俺から離れるな
女は、倒れたハンスを見下ろしていた。
俺は短剣を握っていた。
なのに、抜くことも、一歩踏み出すこともできなかった。
「坊やが選んで」
女は微笑んだ。
「その子を離すか、わたしを選ぶか」
一週間前。
女はまだ、蜂の形をしていた。
◆
その日も俺とハンスは、孤児院の窓から前庭を見ていた。
孤児院に客が来ることは、めったにない。
来たとしても、たいていは院長に用がある大人だ。
「アッシュ」
ハンスが俺の袖を引いた。指先だけを使った、弱い引き方だ。
「なんだ」
「……おなか、すいた」
「またか」
朝の薄い粥は、とっくに腹のどこにも残っていない。
俺は寝台の藁の下から、昨日残しておいた黒パンを取り出した。
藁くずを払って、ハンスに押しつける。
けれど、こいつはパンより先に俺の袖をつかんだ。
ハンスが孤児院に来たばかりの頃、年上のガキに納屋の裏へ連れ込まれたことがある。
見つけた時、ハンスは声も出せずに泣いていた。
俺は、そいつの額を石で割った。
逃げたあと、俺の顔も血だらけだった。
それでも、震えているハンスの手首を掴んで言った。
「これからは俺から離れるな」
あの時からだ。
こいつは俺の服のどこかをつかむようになった。
今じゃ、こいつの姿が見えないと、俺の方が落ち着かない。
面倒な話だ。守る側まで癖になるなんて、ろくなものじゃない。
ハンスは黒パンを両手で抱え、硬い皮の端を親指でこすっていた。
「なんで食わない?」
「だってこれ、昨日より硬くなってるもん。もう武器になるよ」
そう言って、ほんの少しかじる。
乾いた音だけがして、なかなか飲み込まない。
「アッシュ」
「なんだ」
「あれかな?」
ハンスの視線が、前庭へ動いた。
「だろうな」
軍服の男が、院長と並んで玄関へ歩いてくる。
子どもを選びに来る大人は、たいてい俺たちを品物みたいに見る。
けれど、あいつは違った。
「軍って、三年いたら出られるんだよね」
黒パンをかじりながら、ハンスが言った。
「生きてたらな」
「じゃあ、生きる」
簡単に言う。こいつは昔から、難しいことを軽く言う。
「出たら、アッシュの村へ行こう」
「場所なんか知らねえよ」
「名前は知ってるでしょ」
院長室の名簿。
俺の名前の横に、にじんだ字で書かれていた村の名。
本当にそこから来たのかは知らない。
今まで、どうでもいいものみたいに扱っていた名前だった。
「探せばいいよ。二人で」
「俺は行くって言ってない」
「じゃあ、今言って」
「言わねえ」
ハンスは少し笑った。
「じゃあ、約束ね」
「人の話を聞けよ」
そう言ったけれど、袖をつかむ指は振り払わなかった。
ハンスが「二人で」と言った瞬間、にじんだ字の向こうに、初めて道がある気がした。
◆
「ここは、飯を食わせて終わりじゃない」
兵は机の上の羊皮紙を押さえたまま言った。
「十六になれば、軍に入る」
知っている。
ここで食った黒パンにも、薄い粥にも、ちゃんと値段がついている。
「お前たち二人は、鉄哭関に向かえ」
ハンスの袖が、俺の服に触れた。
俺はそれを見ないふりをして、頷いた。覚悟だけは、とっくにできている。
部屋へ戻る廊下で、ようやくハンスが口を開いた。
「アッシュ、軍でのごはんってどんなんだろうね?」
「ここよりマシだろ。たぶん」
「じゃあ、悪くないね」
横を見ると、ハンスの口元が少しほどけていた。
その顔を見ると、少しだけ気が楽になった。
◆鉄哭関
鉄哭関に着いて、最初に思ったのは、でかい、だった。
荷台から降りると、先に影が落ちてきた。
首を反らしても、石壁の上端が見えない。
魔族領との唯一の国境砦。
横で、ハンスが口を開けたまま立っている。
「置いていかれるぞ」
