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僕のためって言えば

ハンスの指が、服の端を白くなるまで握り込んだ。


「……行けます」


「白鷺渡河は遠回りだ。移動の速度が要る。夜も動く。川も越える。その足では無理だ」


隊長の声は硬かった。


「でも」


「連れていけば遅れる。遅れれば王都に届かん。届かなければ、王国軍は辺境軍を敵として撃つ」


ハンスの口が閉じた。


服の端を握る指だけが、小さく震えている。


「……分かりました」


その返事を聞いた瞬間、俺は言っていた。


「俺も残ります」


ハンスがこちらを見た。


驚いた顔ではない。

そう言うと思っていた顔だった。


それなのに、目だけが少し痛そうに細くなる。


隊長の目が俺に向く。

隊長の声が低くなる。


「理由は」


少しだけ、言葉が詰まった。


水車の音に混じって、どこかで羽音がした気がした。

ハンスが俺を見ている。


「ハンスを置いていけません」


言ったあとで、ハンスの顔が少し歪んだ。


自分の名前が理由にされた時の顔だった。


隊長はしばらく俺を見た。


「それだけか」


水車が回る。

床板が震える。


「……それだけじゃありません」


俺は地図を見た。


村。

祠。

水車小屋。

カルザグ。

前線。


全部がまだ、頭の中でうまく並ばない。


それでも言う。


「帝国兵が戻れば、この村は危ない。ミアも、ハンスも隠せなくなる。ここが潰れたら、俺たちの逃げ道もなくなる」


隊長は黙って聞いている。


「残るなら、村の中で動ける目が要ります。俺の蜂なら、少しは見張れます」


言いながら、自分でも分かっていた。


半分は理屈だ。

半分は、ハンスのそばに残りたいだけだ。


隊長の目は、それを見抜いていた。


「残るなら、勝手に動くな」


「……はい」


隊長は最後に、声を落とした。


「ハンスのためだけで残るな」


隊長の目は俺から逸れない。


「お前が捕まれば、王国側の情報も漏れる。ベルタの村も巻き込む」


「……分かっています」


「分かっているなら、余計なことをするな」


返事が、少し遅れた。


「……了解」


隊長はそれ以上、待たなかった。


「アッシュとハンスは残す。ザック、ドルク、俺は白鷺渡河へ向かう」


「了解っス」


ザックが短く答える。


ドルクも頷いた。


隊長はそこで、ミアへ目を向けた。

それからベルタを見る。


「もう一つある。この娘を預かれ」


ベルタの視線がミアへ移る。


「猫人の娘か」


「帝国側に顔を知られている」


ミアの肩がわずかに強ばる。


「働かせるなり隠すなり、そちらで決めろ」


ベルタはミアを上から下まで見た。

それから、自分の角の根元の布紐を指で直す。


「働けるか」


ミアは少しだけ顎を上げる。


「お姫様じゃないわ。見ればわかるでしょ。そこのどんくさい金髪よりは役に立つわよ」


突然の被弾に、ハンスが少しだけ口を尖らせた。


ベルタは笑った。


「まずは、体を洗え。着替えと靴も用意する」


それから、ミアの足元を見た。


「お姫様用じゃないけどな」


ミアはすぐには返事をしなかった。


ただ、伏せていた耳がほんの少し戻った。


水車小屋を出るころには、空の色が少し傾いていた。


レオム隊長たちは、すぐに出る準備を始めた。


ザックは通信魔具を布で包み直し、ドルクは槍の留め具を締める。


隊長は最後に俺の前で止まった。


「一週間だ」


「はい」


隊長はハンスを見る。

それから、俺の肩の近くを飛ぶ召喚蜂を見た。


「この村で動ける目は、今のところお前の蜂だけだ」


俺は答えなかった。


「村の出入りを見ろ。帝国兵が戻るなら、先に気づけ。それがお前の任務だ」


隊長の目が、俺に戻る。


「ベルタに指示を仰げ。勝手に動くな。ハンスを巻き込むな」


「……了解」


隊長は一度だけ、短く息を吐いた。


「ハンスの足が治るまで、ここを守れ」


返事より先に、何かが胸の奥に落ちた。


「……はい」


隊長はそれだけ言って、背を向けた。


ザックが俺の横を通る時、軽く手を上げた。


「無茶すんな、って言っても無駄っスよね」


ザックは笑った。

