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俺も行きます

夜が明けてからも、山は終わらなかった。

東の空が白んだころには、岩肌の色だけが少し分かるようになった。


冷え切った空気が、喉の奥をざらざらと撫でる。


昼前には、崖の上から差す光で目が痛くなった。

それでも道はまだ続いていた。

岩の腹を巻くような細道を、誰も喋らずに歩く。

右は崖。左は落ちたら戻れない斜面。


足元には、乾いた石と、ところどころ濡れた土が混じっている。


靴裏から伝わる硬い感触だけが、前に進んでいる証拠だった。

腹は空いているはずなのに、胃は縮んだまま何も欲しがらなかった。


体ってやつは、必要な時ほど役に立たない。

隊長たちと合流してから、ようやく分かったことがあった。

レオム隊長にも、ドルクにも、マイトレーヤは召喚蜂のまま映っている。

黒衣の女ではない。長い髪も、白い肌も、針みたいな爪も見えていない。

ただ、俺の肩の近くを飛ぶ、こぶし大の黒い蜂。

女の姿を見せるのは、マイトレーヤが自分で許した時だけだ。


その相手も、今のところ俺とハンスだけだった。


それ以外では、俺たちの目にさえ、あれはただの召喚蜂でしかない。

肩の横で羽音が鳴る。


見れば蜂だ。

目を離すと、黒衣の裾が視界の端で揺れた気がする。

どっちが本当なのか、考えるのはやめた。


考えて分かるなら、たぶんもっと早く逃げ切れている。

後ろで、ハンスの靴底が小石を擦った。

ずる、と嫌な音がする。

振り向くと、あいつは何でもないみたいな顔をした。

「平気か」


「うん」

返事が早い。

こういう時のこいつは、だいたい平気じゃない。

「嘘つけ」

ハンスは笑おうとして、途中でやめた。右肩をかばうせいで、歩くたびに体が少し傾いている。


息が浅く、顔色は白かった。

昼を過ぎたころから、道は少しずつ下りはじめた。

石ばかりだった足元に、土が混じる。靴の裏で、砕ける音が鈍くなった。


風も変わる。乾いた岩の匂いに、葉と湿った土の匂いが混ざった。

まわりが薄暗くなりはじめたころ、ようやく山峡を抜けた。

低い林へ入ったところで、レオム隊長が左手を上げる。

全員がその場でしゃがんだ。

荷を降ろしかけていたハンスも、遅れて膝を折る。


息が詰まったみたいに、口だけが少し開いていた。

前の藪が揺れる。

槍を構えたドルクが、半歩前へ出た。鎧が小さく鳴る。


レオム隊長は動かない。ただ、目だけが藪の奥を追っていた。

葉を押し分けて、誰かが戻ってくる。

先へ出ていたザックだった。

ザックはこっちを見るなり、肩から荷袋を落として笑った。

どさっ、と重い音がする。

「隊長、戻ったっス」

声は軽い。

けれど、額には汗が浮いていた。袖の端にも、枝で擦った細い傷がいくつかある。赤い血が薄く滲んでいた。

荷袋の口から、干し肉と黒パンが覗いていた。


その奥に、細首の瓶も一本混じっている。

干し肉が見えた瞬間、奥歯が先に痛くなった。食う前から疲れる食い物って、もう罰だろ。

レオム隊長が短く言った。

「遅い」


「いろいろ見てたんスよ」

「酒まであるぞ、お前」

ドルクが先に瓶を見つけた。

「拾ったんスよ」


「盗んだだろ……」

ドルクが呆れたが、ザックは聞いていない顔だった。

俺は瓶を見てから、ザックを見た。

「お前の拾ったは、だいたい拾ってない」


「細かいっスね。生きるには不向きっスよ」

軽い声だった。

けれど、ザックの目だけはもう先を見ている。

「この林を抜けた先に、村があったっス」

レオム隊長が顎を少し上げる。


続きを言え、という顔だった。

ザックは荷袋の紐を結び直しながら言った。革が擦れる音が、やけに響く。

「変っス」


「何がだ」


「村なのに、男手が見えないっス。女と子どもと老人ばっかっス」

ザックの指が、細首の瓶を軽く叩く。こつん、とガラスが鳴った。

「あと、帝国兵がいるっス」

誰もすぐには口を開かなかった。林の中を、虫の音だけが細く通る。


ハンスが俺の横で息を止めたのが分かった。

レオム隊長は、ザックの荷袋に入った瓶を見る。

