アッシュを変えないで
翌朝、俺とハンス、ミアの三人は、広場から少し離れた納屋に身を隠していた。
古い粉の匂いが、鼻の奥にへばりつく。
壁際には使い古された粉袋が積まれ、床には白い粉が薄く散っていた。
足元をずらすたびに、粉と土が混ざった匂いが立つ。
こんな時に限って、その匂いだけは腹に来る。
胃の方は、相変わらず何も受け入れる気がなさそうだった。
ハンスは粉袋を重ねた上に横になっていた。顔色はまだ悪い。
足首には布が巻かれ、右肩をかばって、上体を少し横へ逃がしている。
ミアは、その近くで布を絞っていた。水の入った桶の横に、畳んだ布が置かれている。
水が滴る音が、静かな納屋に小さく響いた。
「その水、替えるか?」
俺が聞くと、ミアは桶の中を見て、小さく頷いた。
「私が行く」
「いい。おまえはハンスを見てろ」
ミアの耳が少しだけ伏せる。
「命令されると、ものすごく働く気がなくなるわね」
「じゃあ、働く気になる言い方を教えろ」
「まず、その顔をやめる」
面倒な返しだった。だが、言い返す時間も惜しい。
納屋の隅にあった木桶を取る。木の持ち手が乾いてざらついた。
戸を細く開けると、朝の広場にはまだ夜の冷たい湿り気が残っていた。
祠の前には村人が並んでいて、井戸は広場の反対側にある。
土壁の家の影が、祠の前まで長く伸びていた。
村人たちは顔を伏せ、手を胸の前で組んでいた。
濡れた土のくぼみに、祠の白い布が細く映っている。風が吹くたび、本物の布は揺れ、水たまりの中の白も遅れて揺れた。
俺は顔を伏せ、村人の列の端を回って井戸へ向かった。
その時、肩の横で羽音がした。襟の内に入れていたのに、また勝手に出ている。
こいつには、隠れるという考えがないらしい。
「戻れ」
小さく言ったが、蜂は俺の肩の横で羽を鳴らした。
朝の光が、蜂の翅に乗った。薄い金色が一瞬だけ弾け、すぐ黒い羽音に戻る。
祠の列の端にいた子どもが、ふと顔を上げた。
その目が、俺の肩のあたりを飛ぶ蜂を追う。
隣の年寄りの女が、それに気づいた。
子どもの肩に手を置く。叱るのかと思ったが、違った。
女は子どもの視線をたどり、蜂の方へ、ゆっくりと頭を下げた。
子どもも、それにならった。
顔を伏せた女は、動かない。
子どもも同じ姿勢のまま、息をひそめている。
隣の男が、その様子に気づいた。少し遅れて、男も頭を下げた。
俺は、しばらくその場から動けなかった。
蜂に頭を下げている。
そう思いたかった。
けれど、その礼の先に、俺も含まれている気がした。
肩の横で、羽音が低くなる。
◆ハンス
アッシュが出て行って戸が閉まると、納屋の中は少し暗くなった。
僕は、さっきまでアッシュが立っていた場所を見ていた。
首筋の傷が、まだ目に残っている。
細い傷なのに、ただの赤じゃない。嫌な色だった。
「見てたの」
ミアが聞いた。
「うん」
「首?」
僕は頷いた。
ミアは畳んだ布を一枚、膝の上に広げた。
「替える?」
僕は足首の布を見た。
皮膚の下で嫌な熱を持っているのが分かった。足先は冷えているのに、巻かれた場所だけが重い。
「うん」
ミアは僕の足元へ膝をついた。
「痛い?」
「少し」
「少しじゃない時も、少しって言う」
「アッシュみたい?」
ミアの手が止まった。
「少し」
僕は、壁にもたれたまま笑いかけた。でも、頬がこわばって、うまく笑えなかった。
納屋の外では、祠の方から低い祈りの声が聞こえている。壁板の隙間から、伏せた人影が少しだけ見えた。
ミアは僕の足首に触れながら、耳だけを戸口の方へ向けていた。
冷たい指先が、熱を持った足首に触れる。触れられるたび、足先が少しだけ逃げようとする。でも、ミアの手は逃がさない。乱暴ではないのに、慣れていた。
「何か聞こえるの?」
少し間があった。
「祈りの言葉」
昨日、アッシュは言った。ミアを信じすぎるな。ベルタもだ。俺は違う、と。その通りにしたら、僕は何も聞けなくなる。