「……うん」
返事だけして、ハンスはまだ壁を見上げていた。
俺たちはすぐ訓練場へ連れていかれた。
踏み固められた土の上に、同じ年頃のガキが並ばされている。
魔法の適性検査らしい。
孤児院上がりは、たいてい歩兵か工兵か斥候になる。
魔法の素質がある奴だけは別だと、ここに来る途中で聞かされていた。
黒い石台に手を置く。
何も起きなければ、名前を呼ばれて下がる。
それが何人も続いた。
「次。アッシュ」
黒い石台は腰の高さほどで、表面だけが妙に滑らかだった。
「置け」
右手を乗せる。しばらく何も起きない。後ろで誰かが鼻を鳴らした。
その時だった。
石の表面に、墨を落としたみたいな黒い影が滲んだ。後ろで、ハンスが息を呑む。
影は石の上で丸く膨らみ、羽音を立てた。こぶし大の蜂だった。
丸い胴。濡れた複眼。頭には、金の冠みたいな突起がある。
黒い腹の縞だけが、石台の上で妙に金っぽく光って見えた。
ぞくりとした。けど、嫌な感じじゃなかった。胸が先に跳ねた。俺にも、こういう力があった。
「すごい。アッシュ、すごい」
ハンスの声が、すぐ後ろで聞こえた。その一言で、胸の奥につかえていたものが少し落ちた。
けれど、次の瞬間、小さな笑いが起きた。ひとつ。すぐ横で、もうひとつ。それが列の後ろまで伝わって、訓練場の空気が一気に軽くなる。
「蜂?」
「ただの蜂かよ」
「蜜でも集めさせとけ」
さっきまで胸の中にあったものが、まとめて土に落とされた気がした。
俺は笑った奴らを睨んだ。
「ひっこんでろ」
まわりの笑いが止まった。手のひらがじっとり濡れる。けれど、目は逸らさなかった。
ここで逸らしたら、本当に何もないまま終わる気がした。
担当官だけが、まだ蜂を見ていた。
「……蜂、か。召喚で蜂は聞いたことがない」
その時、別の声が割り込んだ。
「次を呼べ」
煤けた外套の男が立っていた。荒れた顎。左の頬に古い傷。
兵の一人が、小さく言った。「レオム隊長」。周りが急に静かになった。
「アッシュ、戦獣部隊へ」
担当官が札へ印をつける。
「……次。ハンス」
ハンスが石台へ進み、手を置いた。
何も出ない。蜂の羽音だけが、石台の上に残っていた。
「適性なし。斥候補助へ回せ」
ハンスが振り返って、俺を見た。胸の奥が冷えた。さっきまで一緒に並んでいたのに、そこで道が分かれた気がした。
「待ってください」
担当官が眉を上げる。
「なんだ」
「俺も斥候へ回してください。そいつは俺が見ます」
「蜂でも召喚は召喚だ。戦獣は待遇がましだぞ」
飯。寝床。三年後に生きて出る確率。全部、喉の奥で一度止まった。
それでも言った。
「斥候がいいです」
担当官が呆れた顔をした。その時、レオム隊長が近づいてきた。俺とハンスを順に見る。次に、石台の上を飛ぶ蜂を見る。
「その蜂、目は利くか」
「分かりません」
「飛ばせる距離は」
「分かりません」
「分からんことばかりだな」
レオム隊長は蜂を見る。次に俺を見た。
「育てりゃ使えるか」
それから、ハンスを見た。
「走れるか」
ハンスは肩を跳ねさせてから、頷いた。
「剣は」
「……苦手です」
「見れば分かる」
鼻で息を吐いた。
「こいつらは小柄で目立たん。斥候で使えたら蜂は貴重だ。回せ」
「レオム隊長、本気ですか。そんなガキ二人――」
「俺が決める」
それで終わった。
「お前ら、明日から俺の斥候隊だ。夜明け前に中庭へ来い。遅れたら置いてく」
兵舎へ戻る坂で、ハンスがまた俺の少し後ろへついた。横じゃない。少し後ろ。
袖を引かれる前から、そこにいるのが分かった。
「ねえ、アッシュ」
「なんだ」
「明日から、こわいね」
「……ああ」
「でも、アッシュがいるなら、なんとかなるよね」
