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俺から離れるな

女は、倒れたハンスを見下ろしていた。


俺は短剣を握っていた。

なのに、抜くことも、一歩踏み出すこともできなかった。


「坊やが選んで」


女は微笑んだ。


「その子を離すか、わたしを選ぶか」


一週間前。

女はまだ、蜂の形をしていた。



その日も俺とハンスは、孤児院の窓から前庭を見ていた。


孤児院に客が来ることは、めったにない。

来たとしても、たいていは院長に用がある大人だ。

「アッシュ」

ハンスが俺の袖を引いた。指先だけを使った、弱い引き方だ。

「なんだ」


「……おなか、すいた」


「またか」

朝の薄い粥は、とっくに腹のどこにも残っていない。

俺は寝台の藁の下から、昨日残しておいた黒パンを取り出した。


藁くずを払って、ハンスに押しつける。

けれど、こいつはパンより先に俺の袖をつかんだ。


ハンスが孤児院に来たばかりの頃、年上のガキに納屋の裏へ連れ込まれたことがある。


見つけた時、ハンスは声も出せずに泣いていた。

俺は、そいつの額を石で割った。

逃げたあと、俺の顔も血だらけだった。


それでも、震えているハンスの手首を掴んで言った。

「これからは俺から離れるな」

あの時からだ。

こいつは俺の服のどこかをつかむようになった。


今じゃ、こいつの姿が見えないと、俺の方が落ち着かない。

面倒な話だ。守る側まで癖になるなんて、ろくなものじゃない。

ハンスは黒パンを両手で抱え、硬い皮の端を親指でこすっていた。

「なんで食わない?」


「だってこれ、昨日より硬くなってるもん。もう武器になるよ」

そう言って、ほんの少しかじる。

乾いた音だけがして、なかなか飲み込まない。

「アッシュ」


「なんだ」


「あれかな?」

ハンスの視線が、前庭へ動いた。

「だろうな」

軍服の男が、院長と並んで玄関へ歩いてくる。

子どもを選びに来る大人は、たいてい俺たちを品物みたいに見る。


けれど、あいつは違った。

「軍って、三年いたら出られるんだよね」

黒パンをかじりながら、ハンスが言った。

「生きてたらな」


「じゃあ、生きる」

簡単に言う。こいつは昔から、難しいことを軽く言う。

「出たら、アッシュの村へ行こう」


「場所なんか知らねえよ」


「名前は知ってるでしょ」

院長室の名簿。

俺の名前の横に、にじんだ字で書かれていた村の名。

本当にそこから来たのかは知らない。

今まで、どうでもいいものみたいに扱っていた名前だった。

「探せばいいよ。二人で」


「俺は行くって言ってない」


「じゃあ、今言って」


「言わねえ」

ハンスは少し笑った。

「じゃあ、約束ね」


「人の話を聞けよ」

そう言ったけれど、袖をつかむ指は振り払わなかった。


ハンスが「二人で」と言った瞬間、にじんだ字の向こうに、初めて道がある気がした。



「ここは、飯を食わせて終わりじゃない」

兵は机の上の羊皮紙を押さえたまま言った。

「十六になれば、軍に入る」

知っている。

ここで食った黒パンにも、薄い粥にも、ちゃんと値段がついている。

「お前たち二人は、鉄哭関てっこくかんに向かえ」

ハンスの袖が、俺の服に触れた。


俺はそれを見ないふりをして、頷いた。覚悟だけは、とっくにできている。

部屋へ戻る廊下で、ようやくハンスが口を開いた。

「アッシュ、軍でのごはんってどんなんだろうね?」


「ここよりマシだろ。たぶん」


「じゃあ、悪くないね」

横を見ると、ハンスの口元が少しほどけていた。


その顔を見ると、少しだけ気が楽になった。


鉄哭関てっこくかん


鉄哭関に着いて、最初に思ったのは、でかい、だった。


荷台から降りると、先に影が落ちてきた。

首を反らしても、石壁の上端が見えない。