「帝国産だな」


「見張りが村の端じゃなくて、真ん中寄りです。荷も集まってた。指揮所っぽいっスね」

ザックだけが、いつもの調子で続ける。

「飯の匂いはしてたっス。けど、村のもんが食ってる感じじゃなかった」

なんでここに帝国兵がいるんだ。

分かるのは、敵同士だと聞かされていた連中が同じ村にいて、しかも村の真ん中で飯を食っているということだけだった。


俺だけじゃない。周りを見ても、誰もすぐには飲み込めていない顔だった。

レオム隊長は少し考えてから言った。

「各自、飯を食え。十五分後に出る」

そこでようやく、全員が荷を降ろした。

俺は荷袋を素早くほどく。干し肉を出して、半分をハンスへ渡した。

ハンスは受け取った干し肉を握ったまま、ベルトも革当ても外し、仰向けに転がっていた。


片手だけで食おうとして、うまくいかず、干し肉を腹の上に落とす。

思ったより、無理していたらしい。

「ハンス、油断しすぎだ」


「ちょっとだけ休ませて」


「十五分しかないぞ」


「十四分寝る」


「飯は」

ハンスが顔も上げずに言った。

「一分で食べる」


「馬鹿か」

俺はハンスの腹の上から干し肉を拾った。表面に土が少しついた。

「一分で食えるわけないだろ。ほら、口開けろ」


「むぐっ……」

押し込まれた干し肉を、ハンスは噛み切れなかった。硬い肉の塊が、あいつの頬を不格好に膨らませている。

ザックが盗んできた食糧を配り終えて、周りを見回した。

「あれ、爺さんはどうしたっスか?」

誰も答えなかった。

干し肉を噛む音も止まる。


ドルクが瓶から手を離した。

レオム隊長が俺とハンスを順に見た。


それから一度だけ、木々の切れ間の空を仰ぐ。

夕方の薄い光が、枝の隙間に細く残っていた。

「死んだ」

短く言ってから、隊長は続けた。

「俺の代わりに、こいつらを拾いに行った」

ザックの指が、荷袋の口で止まった。

酒瓶の首を握りかけて、そのままやめる。


口が少し動いたが、声にはならなかった。

吐き出しかけたものを、奥歯で噛み砕いたみたいな顔だった。

「……爺さんらしいっスね」

目だけが、少しきつくなる。

「おれも、何度も助けられたっス」

そこで初めて、ザックは笑わなかった。

俺は荷袋の底から、携行の通信魔具を取り出した。

血は泉で少し洗った。


それでも、金具の溝には黒く固まったものが残っている。鉄の匂いはまだ消えていない。

夕方の光が、酒瓶の首に鈍く溜まっていた。


同じ光が、通信魔具の溝に残った血を赤黒く光らせる。

俺はそれをザックへ差し出した。

「爺さんが持ってた」

ザックはそれを受け取って、一瞬だけ目を見開いた。

「……ありがとな」

親指で、通信魔具の表をなぞる。


血を拭うみたいに。爺さんがいつもそうしていたみたいに。

「爺さんの形見だ」

そう言って、ザックは胸元へしまった。

誰も急かさなかった。

けれど、止まったままでもいられなかった。

俺とハンスが飯を食い終わるころには、林の中の光がさらに薄くなっていた。

ザックが配った干し肉は硬く、噛むたびに奥歯がきしむ。


ハンスは半分ほど食べたところで、残りを手の中に握ったまま、ぼんやり足元を見ていた。

レオム隊長は立ったまま、林の先を見ている。

出発の合図はまだない。


けれど、ドルクはもう槍を肩に戻し、ザックも荷袋の口を締め直していた。

そろそろ動く。

そう思った時、袖が引かれた。


弱い力だった。

「アッシュ」


「なんだ」


「おしっこ」

またかよ、と喉まで出た。

だが、声にはしなかった。

レオム隊長は、もう片足を前へ出しかけている。ここで騒げば、全員を待たせる。

「すぐ戻ってこい」

ハンスは一瞬だけ俺を見た。


口を開きかけて、すぐ迷うように視線を落とす。

何か言いかけたが、結局、何も言わないまま小さく頷く。

「うん」

ハンスは、少し急ぐように林の奥へ入っていった。

枝葉が揺れる。


右肩をかばうせいで、背中が少し傾いている。足は急いでいるのに、歩幅だけがついてきていない。

ついていくべきか、と一瞬思った。

その一瞬を、俺は荷紐を締める方に使った。