足が止まりかける。俺は、ハンスを見つめた。
ここへ来ても、こいつは変わらない。
こいつがいたから、俺は孤児院でも負けなかった。
俺は頷いた。
「ああ。俺がなんとかする」
ハンスが笑った。見上げてくる目は、もう怯えていなかった。
蜂が、俺の肩の近くを漂っている。
触れるほど近くはない。
ただ、俺の歩幅に合わせるみたいに、横についてきた。
◆嫌な森
「アッシュ。いつまでここにいるの?」
耳のすぐ上で、ハンスの声がした。
俺は返事をせず、湿った下草のあいだから街道を見下ろした。
森の枝葉は西日を受けて黒く重なり、山峡街道の白い轍だけが、薄闇の底に細く浮いている。
「隊長、何て言った?」
「ここで待て、って……街道を見張れって」
「……勝手に動くな」
最後の命令だけ、遅れて思い出したみたいだった。
「そう。隊長が戻るまで待つ」
街道の奥に目を戻す。
山峡街道は、高い崖に挟まれている。レオム隊長は、五キロほど逃げ場がないと言っていた。追われれば、戻るか、奥へ進むかしかない。
嫌な森だった。
そのとき、足元で小さな羽音が変わった。
こぶし大の召喚蜂が、倒木の根からふわりと浮く。
空中でぴたりと止まり、街道の奥へ触角を向けた。
「ねぇ、アッシュ」
またハンスの声が近い。
「今度は何だ」
「僕、おしっこ行きたい」
今か。
振り返ると、ハンスは中腰で、祈るみたいに手を合わせていた。
顔だけは真剣だった。
「ずっと我慢してたんだよ」
「今は駄目だ」
「僕、ちゃんと黙ってたし、頭も下げてた」
「だから褒めろってか」
その瞬間、召喚蜂が俺の足元で急に八の字を描いた。翅の音が細く尖り、耳の奥に引っかかる。
俺は息を止めて、街道の奥を見た。
暗くて何も見えない。けれど、森の底から低い音が押し寄せてきた。
ハンスは中腰のまま固まっていた。
「……ほんとに、来た」
そのとき、街道の反対側の森で、何かがきらりと光った。
「ハンス、伏せろ!」
ハンスは半端に腰を浮かせたまま、目だけをこっちへ向けた。
短い風切り音が藪を裂いた。
ハンスの右肩が跳ねる。
黒い矢羽根のついた矢が突き立っていた。
胸の前で止まっていた手が、力を失って落ちる。
鈍い音が、妙に遅れて聞こえた。
◆
「ハンス!」
叫んだ声より先に、鉄哭関の方角から角笛が鳴った。
俺はハンスの左腕を自分の肩に回し、腰を支えて森の奥へ走った。
矢の刺さった右肩をかばうせいで、ハンスの足は何度も遅れた。
引き寄せるたび、あいつの息が耳元で詰まった。
月明かりの中、召喚蜂が示す方へ進む。
枝の隙間を縫うように飛んでは、少し先で止まる。
俺たちはそのたびに身を低くして、息を殺した。
しばらく進んでから、召喚蜂のまわりを黒い蜂が何匹も飛んでいるのに気づいた。
こいつが呼んだのか、最初から森にいたのかは分からない。
「っ、アッシュ、痛い」
「触るな。抜いたら血が噴く」
左の藪で枝が鳴った。
俺とハンスはその場にしゃがみ込み、息を止める。
その時、ハンスの指が俺の袖を引いた。
「アッシュ」
声はほとんど息だった。
「右、だめ」
右の藪を見る。
何も見えない。
音もしない。
次の瞬間、そこから矢が飛んだ。
一歩でも前へ進んでいたら、俺の喉に刺さっていた。
俺は息を止めたまま、ハンスを見た。
あいつは唇を噛んで、小さく首を振った。
次の瞬間、黒い蜂が二匹、地面すれすれに闇へ滑った。
一匹は倒木の下をくぐり、もう一匹は枝の上へ回る。
すぐ近くで男の声が上がった。
何かを払いのける音がして、枝を踏み折る足音が遠ざかっていく。
まだ待つ。
音が消えてから、俺はようやくハンスを引き起こした。
「……行くぞ」
返事はない。