魔族領との唯一の国境砦。

横で、ハンスが口を開けたまま立っている。


「置いていかれるぞ」


「……うん」

返事だけして、ハンスはまだ壁を見上げていた。

俺たちはすぐ訓練場へ連れていかれた。

踏み固められた土の上に、同じ年頃のガキが並ばされている。


魔法の適性検査らしい。

孤児院上がりは、たいてい歩兵か工兵か斥候になる。

魔法の素質がある奴だけは別だと、ここに来る途中で聞かされていた。


黒い石台に手を置く。

何も起きなければ、名前を呼ばれて下がる。


それが何人も続いた。


「次。アッシュ」

黒い石台は腰の高さほどで、表面だけが妙に滑らかだった。


「置け」

右手を乗せる。しばらく何も起きない。後ろで誰かが鼻を鳴らした。

その時だった。

石の表面に、墨を落としたみたいな黒い影が滲んだ。後ろで、ハンスが息を呑む。

影は石の上で丸く膨らみ、羽音を立てた。こぶし大の蜂だった。

丸い胴。濡れた複眼。頭には、金のかんむりみたいな突起がある。

黒い腹の縞だけが、石台の上で妙に金っぽく光って見えた。


ぞくりとした。けど、嫌な感じじゃなかった。胸が先に跳ねた。俺にも、こういう力があった。

「すごい。アッシュ、すごい」

ハンスの声が、すぐ後ろで聞こえた。その一言で、胸の奥につかえていたものが少し落ちた。

けれど、次の瞬間、小さな笑いが起きた。ひとつ。すぐ横で、もうひとつ。それが列の後ろまで伝わって、訓練場の空気が一気に軽くなる。


「蜂?」

「ただの蜂かよ」

「蜜でも集めさせとけ」

さっきまで胸の中にあったものが、まとめて土に落とされた気がした。


俺は笑った奴らを睨んだ。

「ひっこんでろ」

まわりの笑いが止まった。手のひらがじっとり濡れる。けれど、目は逸らさなかった。


ここで逸らしたら、本当に何もないまま終わる気がした。

担当官だけが、まだ蜂を見ていた。


「……蜂、か。召喚で蜂は聞いたことがない」


その時、別の声が割り込んだ。

「次を呼べ」

煤けた外套の男が立っていた。荒れた顎。左の頬に古い傷。

兵の一人が、小さく言った。「レオム隊長」。周りが急に静かになった。

「アッシュ、戦獣部隊へ」

担当官が札へ印をつける。

「……次。ハンス」

ハンスが石台へ進み、手を置いた。

何も出ない。蜂の羽音だけが、石台の上に残っていた。

「適性なし。斥候補助へ回せ」

ハンスが振り返って、俺を見た。胸の奥が冷えた。さっきまで一緒に並んでいたのに、そこで道が分かれた気がした。

「待ってください」

担当官が眉を上げる。

「なんだ」


「俺も斥候へ回してください。そいつは俺が見ます」


「蜂でも召喚は召喚だ。戦獣は待遇がましだぞ」

飯。寝床。三年後に生きて出る確率。全部、喉の奥で一度止まった。

それでも言った。

「斥候がいいです」

担当官が呆れた顔をした。その時、レオム隊長が近づいてきた。俺とハンスを順に見る。次に、石台の上を飛ぶ蜂を見る。

「その蜂、目は利くか」


「分かりません」


「飛ばせる距離は」


「分かりません」


「分からんことばかりだな」

レオム隊長は蜂を見る。次に俺を見た。

「育てりゃ使えるか」

それから、ハンスを見た。

「走れるか」

ハンスは肩を跳ねさせてから、頷いた。

「剣は」


「……苦手です」


「見れば分かる」

鼻で息を吐いた。

「こいつらは小柄で目立たん。斥候で使えたら蜂は貴重だ。回せ」

「レオム隊長、本気ですか。そんなガキ二人――」


「俺が決める」

それで終わった。

「お前ら、明日から俺の斥候隊だ。夜明け前に中庭へ来い。遅れたら置いてく」

兵舎へ戻る坂で、ハンスがまた俺の少し後ろへついた。横じゃない。少し後ろ。

袖を引かれる前から、そこにいるのが分かった。


「ねえ、アッシュ」


「なんだ」


「明日から、こわいね」


