやくこっちを見る。
「は? 私がヤギに見える? 角があったら、とっくにあの見張りの腹に風穴を開けてるわよ」
「……ごめん」
「魔族って、あんたたちが勝手に呼んでるだけよ」
娘の耳が後ろへ寝る。
木椀の水面が、小さく揺れた。
「……知らなかった」
娘は少しだけ目を細めた。
怒っているのか、呆れているのか、分からない顔だった。
「変なやつね。頭の中まで空っぽなの?」
「……孤児院育ちで」
僕は目を閉じる。
「外のこと、あんまり……知らないんだ」
頬がうまく動かない。笑ったつもりだったけど、たぶん笑えていなかった。
濡れた布が、今度は少しだけゆっくり動いた。
「……わたしもよ」
娘は鼻で息を吐いた。
さっきより力の抜けた音だった。
「ここへ連れてこられた」
木椀の中で、また布が絞られる。
赤い水が落ちる。
油皿の火が、その濁った水面に細く折れて映っていた。
「……僕、は……ハンス」
娘が黙る。
扉の外で、兵の靴音が一度通り過ぎた。
娘の耳がそちらへ向き、しばらく戻らない。
「……君は?」
一瞬だけ迷ってから、娘が言う。
「……ミア」
「ミア」
名前を返すと、娘の耳がほんの少しだけ動いた。
僕は縄を引こうとして、すぐ諦めた。
指に力が入らない。手首の奥が冷えて、もう自分のものじゃないみたいだった。
「……この縄を解いてほしい」
ミアが目を剥いた。
「ダメよ。外に見張りがいるわ」
言い方は固い。
けれど、布を握る手だけが少し迷っていた。
「……近くに……アッシュがいると思う」
布を絞る手が止まった。
「誰?」
「……親友」
布が頬へ戻る。
今度は、最初よりゆっくりだった。
「……会えたら」
息を吸う。
腹が詰まって、途中で切れる。
「……ここにいるって、伝えて」
ミアは嫌そうに耳を伏せた。
それでも、布だけは雑にならなかった。
◆アッシュ
家屋の影に身を潜め、俺は納屋の入口を睨んでいた。
村の奥は、思ったより暗い。
家々の窓には布が掛けられ、灯りは外へ漏れてこない。
そのかわり、納屋の戸口に吊るされた小さな角灯だけが、地面に薄い輪を作っていた。
納屋の戸口。
角灯の輪。
その右端に、見張りの帝国兵。
見張りは槍を肩に預け、退屈そうに片足へ体重を乗せていた。腰の右側に鍵束がある。動くたび、金具が小さく鳴る。
月に鈍く光るたび、俺の目はそこへ吸い寄せられた。
逃げるなら、井戸の影から崩れた塀へ抜ける。
その先に、低い木柵。
木柵を越えれば林だ。
ただし、納屋から井戸までは角灯の光を横切る。
見張りが戸口にいる限り、まっすぐ近づくのは無理だった。
横では、ザックが息を殺している。
ここまでの道を選んだのはザックだ。
壁の崩れた家の裏を通り、干された布の下を抜け、帝国兵の死角だけを拾ってここまで来た。
その間、ザックは一度も迷わなかった。
迷っていないように見えた。
「交代すると言ってた時間は、とっくに過ぎてる」
俺が低く言うと、ザックは地面に伏せたまま片目だけを細めた。
「見りゃ分かるっス」
「分かってる顔が腹立つんだよ」
「余裕あるっスね」
あるわけがない。
納屋の入口に、見張りはまだいる。
交代の時間に離れた瞬間を抜く。
そのはずだった。
殺さず。
騒がせず。
痕跡も濃く残さず。
ハンスを連れ戻す。
なのに、見張りは持ち場を離れない。
角灯の火が一度小さくなり、すぐ戻った。見張りの影が納屋の戸に伸び、また縮む。
ザックが土の上に指で小さく線を引いた。
納屋。
見張り。
家屋の影。
井戸。
崩れた塀。
逃げ道。
線を引いた指が、途中で止まる。
「……くそ」
爪が手のひらへ食い込む。
その時だった。
納屋の戸が、内側から細く開いた。
蝶番が短く軋む。
俺の肩が勝手に強張る。
ザックの手が、こっちを制するように少しだけ上がった。
戸の隙間から、獣人の娘が出てきた。
月明かりの下で、黒っぽい髪と猫耳が見える。
さっきハンスの手当てをしていた娘だ。
娘は布を抱えたまま、見張りの前で足を止めた。
見張りが面倒そうに顔を向ける。
娘の耳が、一度だけ後ろへ伏せた。
それでも彼女は逃げずに、何かを小さく言った。
獣人の娘が納屋から離れたあと、戸口の灯りの中に別の影が入った。