ハンスの背中を目で追いかけかけて、俺は無理やり視線を戻した。

俺の横を、召喚蜂が一匹、ふわりと抜ける。


黒い胴が、夕方の光を短く返した。

出発の時間になった。

レオム隊長が声を出す前に、みんなもう腰を上げていた。荷袋の革紐が鳴る。槍の石突きが土を軽く叩く。ザックが肩の位置を直す。

俺だけが、ハンスの消えた方を見ていた。

もう少し待つか。


呼びに行くか。

迷っているうちに、レオム隊長がこっちを見た。

「どうした」


「ハンスが戻ってません」

隊長の目が、一瞬だけ細くなる。

その時、耳元で羽音が変わった。

細く、尖った音だ。

左手の甲の奥が、どくりと熱を吐いた。


あの黒い蜜が、皮膚の下で目を覚ましたみたいだった。

「坊や、お友だち、まずいわよ」

振り向く。

そこにいるのは、ただの召喚蜂だった。


けれど声は、マイトレーヤのものだった。

聞いた途端、足が勝手に林へ向いていた。

「待て」

レオム隊長の声が飛ぶ。

止まれるわけがない。

木の間を抜ける。さっきハンスが入ったあたりまで走る。

草が踏まれていた。

新しい。


けれど、数歩ぶんだけだ。

そこから先は、折れた枝も、乱れた下草も見えない。

「ハンス!」

返事はない。

頭の中が白くなる。

「坊や」

蜂が俺の肩の横で止まった。

「こっちじゃないわ」


「どこだ」

召喚蜂は、林の反対側へ向かった。

俺はその後を追う。


枝が顔を打つ。頬に細い傷が走ったが、痛みは遅れて来た。

それより、息が足りない。

「アッシュ、何か分かったのか?」

レオム隊長の声が後ろから来る。

答える暇なんかなかった。

隊長たちの足音も続いている。ドルクの鎧が小さく鳴り、ザックが低く舌打ちする音がした。

それでも振り返らない。

林の端で、召喚蜂がぴたりと止まった。

俺も伏せる。

枝の隙間から、林の向こうが見えた。


村へ続く獣道だった。

帝国兵が二人、何かを引いている。

最初に見えたのは、細い足だった。

次に、後ろで縛られた手。


右肩をかばうように歪んだ背中。

肩を押され、よろめきながら歩いている。

ハンスだった。

声を上げかけた。

その口を横から塞がれ、立ち上がりかけた体ごと土へ押し戻される。


レオム隊長の腕だった。

「動くな」


「離してください」

声が掠れた。

自分でも嫌になるくらい、細かった。

ハンスはこっちを見ていない。

見られる余裕がないのか。


見ないようにしているのか。

帝国兵の一人が肩を押すたび、傷を庇うように体が歪んだ。もう一人が笑って、ハンスの後頭部を軽く叩いた。

何か言ったが、ここからじゃ聞こえない。

獣道の先に、村の柵が見えた。

杭のあいだに、灯りがひとつ揺れている。


見張り台はない。けれど、柵の内側に帝国兵の影が立っていた。

帝国兵たちは、ハンスを引いたまま村へ消える。

そのあとで、俺はやっと息を吐いた。

胸が痛い。


いつ息を止めていたのかも分からなかった。

「助けに行きます」


「駄目だ」

レオム隊長の返しは、息継ぎみたいに早かった。

「二日後、会う相手がいる。ここで帝国兵に見つかれば任務が駄目になる」


「ハンスはどうするんですか」


「あいつは何も知らん」

ハンス一人なら後回しか。


助ける値打ちも薄いってことか。

隊長の立場なら、たぶん正しい。


間違っていれば殴れたのに、正しいからどうしようもない。

短剣の柄を握った指が、勝手に強くなる。


硬い革が手のひらに食い込んだ。

「知らないから安全ってことにはならない」

俺は村の柵を見た。

「知らない奴は、消しても惜しくないんだろ」

レオム隊長の目が、ほんの少しだけ動いた。

「あいつら、人に見られたくないみたいっスよ」

ザックの声が入った。

「見張り、指揮所っぽいとこにしかいないっス」

レオム隊長がそっちを見る。

俺も見た。

ザックは相変わらず軽い顔のままだった。


ただ、目だけは村を見ている。

「ハンスが捕まったこと自体、なかったことにするっス」

ザックは低い枝を指で押し下げ、村の柵を覗いた。