「……ああ」


「でも、アッシュがいるなら、なんとかなるよね」

足が止まりかける。俺は、ハンスを見つめた。


ここへ来ても、こいつは変わらない。


こいつがいたから、俺は孤児院でも負けなかった。

俺は頷いた。

「ああ。俺がなんとかする」

ハンスが笑った。見上げてくる目は、もう怯えていなかった。

蜂が、俺の肩の近くを漂っている。


触れるほど近くはない。

ただ、俺の歩幅に合わせるみたいに、横についてきた。


◆嫌な森


「アッシュ。いつまでここにいるの?」

耳のすぐ上で、ハンスの声がした。

俺は返事をせず、湿った下草のあいだから街道を見下ろした。


森の枝葉は西日を受けて黒く重なり、山峡街道の白い轍だけが、薄闇の底に細く浮いている。

「隊長、何て言った?」


「ここで待て、って……街道を見張れって」


「……勝手に動くな」

最後の命令だけ、遅れて思い出したみたいだった。

「そう。隊長が戻るまで待つ」


街道の奥に目を戻す。


山峡街道は、高い崖に挟まれている。レオム隊長は、五キロほど逃げ場がないと言っていた。追われれば、戻るか、奥へ進むかしかない。


嫌な森だった。


そのとき、足元で小さな羽音が変わった。

こぶし大の召喚蜂が、倒木の根からふわりと浮く。


空中でぴたりと止まり、街道の奥へ触角を向けた。

「ねぇ、アッシュ」

またハンスの声が近い。

「今度は何だ」


「僕、おしっこ行きたい」

今か。


振り返ると、ハンスは中腰で、祈るみたいに手を合わせていた。

顔だけは真剣だった。

「ずっと我慢してたんだよ」


「今は駄目だ」


「僕、ちゃんと黙ってたし、頭も下げてた」


「だから褒めろってか」


その瞬間、召喚蜂が俺の足元で急に八の字を描いた。翅の音が細く尖り、耳の奥に引っかかる。

俺は息を止めて、街道の奥を見た。


暗くて何も見えない。けれど、森の底から低い音が押し寄せてきた。


ハンスは中腰のまま固まっていた。

「……ほんとに、来た」

そのとき、街道の反対側の森で、何かがきらりと光った。

「ハンス、伏せろ!」

ハンスは半端に腰を浮かせたまま、目だけをこっちへ向けた。


短い風切り音が藪を裂いた。

ハンスの右肩が跳ねる。

黒い矢羽根のついた矢が突き立っていた。

胸の前で止まっていた手が、力を失って落ちる。


鈍い音が、妙に遅れて聞こえた。



「ハンス!」

叫んだ声より先に、鉄哭関の方角から角笛が鳴った。

俺はハンスの左腕を自分の肩に回し、腰を支えて森の奥へ走った。

矢の刺さった右肩をかばうせいで、ハンスの足は何度も遅れた。


引き寄せるたび、あいつの息が耳元で詰まった。


月明かりの中、召喚蜂が示す方へ進む。

枝の隙間を縫うように飛んでは、少し先で止まる。


俺たちはそのたびに身を低くして、息を殺した。

しばらく進んでから、召喚蜂のまわりを黒い蜂が何匹も飛んでいるのに気づいた。


こいつが呼んだのか、最初から森にいたのかは分からない。

「っ、アッシュ、痛い」


「触るな。抜いたら血が噴く」


左の藪で枝が鳴った。

俺とハンスはその場にしゃがみ込み、息を止める。


その時、ハンスの指が俺の袖を引いた。

「アッシュ」

声はほとんど息だった。

「右、だめ」

右の藪を見る。


何も見えない。


音もしない。

次の瞬間、そこから矢が飛んだ。

一歩でも前へ進んでいたら、俺の喉に刺さっていた。

俺は息を止めたまま、ハンスを見た。

あいつは唇を噛んで、小さく首を振った。


次の瞬間、黒い蜂が二匹、地面すれすれに闇へ滑った。


一匹は倒木の下をくぐり、もう一匹は枝の上へ回る。

すぐ近くで男の声が上がった。


何かを払いのける音がして、枝を踏み折る足音が遠ざかっていく。

まだ待つ。

音が消えてから、俺はようやくハンスを引き起こした。

