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2/16

最前線のその奥へ

◆ローデル 王城会議

王城の執務室で、ローデル王は地図を見下ろしていた。

「本当に来るのか?」

アルヴェイン・ラーディスは顔を上げた。

「攻めてきます」

「ザルガド国とは不戦条約がある。奴らは長年、帝国との戦に手を取られているはずだ」

「偽りでしたら、わたしの首で足ります」

沈黙が落ちた。

その時、卓の端の通信盤が鳴った。「鉄哭関です」

書記が受話石に手を置く。


『前線斥候隊より。敵兵おおよそ五千。報告者、斥候隊長レオム・ヴァレク』

アルヴェインの目が細くなる。

「前線に目があるうちは、こちらが先に動ける」

アルヴェインは受話石を握った。

「レオム・ヴァレク。聞こえるなら答えろ」

石の向こうで雑音がはぜる。

「新しい任務を与える。砦へは戻るな」

王が顔を上げた。

「何をさせる?」

「ザルガドへ潜らせます。なぜ今、奴らが動いたのか。その答えを持ち帰らせます」


◆アッシュ

歩き出してから、どれくらい経ったのかは分からなくなった。


先を行くのはマイトレーヤだ。

裾の長い黒衣は、木の根も藪も気にしないみたいに揺れている。

俺たちだけが、泥と枝に引っかかっていた。


俺から数歩遅れて、ハンスの足音がついてくる。土を擦る、重い音だった。

前を向いたまま、マイトレーヤが言った。

「坊や、寒いの?」

「寒くない」

後ろで、ハンスが鼻を鳴らす。


「ねぇ、アッシュ」


「何だ」


「前のおばさん、誰?」

マイトレーヤの肩が、わずかに揺れた。垂れた指先で、爪だけがするすると伸びる。

俺は足を止めた。

「ハンス、お前、見えてるのか?」


「見えてるよ」


「何で先に言わない」


「アッシュが言うの待ってた」


「アッシュが、知らないおばさんから離れないから」

それだけで、機嫌が悪いのが分かった。


「そんな近くは……歩いてねえよ」

マイトレーヤがゆっくり振り向いた。

口元は笑っている。なのに、ハンスを見たまま瞬きもしない。


「坊やのお友達、ずいぶん口が悪いのね」


「だって、おばさんだし」


「ハンス、やめろ」


ハンスは俺を見た。責めるみたいな目だった。


「……なんでそっちを庇うの」


「庇ってねえよ」


「僕の方がアッシュのこと知ってるのに」


「何、張り合ってんだお前」

ハンスは口を尖らせた。


「……マイトレーヤだ。俺の召喚蜂」


「ふうん」

少し黙ってから、ハンスは言った。


「召喚蜂って、もっと小さくてかわいかったのに」


マイトレーヤが微笑む。

「まあ。羽があった頃のわたしの方が好みなのね」


「今は、おばさんっぽい」

爪がいままでで一番伸びた。

「ハンス、やめろ!」


「坊や」

マイトレーヤが、俺ではなくハンスを見た。

「この子、ここに置いていきましょうか?」


「アッシュ!」

ハンスが俺の背中に隠れるみたいに寄った。

「この人、やっぱり怖い」


「今さら気づいたのか」


ハンスが俺の袖をつまむ。指先が微かに震えていた。

さっきまでの勢いが切れたみたいに、声が急に小さくなる。


「僕、疲れたし、おなかすいた」


「急に弱るな。面倒くさい」

そう言っても、袖をつかむ手を振り払う気にはなれなかった。

俺はマイトレーヤを見た。

「休める場所はないか?」


「この先に泉があるわ」


マイトレーヤはもう前を向いていた。

伸びた爪だけが、機嫌の悪さみたいに残っている。


「じゃあ、そこ行く」


「……最悪だなお前」


そう言ったくせに、少しだけ息が抜けた。


こんな時でも腹が減るなら、まだ大丈夫だ。

そう思って、また腹が立った。


泉の音が近づくにつれて、ハンスの足取りが少しだけ軽くなった。

「着いた?」


「まだだ」

そう返した直後だった。木立が切れ、月明かりを拾った水面が見えた。


低い岩のあいだから、水が細く流れ出している。

その水際の石の上に、誰かがうつぶせで倒れていた。

背中に矢が二本。隊の革外套。白く混じった短い髪。腰に下げた古い小刀。

「……爺さん!」

斥候隊の爺さんと呼ばれる古株だった。

おい、そこのガキども。干し肉は噛んで食え。飲むな。

そう言って笑い、自分の分を半分よこした。

ハンスが転べば、転ぶ前に呼べ、馬鹿。

そう言いながら、怒るより先にしゃがんで靴紐を結び直した。

その手が今は、泉の縁で血に濡れていた。


俺は膝をつき、肩を掴んだ。

「爺さん、しっかりしろ」

