後ろから撃つな
昼に近づくころ、林の中の影が足元へ短く縮んだ。
先頭のレオム隊長が手を上げる。
枯れ葉を踏む足音が、一斉に止まった。
枝の隙間から、斜面の下が見えた。
村がある。
家は三十ほど。土壁の家が低い屋根を寄せ合い、中央に広場がある。広場の奥には祠。外れには、川へ向かう細い道が一本伸びていた。
畑では、麦が刈られたあとだった。
煙は少ない。
昼前なら煮炊きの匂いが上がっていてもよさそうなのに、風が運んでくるのは乾いた土と埃の匂いだけだった。
広場では、人が動いていた。
空の籠を抱えた者。
布で包んだ荷を足元に置く者。
周囲の顔色をうかがいながら、祠の戸口へ荷を運ぶ者。
小さな祠だった。
それなのに、村で一番、人の足が集まっていた。
その祠の前で、ひときわ大きな女が立っていた。
遠目でも、村人より頭一つ高い。
白い巫女布を肩から掛けている。
けれど、その袖から出た腕は丸太のように太かった。額からは二本の角が伸びている。
女は広場の端に置かれた籠を一つ持ち上げた。
片手で底を確かめ、中を覗く。
それから、隣にいた若い男へ顎を振った。
男は頷き、籠を抱えて祠の裏へ回っていく。
女は次の籠へ手を伸ばす。
祈りを捧げる巫女というより、荷と人の流れを数えている者の動きだった。
「あれがベルタか」
ドルクが低く言った。
レオム隊長は広場から目を離さない。
村の中にいるのは獣人ばかりだった。
猫人。
犬人。
毛深い腕の男。
角のある老人。
俺たちの顔も耳も、隠しようがない。
隊長の目がミアへ向いた。
「お前なら入れるか」
ミアは小さく息を吸う。
「行ける。見える範囲には、帝国兵はいない」
「伝えろ。ローデル王国軍アルヴェインの使いが来た。ベルタに会いたい」
「アルヴェイン。名前を出せば分かるの?」
「分かるように話は通してある」
ミアは林を出た。
村の端を歩いても、誰も大きく振り返らない。
猫人の娘が一人増えたところで、広場の流れは変わらなかった。
ベルタだけが、途中でミアに気づいた。
籠を持ち上げかけていた手が止まる。
二本の角が、こちらへ少し向いた。
その視線が林の影まで届いたように見えた。
「見えてるっスね」
ザックが言った。
「だろうな」
隊長は短く返す。
広場では、ミアがベルタに何かを言った。
ベルタが頷く。
口元だけが動き、ミアはすぐに顔を上げた。
二言、三言。
それだけで足を返す。
村の端まで戻ってくるころには、ベルタはもう別の籠を手に取っていた。
何事もなかったように、広場の流れが戻っている。
ミアは林に入るなり、声を落として言った。
「水車小屋で会うって」
ザックは村外れの川筋へ目をやった。
上流のどこかで水が落ちる音が、風に混じってかすかに届く。
「用心してるっスね」
レオム隊長は頷いた。
「行くぞ」
水車小屋は、村外れを流れる細い川のそばにあった。
川幅は狭い。
けれど流れは速く、水車の羽板に当たるたび、濁った水が白く跳ねた。
跳ねた水は一瞬だけ光を拾い、すぐ川へ戻っていく。
小屋の壁には古い粉がこびりついている。
中は狭かった。
カビと古い麦の混じった匂いがこもっている。壁際には粉袋が積まれている。いくつかは口を縛られ、いくつかは中身を抜かれたまま折り畳まれていた。
中央には低い木箱が二つ置かれ、その上に地図が乗っている。
油皿の光が、地図に描かれた川筋の上で細く揺れていた。
水車が回るたびに、足元の床板が小さく震える。
声を落とせば、外までは届かない。
戸口に、ベルタが立っていた。
近くで見ると、さらに大きい。
肩幅も腕も、巫女布の中に収まりきっていない。二本の角は額からまっすぐ伸び、根元には布紐が巻かれていた。
巫女布の袖には、白い粉が薄くついている。
指にも粉が残っていた。荷を運び、地図を押さえ、祈りの列までさばいてきた手だった。
ハンスが俺の少し後ろで、ぽつりと言った。
「……すごい角」
水車の音の中で、それだけは妙にはっきり聞こえた。
俺は慌ててハンスの頭を下げさせる。
首根っこを押さえると、服越しにハンスの肩が少し縮んだ。
「馬鹿。かち割られるから黙ってろ」
ベルタは歯を見せて笑った。
「いいだろう!」
声が大きい。
ベルタは自分の角の根元を指で叩く。
こつん、と硬い音がした。
「父方の血だ。帝国兵の兜を二つ割ったことがある」
「……巫女が言っていいの?」
ハンスが小さく聞く。
ベルタはさらに笑った。
「祈る前に、生き残らなきゃならんのでな」
その顔のまま、ベルタはレオム隊長へ向いた。
笑みは残っている。
けれど、目だけがハンスから地図へ移っていた。
「で、王国軍はどこまで呑む」