「……行くぞ」

返事はない。


指の震えが止まらない。

ハンスの足が、さっきから土を擦っている。


踏み出すたびに遅れる。


吐く息は熱いのに、つかんだ手だけが冷えている。

もう長く歩いている。喉が焼ける。


大きな木の下で、召喚蜂が八の字に飛んでいた。

根元は土が盛り上がり、崖の影が濃く落ちている。


少しだけなら、身を隠せそうだった。俺はハンスを木の根元に座らせた。

刺さったままの矢の柄を、根元近くで折る。

荷袋から傷薬と包帯を出す。肩の布を裂くと、ぬるい血が指の間に広がった。


処置の間、ハンスは下を向いて震えていた。


声は上げなかった。

「……アッシュ……ありがと。置いていかないで」

顔色が落ちている。唇の色も薄い。声まで軽かった。

「当たり前だろ」


「……うん。それ、聞きたかった」

しばらくすると、となりからハンスの呼吸だけが聞こえてきた。


浅くて、途切れそうな呼吸だった。眠ったのではない。

気を失ったのだと、すぐに分かった。

召喚蜂は、暗い森の向こうまで飛んでも、すぐ戻ってくる。

俺が呼んだからじゃない。


そもそも、こいつは俺の命令をぜんぜん聞かない。

それなのに、俺が何をしたいのか知っているみたいに動く。


俺は森の奥を見上げた。木の先で、黒い岩肌がまっすぐ立っていた。真上にしか星が見えない。

顔を下げると、召喚蜂が目の前にいた。次の瞬間、八の字を切る。

ハッとして、周りを見回す。遠くに小さな明かりが、ちらちらと動いている。

「ハンス」

声を掛けるが、目を覚まさない。肩を揺すると、包帯の下がまた赤く滲んだ。

脇に腕を入れて引き起こしかける。膝が少し浮いて、すぐ崩れた。


唇を噛んだ。必要だって顔をされるたび、俺は勝手に、できる気でいた。馬鹿だ。

来た方向の森で、ちらちら動く明かりが少しずつ大きくなる。

召喚蜂が、崖下の細い獣道へ飛んだ。

一人なら通れる。ハンスを背負えば、落ちる。


それが分かった瞬間、腹の底が冷えた。置いて逃げれば、ハンスは連れていかれる。

背負って走れば、すぐ追いつかれる。


俺一人で、敵を倒せるか。無理だ。

できないなら、せめて一人にはしない。

「悪い。俺も残る」

俺は腰の短剣を抜いた。柄を握り込む。息が浅い。目を閉じようとして、閉じきれなかった。

刃先が、かすかにぶれた。目を開けると、召喚蜂がもう目の前にいた。

濡れた複眼が、月明かりを細かく割っている。

止めていた息が、勝手に漏れた。こいつとも、ここまでか。

「お前が出た時、うれしかった。……あの時は」


俺は額を膝に押しつけた。膝の下の石が冷たい。

「役に立てば、足りると思ってた」息を吸う。うまく入らない。

「……誰か助けて」

口に出した瞬間、召喚蜂の羽音が止まった。

左手の甲に、針を打ち込まれたみたいな痛みが走った。

召喚蜂に刺された。そう分かった時には、黒い蜜を血管の内側へ流し込まれたみたいに、熱が手の甲から腕へ這い上がった。


肩の骨の下まで入り込んでくる。

短剣を握っていた指から、力が抜けた。落ちた刃が、土の上で小さく鳴る。

周りを飛んでいた蜂の羽音が、一度だけぴたりと揃って止まった。

耳のすぐ横で、女の声がした。

「坊や、わたしが守るわ」

顔を上げる。数歩先で、召喚蜂が金に灼けていた。

黒い胴がほどける。羽がひらき、脚が光の中へ溶けていく。


残った輝きの中心に、女が立っていた。


長い黒髪。黒い衣。

濡れた落ち葉に裾が触れているのに、泥はつかない。


きれいだった。

きれいなのに、近づいたら駄目だと本能が叫んだ。


女は、泣きつかれた子どもを見るみたいに、やわらかく目を細めた。

「わたしは、マイトレーヤよ」

皮膚の下で、さっきの黒い熱がまだ小さく脈を打っている。

「……これが、本当の姿?」


「そうよ。あなたを待っていたわ」

マイトレーヤは微笑んだ。