「ミア」
「なに」
「この村の祈り、近くで聞いてもいい?」
ミアの耳が、ぴくりと動いた。
「なんで」
「意味を知りたい」
ミアはしばらく僕を見ていた。
「アッシュに怒られるのは私じゃないわよ」
「僕が言う」
「言えるなら、少しは信用する」
そう言って、ミアは手にしていた布を桶の中へ戻し、右肩に触れないようにして、僕の左腕を取った。
納屋の戸口から外へ出ると、朝の広場はまだ濡れていた。土と草の青い匂いがする。
祠の前には、顔を伏せた人たちが並んでいる。
祠の白い布には水の粒がついていて、風が吹くたびに小さく光った。
ミアは、列には入らず、祠の脇の柱の影で止まった。低い声が漏れてきた。
老人の声だった。続いて、別の声が重なる。
「聖妃メッテイヤよ」
ミアの耳が動いた。
「王座のかたわらに立ち、世の歪みを見抜いた方よ」
「……うちの村でも、同じのを唱えてた」
ミアは、祠の戸口を見たまま言った。声は続いている。
「閉ざされた戸の内を知り、語られぬ嘘に名を与えた方よ」
ミアの指が、僕の腕を少し強く握った。
「千年の後、ふたたび境を越えて来たれ」
僕は、祠を見る。
「メッテイヤって、女神じゃないの」
「村では、そう言ってた」
「今は、聖妃って言った」
ミアは眉を寄せた。
「古い文句だと思う」
祠の中で、別の声が続く。
「正しき者には導きを」
誰かが息を吸う音がした。
「偽る者には、おのれの姿を返したまえ」
声が途切れた。
祠の前に立っていた老人が、ゆっくり頭を下げる。周りの村人も、それに合わせた。
ミアは動かなかった。唇を少し噛んでいる。
「ミア」
「なに」
「王座って、誰の」
「知らない」
「でも、唱えてたんだよね」
「意味なんて、考えた事なかったわ」
ミアはそう言って、納屋の方を見た。
「戻る?」
僕は、ベルタの姿を探した。
「ベルタに、話を聞きたい」
ミアは僕の足元を見た。
「じゃあ、ゆっくり」
ミアの手を借りて、僕は祠の柱から離れた。一歩目で、足首の布の下が熱くなる。
二歩目で、膝が少し落ちた。ミアは何も言わなかった。ただ、僕の腕を支える手に力を入れた。
細い腕のどこにそんな力があるのかと思うくらい、しっかりとした引きだった。
ベルタは、水車小屋の前で粉袋を積み直していた。
袋を一つ持ち上げ、木箱の上へ置く。粉が少し舞って、ベルタの腕に白くついた。
僕が近づくと、ベルタは手を止めた。
「あの坊主はどうした」
「井戸の方にいると思う」
ミアが短く答える。
僕は息を整えた。足首より、胸の方が詰まっている。
「……聞きたいことがあって」
ベルタは粉のついた手を腰布でぬぐった。
「聖妃が立つ王座って、誰の王座なの」
ベルタの手が、粉袋の上で止まった。
水車が回る。羽板に当たった水が白く跳ねて、小屋の壁に細かい水を散らした。
頬に冷たい飛沫が当たる。ベルタは角の根元の布紐を、指で一度だけ直す。
それから、低く言った。
「ザルガドの、最初の王さ」
ミアの耳がぴくりと動いた。
ベルタはそれ以上言わなかった。
◆
その夜、僕は眠れなかった。納屋の中は、昼より粉の匂いが濃かった。
壁際の袋は影になり、折れた農具の柄だけが、入口から差す月の光を受けて白く見えた。
納屋の隅で、アッシュは壁に背を預けて目を閉じている。
眠っているのか、眠っていないのか分からない。
でも、僕が身じろぎしても、目は開かなかった。
僕は、音を立てないように立ち上がり、外に出た。
足首はまだ痛んだ。布で巻いてあるから、歩けないことはない。
戸口の段差に足を下ろすと、巻いた布の下で骨に鈍く響いた。息が少し浅くなる。
水車の音が、暗がりの中で回っている。昼間より、重い音が近く聞こえた。
その音に混じって、羽音がした。
蜂が、一匹。
僕の前の暗がりで、宙に止まった。
『坊やの傍を離れるなんて、めずらしいわね』