目は笑っていなかった。


「無駄だと思うなら言うな」

「言わないと、あとでこっちの寝覚めが悪いっス」


ドルクは隊長の後を追おうとして、足を止めた。


俺を一度見る。


「隊長は言わんが」


低い声だった。


「お前とハンスは、もう隊の外じゃない」


返す言葉が、すぐに出なかった。


ドルクは林の奥へ目をやる。

レオム隊長とザックの背中は、もう木々の影に半分沈んでいた。


「置いていくために預けるんじゃない」


「……はい」


「俺たちが戻るまで、生き残れ。それが今のお前らの任務だ」


それから、ほんの少しだけ口元を歪めた。


「二人とも、戦場に来て変わったな」


「いいことですか」


「知らん」


ドルクは短く言った。


「だが、悪い顔じゃない」


それだけ言って、隊長の後を追った。


枝が揺れ、しばらくして、その音も水車の音に混じった。

革帯の擦れる音が最後に消えた。


それからは、水車と、俺自身の呼吸だけが残った。

体の中が、急に広くなりすぎた感じがした。


ハンスは俺の隣に立ったままだった。足をかばっているせいで、体が少し傾いている。


「……残らなくてよかったのに」


声は小さかった。俺は林の奥を見たまま答える。


「残る」


ハンスの指が、服の布を少し引いた。


「僕が残るから、アッシュも残るんでしょ」


返事が遅れた。


水車が回る。濡れた木の軋む音が、一度大きくなった。


「おまえを一人にできない」

「一人じゃないよ。ミアもいる。ベルタさんもいる」


ハンスはそこで一度、息を止めた。


言ってから、自分でも少し強すぎたと思ったのか、目を伏せる。

それでも、続けた。


「僕のためって言えば、僕に聞かなくていいの」


俺はハンスの方を見た。


「聞いてたら、間に合わない時がある」


ハンスの顔が、少しだけ歪んだ。


「そういうところだよ」


弱い声だった。

けれど、逃げる声ではなかった。


「助けてくれるのは分かってる。でも、僕が嫌がることまで、先に決めないで」


返す言葉が出なかった。


大丈夫だ、は違う。

守る、も違う。


ここで言えば、また同じ場所を踏む。


ハンスは林の奥を見た。

隊長たちはもう見えない。


「……置いていかれるのは嫌だった」


小さく言ってから、ハンスは唇を噛んだ。


「でも、僕のせいで残られるのも嫌だ」


水車の音だけが続いた。


俺はようやく言った。


「それでも残る」


ハンスは笑わなかった。


「うん」


その返事を聞いても、足りなかった。


「ミアを信じすぎるな」


ハンスが俺を見る。


すぐには意味が届かなかったみたいに、目だけが少し遅れて見開かれた。


「ベルタもだ。あいつらは、おまえを守るためにいるわけじゃない」

「……アッシュ」

「俺は違う」


言ってから、自分の声が硬すぎたことに気づいた。


「俺は、おまえを守る」


ハンスは何も返さなかった。服の端を握っていた指が、ゆっくり離れる。

水車の音だけが続いた。戸口の方で、床板が小さく鳴った。

ベルタが水車小屋の戸口にもたれている。


「お前たちは、夜までここにいろ。後で呼びにくる」


そう言ってから、俺の肩のあたりを見る。いや、肩ではない。

俺の近くを飛ぶ召喚蜂を見ていた。


ベルタの目が、ほんの少し細くなる。


「その蜂は、おまえのか」

「ああ。俺の召喚獣だ」

「村では、あまり見せるな」

「なぜだ」


ベルタはすぐには答えなかった。水車が回る。羽板に当たった水が、白く跳ねる。


「ここでは、蜂をただの虫として見ない者がいる」


それだけ言って、ベルタは水車小屋の戸口を離れた。


外に出る前に、もう一度だけ召喚蜂を見た。

黒い影が、床を横切る。


『だそうよ』


俺が振り向く前に、蜂は水車小屋の暗がりへ戻っていく。

ハンスは、俺の首筋を見ていた。それから、蜂が消えた暗がりへ目を移す。

水車の音が、さっきより近く聞こえた。


俺は何も言わず、戸口の方を見た。

出るなと言われた場所から、外の光だけが見えていた。










――――

あとがき


ここまで読んでくださってありがとうございます。

感想をもらえると嬉しいです。

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