指の震えが止まらない。
ハンスの足が、さっきから土を擦っている。
踏み出すたびに遅れる。
吐く息は熱いのに、つかんだ手だけが冷えている。
もう長く歩いている。喉が焼ける。
大きな木の下で、召喚蜂が八の字に飛んでいた。
根元は土が盛り上がり、崖の影が濃く落ちている。
少しだけなら、身を隠せそうだった。俺はハンスを木の根元に座らせた。
刺さったままの矢の柄を、根元近くで折る。
荷袋から傷薬と包帯を出す。肩の布を裂くと、ぬるい血が指の間に広がった。
処置の間、ハンスは下を向いて震えていた。
声は上げなかった。
「……アッシュ……ありがと。置いていかないで」
顔色が落ちている。唇の色も薄い。声まで軽かった。
「当たり前だろ」
「……うん。それ、聞きたかった」
しばらくすると、となりからハンスの呼吸だけが聞こえてきた。
浅くて、途切れそうな呼吸だった。眠ったのではない。
気を失ったのだと、すぐに分かった。
召喚蜂は、暗い森の向こうまで飛んでも、すぐ戻ってくる。
俺が呼んだからじゃない。
そもそも、こいつは俺の命令をぜんぜん聞かない。
それなのに、俺が何をしたいのか知っているみたいに動く。
俺は森の奥を見上げた。木の先で、黒い岩肌がまっすぐ立っていた。真上にしか星が見えない。
顔を下げると、召喚蜂が目の前にいた。次の瞬間、八の字を切る。
ハッとして、周りを見回す。遠くに小さな明かりが、ちらちらと動いている。
「ハンス」
声を掛けるが、目を覚まさない。肩を揺すると、包帯の下がまた赤く滲んだ。
脇に腕を入れて引き起こしかける。膝が少し浮いて、すぐ崩れた。
唇を噛んだ。必要だって顔をされるたび、俺は勝手に、できる気でいた。馬鹿だ。
来た方向の森で、ちらちら動く明かりが少しずつ大きくなる。
召喚蜂が、崖下の細い獣道へ飛んだ。
一人なら通れる。ハンスを背負えば、落ちる。
それが分かった瞬間、腹の底が冷えた。置いて逃げれば、ハンスは連れていかれる。
背負って走れば、すぐ追いつかれる。
俺一人で、敵を倒せるか。無理だ。
できないなら、せめて一人にはしない。
「悪い。俺も残る」
俺は腰の短剣を抜いた。柄を握り込む。息が浅い。目を閉じようとして、閉じきれなかった。
刃先が、かすかにぶれた。目を開けると、召喚蜂がもう目の前にいた。
濡れた複眼が、月明かりを細かく割っている。
止めていた息が、勝手に漏れた。こいつとも、ここまでか。
「お前が出た時、うれしかった。……あの時は」
俺は額を膝に押しつけた。膝の下の石が冷たい。
「役に立てば、足りると思ってた」息を吸う。うまく入らない。
「……誰か助けて」
口に出した瞬間、召喚蜂の羽音が止まった。
左手の甲に、針を打ち込まれたみたいな痛みが走った。
召喚蜂に刺された。そう分かった時には、黒い蜜を血管の内側へ流し込まれたみたいに、熱が手の甲から腕へ這い上がった。
肩の骨の下まで入り込んでくる。
短剣を握っていた指から、力が抜けた。落ちた刃が、土の上で小さく鳴る。
周りを飛んでいた蜂の羽音が、一度だけぴたりと揃って止まった。
耳のすぐ横で、女の声がした。
「坊や、わたしが守るわ」
顔を上げる。数歩先で、召喚蜂が金に灼けていた。
黒い胴がほどける。羽がひらき、脚が光の中へ溶けていく。
残った輝きの中心に、女が立っていた。
長い黒髪。黒い衣。
濡れた落ち葉に裾が触れているのに、泥はつかない。
きれいだった。
きれいなのに、近づいたら駄目だと本能が叫んだ。
女は、泣きつかれた子どもを見るみたいに、やわらかく目を細めた。
「わたしは、マイトレーヤよ」
皮膚の下で、さっきの黒い熱がまだ小さく脈を打っている。
「……これが、本当の姿?」
