俺も行きます
夜が明けても、山は終わらなかった。
冷えた空気が喉を削り、昼前には崖の上から差す光で目が痛くなった。
岩の腹を巻くような細道を、誰も喋らずに歩く。
右は崖。左は落ちたら戻れない斜面。
隊長たちと合流してから、ようやく分かったことがある。
レオム隊長にも、ドルクにも、マイトレーヤはただの召喚蜂に見えていた。
後ろで、ハンスの靴底が小石を擦った。
ずる、と嫌な音がする。振り向くと、あいつは何でもないみたいな顔をした。
「平気か」
「うん」
こういう時のこいつは、だいたい平気じゃない。
「嘘つけ」
ハンスは笑おうとして、途中でやめた。右肩をかばうせいで、歩くたびに体が少し傾いている。
昼を過ぎたころ、道は少しずつ下りはじめた。石ばかりだった足元に、土が混じる。
風も変わる。乾いた岩の匂いに、葉と湿った土の匂いが混ざった。
山峡を抜け、低い林へ入ったところで、レオム隊長が左手を上げた。
全員がその場でしゃがむ。前の藪が揺れた。ドルクが槍を構える。
レオム隊長は動かず、目だけで藪の奥を追っていた。
葉を押し分けて戻ってきたのは、先へ出ていたザックだった。
「隊長、戻ったっス」
声は軽い。けれど額には汗が浮き、袖には枝で擦った傷がいくつもあった。
肩から落とした荷袋の口から、干し肉と黒パンが覗いている。
その奥に、細首の瓶も一本混じっていた。
「遅い」
「いろいろ見てたんスよ」
ドルクが瓶を見つける。
「酒まであるぞ、お前」
「拾ったんスよ」
「盗んだだろ……」
俺は瓶を見てから、ザックを見た。
「お前の拾ったは、だいたい拾ってない」
「細かいっスね。生きるには不向きっスよ」
軽い声だった。けれど、ザックの目だけはもう先を見ている。
「この林を抜けた先に、村があったっス」
レオム隊長が続きを促す。
「変っス」
「何がだ」
ザックは荷袋の中の瓶を軽く叩いた。
「帝国兵がいるっス」
誰もすぐには口を開かなかった。ハンスが俺の横で息を止めたのが分かった。
レオム隊長は瓶を見る。
「帝国産だな」
「見張りが村の端じゃなくて、真ん中寄りです。荷も集まってた。指揮所っぽいっスね」
敵同士だと聞かされていた連中が、同じ村にいる。しかも、村の真ん中で飯を食っている。俺だけじゃない。周りも、すぐには飲み込めていない顔だった。
レオム隊長は少し考えてから言った。
「各自、飯を食え。十五分後に出る」
その場で、全員が荷を降ろした。俺は干し肉を出して、半分をハンスへ渡す。
ハンスは受け取った干し肉を握ったまま、仰向けに転がっていた。
片手だけで食おうとして、うまくいかず、干し肉を腹の上に落とす。
「ハンス、油断しすぎだ」
「ちょっとだけ休ませて」
「十五分しかないぞ」
「十四分寝る」
「飯は」
「一分で食べる」
「馬鹿か」
俺はハンスの腹の上から干し肉を拾った。
「一分で食えるわけないだろ。ほら、口開けろ」
「むぐっ……」
押し込まれた干し肉を、ハンスは噛み切れなかった。
その時、ザックが周りを見回した。
「あれ、爺さんはどうしたっスか?」
誰も答えなかった。干し肉を噛む音も止まる。
レオム隊長が俺とハンスを順に見た。それから、一度だけ木々の切れ間の空を仰ぐ。
「死んだ」
短く言ってから、隊長は続けた。
「俺の代わりに、こいつらを拾いに行った」
ザックの指が、荷袋の口で止まる。酒瓶の首を握りかけて、そのままやめた。
「……爺さんらしいっスね」
目だけが、少しきつくなる。
「おれも、何度も助けられたっス」
俺は荷袋の底から、携行の通信魔具を取り出した。
俺はそれをザックへ差し出した。
「爺さんが持ってた」
ザックは受け取って、一瞬だけ目を見開いた。
「……ありがとな」
親指で、通信魔具の表をなぞる。血を拭うみたいに。爺さんがいつもそうしていたみたいに。
「爺さんの形見だ」
そう言って、ザックは胸元へしまった。
誰も急かさなかった。けれど、止まったままでもいられなかった。
俺とハンスが飯を食い終わるころには、林の中の光がさらに薄くなっていた。
レオム隊長は立ったまま、林の先を見ている。
ドルクはもう槍を肩に戻し、ザックも荷袋の口を締め直していた。
そろそろ動く。そう思った時、袖が引かれた。弱い力だった。
「アッシュ」
「なんだ」
「おしっこ」
またかよ、と喉まで出た。ここで騒げば、全員を待たせる。
「すぐ戻ってこい」
ハンスは一瞬だけ俺を見た。口を開きかけて、迷うように視線を落とす。
結局、何も言わないまま小さく頷いた。
「うん」
ハンスは、少し急ぐように林の奥へ入っていった。ついていくべきか、と一瞬思った。その一瞬を、俺は荷紐を締める方に使った。
出発の時間になった。みんなもう腰を上げている。俺だけが、ハンスの消えた方を見ていた。もう少し待つか。呼びに行くか。