体を返す。

服の前まで血が回っている。口の端にも血が溜まっていた。


息は浅い。それでも目だけは、まだ動いた。

「お前たち……生きてたか」

かすれた声だった。

「よかった……」


「喋るな。水――」

泉へ手を伸ばしかけて、やめた。


飲ませていい傷じゃない。そんなことくらい、見れば分かった。

「爺さん、隊長は」

爺さんの喉が鳴った。言葉の前に、血が口元へ滲む。

「後だ……砦は、駄目だ。封じられた……街道も、行くな」

ハンスが俺の横へしゃがみ込んだ。顔色は、泉の白い石より悪かった。


爺さんの指が、震えながら泉の奥を指した。黒い崖の方へ。

「この先……割れた黒岩……裏から入れ」


「黒岩?」


「……でかいのが一本、馬鹿みてえに割れてる。……見りゃ分かる」

息が切れる。喉の奥で、濡れた音がする。

「……白い石は踏むな。……見た目だけだ。……浮いてる」


「わかった」


「……残ってる……足跡を見逃すな」

爺さんの目が、ゆっくりハンスへ動いた。

「……お前は……転ぶなよ」

ハンスの喉がひくっと鳴った。

「……うん」


「無理なら……こいつに」

爺さんの指が、俺の手の中でわずかに動く。

「……掴まっとけ」

そこで声が切れた。


「爺さん!」返事はない。さっきまで握り返していた指が、するりと抜けた。

手の甲が石に落ちる。小さな音だった。

泉の水だけが、岩のあいだでずっと同じ音を立てて鳴っている。


「アッシュ……」

ハンスの声が細く震えた。

「……爺ちゃん。ダメなの?」

俺は爺さんの目を閉じた。

胸元に手を入れる。革紐に吊られた携行の通信魔具が出てきた。

爺さんがよく自慢していたやつだ。

古いが、音は拾う。そう言って、暇があれば布で磨いていた。

今は血で滑って、うまく掴めない。

マイトレーヤが森の向こうへ視線を流した。


「坊や。上に行くなら、泣くのは着いてからにしなさい」


「……泣いてねえよ」


俺は通信魔具を握り込む。血で濡れた金具が、手の中でひどく冷たかった。


落とさないよう、革紐ごと胸元の内側へ押し込む。

「ハンス、立て」

言ってから、自分の声の硬さに腹が立った。


もっと別の言葉があったはずなのに。でも、今はこれしか出ない。

「ハンス」

二度目で、ようやくハンスが俺を見る。


その指が、俺の袖を探すみたいに動いた。けれど、掴む前に止まる。

ハンスは小さくうなずいた。


泉の奥へ回った。

水音が背中側へ遠ざかるにつれて、黒い岩肌が近づいてくる。

一本だけ大きく割れた岩が立っている。縦に裂けた黒岩。

裂け目の裏へ、体を横にしなければ通れないほど細い隙間が続いていた。

「これか」


裂け目を抜けると、崖の斜面に崩れた跡があった。

砕けた岩の粒が斜めに溜まり、上まで続いている。ただの崩落跡に見える。

けれど、その縁にだけ、人が何度も足を置いたような横筋が走っていた。

白い石が、月明かりを吸ってそこだけ骨みたいに浮いている。大きさも形も、足場にちょうどいい。だからこそ、踏んではいけないのだと分かった。


爺さんは、前のやつの足跡を見ろと言っていた。

俺は地面へ目を落とす。

……あった。

泥の薄い靴跡が、白い石を避けるように、固い岩だけを拾って横へ続いている。

「ハンス、俺の足元だけ見ろ」


「うん」


「下は見るな」


「うん」

返事が早い。早すぎる時のこいつは、だいたい駄目だ。

崖に手をかけ、一歩ずつ体を引き上げる。

靴先で足場を探る。

固い岩なら進む。

崩れる音がしたら、足を引く。右足の横に、白い石があった。

触れかけた瞬間、石がからりと裏返った。

薄い皿みたいに足場が消え、砕けた石粒がざらざらと下へ走る。

ひと息遅れて、崖の底で石がぶつかる音がはじけた。


ハンスが息を詰める。

「見るな!」

「ご、ごめん」

「謝るな。足を見ろ」

横這いで進む。指先で冷たい岩棚を探るたび、爪の間に砂が入った。


後ろでハンスの息が乱れる。

「アッシュ」


「なんだ」


「僕、無理かも。落ちそう」


「落ちるなよ」


「雑だよ……」


「丁寧に落ちても死ぬだろ」

右手を伸ばすと、岩の割れ目から木の根が出ていた。

指をかけて引く。抜けない。

「ここだ。手を出せ」

振り向けないまま、腕を後ろへ伸ばす。


しばらくして、ハンスの手がぶつかった。

「離すなよ」


「……う、ん」

背後で石が滑った。


しゃっ、と乾いた音。ハンスの息がひっくり返る。

腕に、体重が乗った。

「ハンス!」


「だめかも!」