上官らしい男だった。
外套の裾を払うように歩き、見張りの前で足を止める。
低い声で何か告げると、そのまま納屋の中へ入っていった。
見張りが槍を持ち直し、持ち場を離れる。
交代か。
そう思ったが、違った。
見張りは納屋から離れすぎない場所で足を止めた。戸口がぎりぎり見える位置だ。家屋の影から納屋へ近づこうとすれば、必ず目に入る。
「……厄介っスね」
さっきまで抜けられそうだった隙間に、見張りの位置が重なる。
しばらくして、納屋の戸がまた開いた。
上官らしい男が出てくる。
見張りに短く声を掛けると、見張りは元の戸口へ戻った。
角灯の火が揺れ、鍵束が一度だけ鈍く光る。
その時、ザックの肩がわずかに固くなった。
俺たちが潜む家屋の庭で、影が滑った。
息を止める。
崩れた塀の向こう、井戸の影から誰かが出てくる。
猫耳の娘だった。
さっき納屋から出てきた娘だ。
娘は布を抱えたまま、辺りを見回している。
耳が小さく動く。
納屋の方。
見張りの方。
それから、俺たちが隠れている家屋の影へ。
ためらうように、一歩だけ近づいてきた。
「アッシュ?」
小さな声だった。
なんで俺の名を知っている。
まさか。
喉の奥が詰まる。
ザックの手が、音もなく短剣へ落ちた。
「ここだ」
俺が低く返すと、娘の耳が一度だけ揺れた。
声は抑えた。
それでも娘は迷わずこちらへ来る。
家屋の影に入った途端、娘は膝をついた。
布を抱えた手が、少し震えている。
「あなたがアッシュね?」
「なぜ、俺の名を知ってる?」
「ハンスに頼まれた」
その名前が出た瞬間、体が前へ出かけた。
ザックの手が俺の腕を押さえる。
「誰っスか?」
「わたしはミア」
娘はザックではなく、俺を見たまま言った。
「ハンスを出したいなら、わたしが使える」
「使える、ね。ずいぶん自信あるっスね」
ザックの声は軽い。
けれど短剣から手は離していない。
俺はミアを見た。
「ハンスを知っているのか?」
「ええ。手当てをしたわ」
ミアは納屋の方を一度だけ見る。
「縛られてる。右肩と足を痛めてる。腹も殴られてる。あのままだと、走れない」
胸の奥が冷える。
「なんで助ける?」
ミアの耳が、ぴくりと震えた。
「わたしもここから出たい」
声は細かった。
けれど、目は逸らさない。
「連れて行って」
ザックが鼻を鳴らす。
「断ったら?」
「帝国兵に知らせる」
ミアの指が、抱えていた布を握り直す。
「ほんとに呼ぶから」
細い声だった。
でも、引く気はなさそうだった。
俺は納屋を見る。
見張りは戸口に戻っている。
鍵束は右腰。角灯の光の外へ、ほとんど動かない。
俺はザックに目をやった。
ザックは見張りを見たまま聞く。
「交代は?」
「さっき聞いたわ。今日は朝まで交代しないそうよ」
「チッ」
ザックが見張りを睨む。
それから、腰袋から細首の瓶を取り出した。
昼間、盗んできた酒だ。
瓶の首が月明かりを拾う。
「あんた、見張りに酒を運べるっスか?」
ミアは瓶を見る。
次に、納屋の戸口を見る。
「できる」
「理由は?」
「上官からだと言えば信じるわ。さっき、上官が中に入ったから」
ザックの目が細くなる。
「飲むスかね」
「飲むわ」
ミアの返事は早かった。
「あの見張り、さっきから欠伸ばかりしてる。朝まで交代なしなら、なおさら」
ザックは少しだけ口の端を上げた。
「見てるっスね」
「見ないと生きられないの」
ミアはそう言って、俺を見た。
暗がりの中で、目の色だけが残る。
「約束して。わたしも連れて行くって」
俺は納屋を見た。
ハンスまで届く道を持っている相手なら、今は信じるしかない。
ひどい理屈だ。戦場の理屈は、だいたいひどい。
「……連れて行く」
ザックがこっちを見る。
「まあ、この娘が消えれば、偽装はやりやすいっス」
ミアは短く頷いた。
ザックから酒瓶を受け取る。
瓶を布で包み、抱え直す。
それだけで、ただの使い走りに見えた。
「じゃ、届けてくる」
ミアは立ち上がる前に、もう一度だけ俺を見た。
「約束は守ってよ」
それだけ言って、家屋の影を離れた。
猫耳が一度、納屋の灯りの方へ向く。
次の瞬間には、ミアは暗がりの中へ溶けていた。