声がした。耳の奥に直接、女の声が落ちる。
「……何の用」
『お礼を言われた覚えがないと思って』
声は、笑っていた。水車の音が、少しだけ遠くなる。暗がりの中に、黒い影が立つ。
耳の奥ではなく、今度は目の前から声がした。
長い髪。白い肌。黒い衣。
笑っていた。
怒っているわけでも、急いでいるわけでもない。ただ、笑っていた。水車がこれだけうるさいのに、その音だけが届かない場所に立っているみたいだった。
こんな夜に、笑える顔を持っている。それが一番怖かった。
「アッシュを変えないで」
言ってから、自分の声が震えているのに気づいた。指先が、服の脇を汗ばむほど強くつかんでいた。マイトレーヤは、首をかしげた。
「どうして? 私は、あの子を大事にしているのよ」
大事にしているものを、手放す顔ではなかった。
「あの子は、私の巣主。私の坊や。いい子なの」
「アッシュは、巣じゃない」
「あら」
マイトレーヤは、楽しそうに目を細めた。
「あなたも、同じところで怒るのね」
いい子。坊や。巣主。
その言葉の中に、黒パンを半分くれたアッシュはいなかった。
殴られて顔を血だらけにして、それでも笑って、離れるなと言ったアッシュはいなかった。
マイトレーヤは、僕の方へ一歩、近づいた。水車の音が、さらに遠くなる。
「あなたの傷にも、まだ私の毒が残っているわ」
爪の先が、右肩の傷のあたりに触れる。布越しなのに、氷のように冷たかった。
肩の奥が、体の内側から冷えていく。
「あなたの中に、貸したままのものが、あるのよ」
それだけ言って、影はほどけた。
あとには、蜂が一匹。低い羽音を立てて、納屋の方へ、アッシュのもとへ戻っていく。僕は、その場に立ち尽くした。
あの女がアッシュを連れていこうとするなら、僕が引き止める。
折れたら、終わりだ。僕は、納屋へ戻った。
戸口をくぐる時、巻いた足首がまた痛んだ。でも、さっきより歩幅は小さくならなかった。
◆アッシュ
次の朝、ハンスの様子がおかしかった。膝の上に置いた手が、昨日より固く握られている。俺を見る目が、昨日までと違う。
「ハンス」
「なに」
昨日、ベルタのところから戻ったハンスの顔で、何か聞いたのは分かっていた。
「昨日、ベルタと何を話した」
ハンスの肩が、わずかに跳ねた。それから、まっすぐ俺を見た。
「メッテイヤ教について、聞いた」
頭の奥が冷えた。
「お前が首を突っ込むことじゃない」
「アッシュが教えてくれないからでしょ」
声が出なかった。ハンスを止めるのは、いつも俺の役だ。
頭を下げてろ。離れるな。俺の後ろにいろ。
俺がいなくちゃハンスは困る。そう思った自分が、嫌だった。
「……俺は、お前を守りたい」
言ってから、間違えたと分かった。ハンスの顔が、少し歪む。
「そういうところだよ」
「何が」
「怪我してるし、走れない。足手まといなのも分かってる」
ハンスは膝の上の手を握った。
「でも、何も知らないまま守られるのは嫌だ」
俺は何も言えなかった。肩の横で、蜂が低く鳴った。
ハンスは蜂を見た。
蜂に向かって。
でも、俺に聞かせるみたいに。
「アッシュを、返す気ないの?」
返す? 何を言っているんだ。
「アッシュは、僕の大事な友達だ」
前なら、たぶんそれだけでよかった。
でも今は、その言葉の置き場所が分からなかった。
ハンスは、俺の方を見た。
「みんなが何て呼んでも」
膝の上の手が、少し震えていた。
「僕は、アッシュって呼ぶ」
息が止まった。
「……そうか」
そう返すのが、精一杯だった。
ハンスは、笑わなかった。
納屋の隅に、マイトレーヤが立っていた。
肩の横にいたはずの蜂は、もういない。
いつからそこにいたのか分からない。
マイトレーヤは、口元だけで笑った。
「かわいいわね」
ハンスが、息を飲んだ。
俺も、すぐには動けなかった。
それが俺に向けられたのか。
ハンスに向けられたのか。
最後まで、分からなかった。