迷っているうちに、レオム隊長がこっちを見た。
「どうした」
「ハンスが戻ってません」
隊長の目が、一瞬だけ細くなる。
その時、耳元で羽音が変わった。細く、尖った音だ。
「坊や、お友だち、まずいわよ」
聞いた途端、足が勝手に林へ向いていた。
「待て」レオム隊長の声が飛ぶ。
木の間を抜ける。さっきハンスが入ったあたりまで走る。
足跡が途中で別方向へ曲がっている。
「ハンス!」
頭の中が白くなる。
「坊や」蜂が俺の肩の横で止まった。
「こっちじゃないわ」
「どこだ」召喚蜂は、林の反対側へ向かった。
俺はその後を追う。枝が顔を打つ。頬に細い傷が走ったが、痛みは遅れて来た。
「アッシュ、報告しろ?」レオム隊長の声が後ろから来る。
隊長たちの足音も続いている。ドルクの鎧が小さく鳴り、ザックが低く舌打ちする音がした。
林の端で、召喚蜂がぴたりと止まった。俺も伏せる。枝の隙間から、林の向こうが見えた。
村へ続く道だった。帝国兵が二人、ハンスを引いている。
後ろで縛られた手。右肩をかばうように歪んだ背中。肩を押され、よろめきながら歩いている。声を上げかけた。その口を横から塞がれ、立ち上がりかけた体ごと土へ押し戻される。
レオム隊長の腕だった。
「動くな」
「離してください」
声が掠れた。
帝国兵の一人が肩を押すたび、傷を庇うように体が歪んだ。もう一人が笑って、ハンスの後頭部を軽く叩いた。何か言ったが、ここからじゃ聞こえない。
帝国兵たちは、ハンスを引いたまま村へ消える。
そのあとで、俺はやっと息を吐いた。
胸が痛い。いつ息を止めていたのかも分からなかった。
「助けに行きます」
「駄目だ」レオム隊長の返しは、早かった。
「二日後、会う相手がいる。ここで帝国兵に見つかれば任務が駄目になる」
「ハンスはどうするんですか」
「あいつは何も知らん」ハンス一人なら後回しか。
隊長の立場なら、たぶん正しい。短剣の柄を握った指が、勝手に強くなる。
硬い革が手のひらに食い込んだ。
「知らないから安全ってことにはならない」
「ハンスを見殺しにするんですか」
レオム隊長の目が、ほんの少しだけ動いた。
「あいつら、人に見られたくないみたいっスよ」
ザックは相変わらず軽い顔のままだった。
「見張り、指揮所っぽいとこにしかいないっス」
レオム隊長がそっちを見る。
「ハンスが捕まったこと自体、なかったことにするっス」
ザックは低い枝を指で押し下げ、村の柵を覗いた。
「帝国の連中が自分らの失態だと思う形なら、上にも報告しにくいっス」
レオム隊長の声が少し落ちる。
「どうやる」
「裏柵と戸は、壊れてたように見せるっス。逃げた向きは砦側へ寄せる。追うならそっちへ行くっス」
ザックは村の外れから、反対側の林へ視線を流した。
「その間に、こっちは別の尾根へ抜ける」
そこまで言って、ザックは少しだけ口を曲げた。
「爺さんが拾ってきた二人、ここで駄目にしたら寝覚め悪いっスよ」
「それに、あとで爺さんに化けて出られたら面倒っス」
ドルクが顔をしかめた。
「縁起でもないこと言うな」
「でも言いそうじゃないっスか。『拾ったなら最後まで面倒みろ』って」
誰もすぐには笑わなかった。
レオム隊長は少し黙った。
止める時より、目が深く沈んだ気がした。村の方を見る。それから、ザックを見る。
「お前一人でやれるか」
ザックはすぐに答えなかった。
目だけで、村の形をなぞるみたいに見る。
それから、口の端を上げた。
「ま、昼でも食いもんは盗めますが、見張りは少しやっかいっスね」
「俺も行きます」
俺の声がかぶさった。
ドルクがすぐにこっちを見る。
「感情で入れば、余計にしくじる」
「連れ出すところまで考えるなら、俺が要る」
誰もすぐには返さなかった。
ザックが一度だけ俺を見る。面倒そうな顔だったが、否定はしなかった。
「……まあ、それはそうっスね」
それから、少しだけ声を低くした。
「担ぐ必要があれば、二人はいるっス」
胸の奥を、冷たいものが撫でた。
レオム隊長の目が、俺とザックのあいだを往復する。
「救出だけだ」
短い声だった。
「村に余計な手を出すな。兵を殺るな。痕跡も残すな」
ザックがうなずく。
「やるっスよ。見つからずに済ませた方が、気分いいっス」
そこで初めて、ザックが少しだけ笑った。
口元は軽いままなのに、目だけが笑っていなかった。
レオム隊長は俺を見る。
「お前はザックの言うとおりに動け」
命令だった。でも、許可でもあった。
「……はい」
「俺たちは先に進む。朝までに合流地点で待つ」
レオム隊長は村の明かりから目を離し、林の奥を示した。
「今夜、救出して、必ず三人で追いついてこい」
三人で、という言葉が、耳に残った。