「そうよ。あなたを待っていたわ」
マイトレーヤは微笑んだ。
その視線が、倒れたままのハンスへ落ちる。
「その子はここまで」
「わたしが守るのは、坊やだけだもの」
声が出ない。俺はハンスの肩を抱え直した。
包帯の下で、また血が滲んでいる。軽いはずなのに、持ち上がらない。
腕に力を入れても、ハンスの体は土の上を少し擦っただけだった。
林の奥で枝が鳴った。落ち葉を踏む音が、まっすぐこっちへ寄ってくる。
俺は短剣を拾い直した。刃先が揺れる。
マイトレーヤは歩兵に背を向けたままだった。俺から視線が一度も外れない。
「いたぞ!」
「……アッシュ」
ハンスの目は閉じたままだった。声だけがかすれている。
「置いて、かなかった?」
息が喉にひっかかった。
「俺は、ここにいる」
口を開いた拍子に、頬まで濡れているのに気づいた。
歩兵が木立を割って出た。二人。鉄哭関の兵じゃない。
一人は正面、剣を肩の高さに上げていた。
もう一人は右の倒木を越え、俺たちの横へ回り込もうとしている。
マイトレーヤがやさしく言う。
「最後よ。その子から離れなさい」
俺はハンスを引き寄せて、うずくまった。肩へ顔を押しつける。刃が落ちるなら、まず俺の背中だ。
「離すかよ!」
声が裂けた。
マイトレーヤの袖口から、黒い蜂が二匹、こぼれた。
右の男は倒木を越え、俺の横腹を狙う位置へ足を置いた。
その直前、黒いものが月明かりを横切った。
蜂だった。
一匹は正面の男の胸へ突っ込み、次の瞬間、革鎧の下に黒い穴を開けた。
剣が止まり、血が遅れて噴く。
もう一匹は、右へ回り込んだ男の喉元へ落ちた。
男は声も出せず、膝から崩れた。
短剣を握ったまま、指がほどけない。
「……こんなに、あっけなく」
マイトレーヤが俺の横を通りすぎて、ハンスの前でしゃがむ。
倒れた兵には、一度も目を向けなかった。
「坊やは、今夜、この子を選んだ。でも」
そこでようやく、ハンスの顔を見た。
「今夜この子が死なないのは、わたしがいるからよ」
最後の一言は、俺に向いていた。
俺は膝をついた。足に力が残っていなかった。
マイトレーヤはハンスの顎を指で持ち上げた。首筋を見る。少し黙る。
「暴れたら、首から下を置いていくわよ」
マイトレーヤは矢を根元でつまんだ。ためらいもなく引き抜く。
「っ」
声が出たのは俺の方だった。
ハンスの体がびくっと跳ねて、それきり止まる。
マイトレーヤの指先が針みたいに尖る。次の瞬間には、五本まとめて傷の中へ沈んでいた。
やがて、指がすっと抜ける。血が止まっていた。
裂けた肉の端が、ゆっくり寄る。赤黒かった傷が濡れた線に変わる。裂け目は、確かに閉じていった。
ハンスのまぶたが震えた。「……ん」
俺は這うみたいに近づいて、肩を抱いた。
「ハンス」
目が開く。焦点が揺れる。揺れて、それから俺を見つける。いつもの俺を見る目だ。
「アッシュ……いた」
喉が詰まった。
ハンスが弱く笑う。唇はまだ白い。胸の中で張っていたものが、少しだけほどけた。
俺はハンスを抱きしめた。
その肩越しに、マイトレーヤがこっちを見ていた。目だけは、ぞっとするほどやさしかった。
ハンスが俺の服をつかむ。
「ねえ……おなか、すいた」
いつもの声だった。
笑いそうになって、泣きそうにもなった。どっちもひどい顔になりそうで、口だけ歪んだ。
「こんな時に、それかよ」
ハンスは弱く瞬いた。「……うん」
「馬鹿」
そう言って、俺はハンスの背を支え直した。
ハンスが顔を上げた時、瞳の奥で、金の線がひとすじ走った。金の線は、すぐに消えた。
「その子を助けた分、あとでちゃんと返してもらうわ」
マイトレーヤは微笑んでいた。
その目だけが、笑っていなかった。