その横を、黒い影がすっと通った。召喚蜂だった。

「坊やまで落ちるでしょ」

ハンスの体が、少しだけ上へ浮く。


その隙に俺が引いた。根に足をかける。肩で持ち上げる。

反動で、ハンスが崖へぶつかった。

ごっ、と鈍い音がした。

「……っ、アッシュ、痛い」


「落ちて死ぬよりマシだ!」

そこから先は、ほとんど這った。やがて、指先が土を掴んだ。

岩ではない。湿った土。

届く。

そう思った瞬間、初めて怖くなった。

ここで落ちたら終わる。息を止めて、体を引き上げる。

肩が土に乗る。肘が乗る。腹が乗る。

最後に足を蹴り上げて、俺は平らな地面へ転がった。

空が広かった。

黒い枝に切られていない星が、今さら見えた。

「アッシュ……」

ハンスが遅れて崖の縁に手をかける。

俺は腕を伸ばし、ハンスの手首を掴んで引いた。

ハンスも土の上へ転がった。


横で息を切らしながら、しばらく空を見ている。

「……もう崖は嫌だ」


「俺もだ」

その時だった。


「……アッシュか」

レオム隊長だった。微かに、血と焦げた布の匂いがした。

後ろにいたのは、ドルク一人だけだった。

「隊長……」ハンスがその場にへたり込んだ。

緊張が切れたみたいに、土の上に手をついて荒く息をしている。

レオム隊長はハンスを一度見て、それから俺の後ろ、崖の下へ目を向けた。

「爺さんは?」

口を開きかけて、閉じた。

レオム隊長は息を吸い、顔を上げた。それだけで、聞かなくても分かったみたいに。

「……そうか」

短く言って、レオム隊長は目を伏せた。

「俺は止めた。戻るなと言った」

それでも、爺さんは戻ったんだ。俺たちを拾うために。


隊長の口元が、一度だけ歪む。

「いつも爺さんは、俺より正しかったな」


少しだけ、隊長の目元が険しくなる。

「爺さんが戻った意味はあった。お前たちが、ここにいる」

俺は何も言えなかった。

「だが、砦は封鎖された。戻る道はない」

ハンスが、土についた手を握りしめる。


レオム隊長は、崖の向こうを見た。

月明かりの下に、黒い森が続いている。その先はもう、ローデルの地図ではない。

「これから魔族領ザルガドへ入る」

隊長の声は低かった。


ハンスの目が丸くなる。

「入るって……」


「潜入だ」

短い一言だった。

風が崖の上を抜ける。誰もすぐには返事をしなかった。


レオム隊長は俺とハンスを順に見た。

「立てるか」


「……はい」

ハンスはそう言って、立とうとして失敗した。

俺は腕を貸す。


レオム隊長は、それを見ても急かさなかった。

「生き残りたいなら、俺たちについてこい」

砦には戻れない。街道も使えない。爺さんはもういない。

ハンスはまだ、俺の袖を探すみたいに指を動かしている。


砦が消え、街道が塞がれたなら、ハンスを生かして連れていく道はもう崖の向こうにしかない。俺はハンスの腕を肩に回した。

「行くぞ」

ハンスが小さくうなずく。

崖の向こうで、黒い森が待っていた。


◆鉄哭関 魔族軍前線司令部


「報告」

伝令は柵際に膝をついた。


石畳と膝当てがぶつかる、硬い音がした。

息を整える前に、魔族の指揮官が言う。

「言え」

「街道沿いの森で、敵斥候と思われる足跡を確認しました」


「数は」


「泉の手前までは三名分。そこから先は二名分です」

鉄哭関の上で、大砲の砲口が鈍く光る。


冷たい風が吹き抜け、指揮官の外套を揺らした。

指揮官はローデル側の砦を見たままだ。

「続けろ」

「先ほど追跡に出したうち、二名が死体で見つかりました」

そこで初めて、指揮官の目が伝令に落ちた。

「……斥候だけではないのか」

伝令が顔を上げる。

「一名は胸を抜かれていました。もう一名は喉を裂かれていました」

副官が顔をしかめる。

「攻撃魔法士か、戦獣召喚士の可能性もありますな」

指揮官は答えない。

地図の端が、爪の下でわずかに折れた。


かさ、と乾いた音が鳴る。

「場所」


「砦から三キロ。街道を外れた森です」

眉間がきつく寄る。

「二人で入れたのか」

伝令の背が固まる。

「……はい」

「追跡隊を一つ出せ。二人やられている。森に深追いはさせるな」

副官が顔を上げた。

「念のため、後背の村を押さえている帝国兵にも伝えますか?」


「ああ」

指揮官は砦を見たまま言った。

「鼠が出たら踏み潰せ、とな」

それだけ言って、指揮官は視線を砦へ戻した。




マイトレーア

挿絵(By みてみん)



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