「帝国の連中が自分らの失態だと思う形なら、上にも報告しにくいっス」

レオム隊長の声が少し落ちる。

「どうやる」

「裏柵と戸は、壊れてたように見せるっス。逃げた向きは砦側へ寄せる。追うならそっちへ行くっス」

ザックは村の外れから、反対側の林へ視線を流した。

「その間に、こっちは別の尾根へ抜ける」

そこまで言って、ザックは少しだけ口を曲げた。

「爺さんが拾ってきた二人、ここで駄目にしたら寝覚め悪いっスよ」


「それに、あとで爺さんに化けて出られたら面倒っス」

ドルクが顔をしかめた。

「縁起でもないこと言うな」


「でも言いそうじゃないっスか。『拾ったなら最後まで面倒みろ』って」

誰もすぐには笑わなかった。

レオム隊長は少し黙った。

止める時より、目が深く沈んだ気がした。村の方を見る。それから、ザックを見る。

「お前一人でやれるか」

ザックはすぐに答えなかった。

目だけで、村の形をなぞるみたいに見る。

柵。


灯り。


兵の立つ位置。


裏手へ回る林。

それから、口の端を上げた。

「ま、昼でも食いもんは盗めますが、見張りは少しやっかいっスね」

「俺も行きます」

俺の声がかぶさった。

ドルクがすぐにこっちを見る。

「感情で入れば、余計にしくじる」

それでも引けなかった。

「連れ出すところまで考えるなら、俺が要る」

誰もすぐには返さなかった。

俺は村の方を見た。

「あいつは、俺の声なら止まる。黙らせるのも、歩かせるのも、たぶん俺の方が早い」

戦えると言ったわけじゃない。

ハンスが怖がって固まった時、誰なら動かせるか。


それだけの話だ。

ザックが一度だけ俺を見る。


面倒そうな顔だったが、否定はしなかった。

「……まあ、それはそうっスね」

それから、少しだけ声を低くした。

「担ぐ必要があれば、二人はいるっス」

胸の奥を、冷たいものが撫でた。

レオム隊長の目が、俺とザックのあいだを往復する。

「救出だけだ」

短い声だった。

「村に余計な手を出すな。兵を殺るな。痕跡も残すな」

ザックがうなずく。

「やるっスよ。見つからずに済ませた方が、気分いいっス」

そこで初めて、ザックが少しだけ笑った。

口元は軽いままなのに、目だけが笑っていなかった。

レオム隊長は俺を見る。

「お前はザックの言うとおりに動け」

命令だった。

でも、許可でもあった。

「……はい」

「俺たちは先に進む。朝までに合流地点で待つ」

レオム隊長は村の明かりから目を離し、林の奥を示した。

「今夜、救出して、必ず三人で追いついてこい」

それ以上は言わない。

俺も、うなずくしかなかった。


◆鉄哭関 魔族軍前線司令部

「報告」

伝令は柵際に膝をついた。


石畳と膝当てがぶつかる、硬い音がした。

息を整える前に、魔族の指揮官が言う。

「言え」

「街道沿いの森で、敵斥候と思われる足跡を確認しました」


「数は」


「泉の手前までは三名分。そこから先は二名分です」

鉄哭関の上で、大砲の砲口が鈍く光る。


冷たい風が吹き抜け、指揮官の外套を揺らした。

指揮官はローデル側の砦を見たままだ。

「続けろ」

「先ほど追跡に出したうち、二名が死体で見つかりました」

そこで初めて、指揮官の目が伝令に落ちた。

「……斥候だけではないのか」

伝令が顔を上げる。

「一名は胸を抜かれていました。もう一名は喉を裂かれていました」

副官が顔をしかめる。

「攻撃魔法士か、戦獣召喚士の可能性もありますな」

指揮官は答えない。

地図の端が、爪の下でわずかに折れた。


かさ、と乾いた音が鳴る。

「場所」


「砦から三キロ。街道を外れた森です」

眉間がきつく寄る。

「二人で入れたのか」

伝令の背が固まる。

「……はい」

「追跡隊を一つ出せ。二人やられている。森に深追いはさせるな」

副官が顔を上げた。

「念のため、後背の村を押さえている帝国兵にも伝えますか?」


「ああ」

指揮官は砦を見たまま言った。

「鼠が出たら踏み潰せ、とな」

それだけ言って、指揮官は視線を砦へ戻した。

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