その視線が、倒れたままのハンスへ落ちる。

「その子はここまで」


「わたしが守るのは、坊やだけだもの」

声が出ない。俺はハンスの肩を抱え直した。

包帯の下で、また血が滲んでいる。軽いはずなのに、持ち上がらない。


腕に力を入れても、ハンスの体は土の上を少し擦っただけだった。


林の奥で枝が鳴った。落ち葉を踏む音が、まっすぐこっちへ寄ってくる。

俺は短剣を拾い直した。刃先が揺れる。


マイトレーヤは歩兵に背を向けたままだった。俺から視線が一度も外れない。

「いたぞ!」


「……アッシュ」

ハンスの目は閉じたままだった。声だけがかすれている。

「置いて、かなかった?」

息が喉にひっかかった。

「俺は、ここにいる」

口を開いた拍子に、頬まで濡れているのに気づいた。


歩兵が木立を割って出た。二人。鉄哭関の兵じゃない。

一人は正面、剣を肩の高さに上げていた。

もう一人は右の倒木を越え、俺たちの横へ回り込もうとしている。


マイトレーヤがやさしく言う。

「最後よ。その子から離れなさい」


俺はハンスを引き寄せて、うずくまった。肩へ顔を押しつける。刃が落ちるなら、まず俺の背中だ。

「離すかよ!」

声が裂けた。

マイトレーヤの袖口から、黒い蜂が二匹、こぼれた。


右の男は倒木を越え、俺の横腹を狙う位置へ足を置いた。

その直前、黒いものが月明かりを横切った。

蜂だった。


一匹は正面の男の胸へ突っ込み、次の瞬間、革鎧の下に黒い穴を開けた。

剣が止まり、血が遅れて噴く。


もう一匹は、右へ回り込んだ男の喉元へ落ちた。

男は声も出せず、膝から崩れた。


短剣を握ったまま、指がほどけない。

「……こんなに、あっけなく」

マイトレーヤが俺の横を通りすぎて、ハンスの前でしゃがむ。

倒れた兵には、一度も目を向けなかった。

「坊やは、今夜、この子を選んだ。でも」

そこでようやく、ハンスの顔を見た。

「今夜この子が死なないのは、わたしがいるからよ」

最後の一言は、俺に向いていた。

俺は膝をついた。足に力が残っていなかった。


マイトレーヤはハンスの顎を指で持ち上げた。首筋を見る。少し黙る。

「暴れたら、首から下を置いていくわよ」

マイトレーヤは矢を根元でつまんだ。ためらいもなく引き抜く。

「っ」

声が出たのは俺の方だった。

ハンスの体がびくっと跳ねて、それきり止まる。

マイトレーヤの指先が針みたいに尖る。次の瞬間には、五本まとめて傷の中へ沈んでいた。

やがて、指がすっと抜ける。血が止まっていた。

裂けた肉の端が、ゆっくり寄る。赤黒かった傷が濡れた線に変わる。裂け目は、確かに閉じていった。


ハンスのまぶたが震えた。「……ん」

俺は這うみたいに近づいて、肩を抱いた。

「ハンス」

目が開く。焦点が揺れる。揺れて、それから俺を見つける。いつもの俺を見る目だ。

「アッシュ……いた」

喉が詰まった。

ハンスが弱く笑う。唇はまだ白い。胸の中で張っていたものが、少しだけほどけた。

俺はハンスを抱きしめた。


その肩越しに、マイトレーヤがこっちを見ていた。目だけは、ぞっとするほどやさしかった。

ハンスが俺の服をつかむ。

「ねえ……おなか、すいた」

いつもの声だった。

笑いそうになって、泣きそうにもなった。どっちもひどい顔になりそうで、口だけ歪んだ。

「こんな時に、それかよ」

ハンスは弱く瞬いた。「……うん」

「馬鹿」

そう言って、俺はハンスの背を支え直した。

ハンスが顔を上げた時、瞳の奥で、金の線がひとすじ走った。金の線は、すぐに消えた。

「その子を助けた分、あとでちゃんと返してもらうわ」


マイトレーヤは微笑んでいた。


その目だけが、笑っていなかった。

ハンス


挿絵(By みてみん)

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