隊長は木箱の前に立った。
「俺は、斥候隊のレオムだ。先に、お前たちが何をしようとしているのか聞く」
「レオムか。わかった。何が知りたい?」
ベルタは地図の端を指で押さえた。
羊皮紙が擦れる音がする。
地図の中央には、大きな都市の印があった。
隊長はその印を見た。
「この国が帝国に落ちたのはいつだ」
「半年前だ。首都カルザグが落ちた」
ベルタの太い指が、その印を叩く。
「王城、城門、記録所は押さえられた。首都の権力者どもは、そこで割れた」
「帝国派か」
「そうだ。帝国に頭を下げれば地位を残すと言われた連中がいる。倉庫を任され、名簿を任され、徴発を任された」
ベルタの声が少し低くなる。
「だが、その時点ではまだ終わっていなかった。辺境の軍と氏族は抵抗していた。カルザグの外では、帝国兵を通さない土地もあった」
「弾圧は」
ドルクが聞く。
「ある。表で声を上げれば捕まる。名簿に名前を書かれれば、家族を取られる」
ベルタの指が、地図の上で止まった。
「だから皆、祈りの列に紛れる」
「祈りの列?」
俺が聞くと、ベルタは俺を見た。
「メッテイヤ教だ。祠に集まる。祈る。施しを受ける。巡礼に出る」
「それだけなら、帝国兵も見逃すんスね」
ザックが言うと、ベルタは少しだけ笑った。
「見逃すんじゃない。数えるんだ」
地図の端を押さえる指に、少しだけ力が入る。
「誰が来たか。誰が来なくなったか。腹を空かせた者の名前は、よく残る」
ハンスの指が、服の端を握った。
「……祈ってるのは、嘘なの?」
ベルタの目が、そこで初めてハンスへ向いた。
「嘘じゃない。そこを間違えるな」
声が低くなった。
「祈りは本物だ。だから使える」
ハンスは少しだけ黙った。
「……本物だから、使うの?」
「そうだ」
ベルタは表情を変えない。
「女神メッテイヤは長い眠りから戻り、民を救う。そういう言い伝えがある」
「信じているのか」
隊長が聞く。
ベルタは少しだけ口の端を上げた。
「信じている者はいる。信じたい者もいる。信じなければ立っていられん者もいる」
ベルタは地図の端を押さえたまま続けた。
「祠は、祈るだけの場所じゃない。施しに混ぜて物を動かす。巡礼に紛れて人を動かす。葬列なら、帝国兵も荷を改めにくい」
ミアの耳が動いた。
ザックが目を細めた。
「祈りを兵站にしてるんスね」
「帝国が暮らしを兵站にした。なら、こっちは祈りを兵站にする」
「反乱軍だからな」
俺が言うと、ベルタは俺を見た。
「そうだ。だからきれいな理屈だけでは腹は膨れん」
ザックは肩をすくめた。
「神様も忙しいっスね」
「暇な神なら、とっくに帝国に雇われてる」
隊長が地図のカルザグを見下ろす。
「辺境はまだ抵抗していた。なら、なぜ今になって急ぐ」
「一か月前、首都の帝国派が、ザルガド政府の名で帝国と停戦した」
ベルタは地図の端を押さえる粉袋を、指で少しずらした。
ざらり、と重い音がする。
「表向きは戦後復興だ。橋を直す。倉庫を建て直す。食糧を配る。そういう名で帝国の役人が入ってきた」
水車が重く回る。
床板が小さく震えた。
「復興って、いいことじゃないの」
ハンスが小さく言った。
ベルタは笑わなかった。
「いいことだ。橋は直る。倉庫も建つ。粥も配られる」
そこで、地図の首都を指で叩いた。
「誰が橋を通ったか。誰が倉庫に来たか。誰が粥を受け取ったか。全部、名前が残る」
俺は、孤児院の黒パンを思い出した。
食った分は、いつか体で返す。
あそこにも、名簿があった。
口の中に、古い麦の味が蘇る。
「復興支援の名で、首輪を配ったわけか」
隊長が言った。
ベルタは頷く。
「首都の帝国派は、それに乗った。邪魔なのは辺境軍だ。帝国に従わず、反乱が起きればこちら側に回る兵だからな」
「それで王国戦線へ送ったのか」
「命令書には、ザルガド政府の印が押されている。だが書いたのは帝国派だ」
「証拠は」
「命令を運んだ者を、一人押さえている。写しもある」
ベルタの指が、カルザグから王国側の前線へ滑る。
「勝つためじゃない。削るためだ」
ハンスが小さく言った。
「……味方を?」
ベルタはハンスを見た。
「帝国派にとって、辺境軍は味方じゃない。いつか自分たちに槍を向ける兵だ」
指先が前線の印で止まる。
「このまま王国とやり合えば、辺境軍は削れる。生き残っても、ばらされる。隊を割られ、頭をすげ替えられる」
「反乱の戦力が消えるな」
隊長が言った。
「ああ。だから急ぐ」
ベルタは地図のカルザグをもう一度叩いた。
「首都の中には、まだ動ける者がいる。外には、まだ踵を返せる辺境軍がいる。だが長くはもたん」
水車の音に、粉袋の擦れる音が混じった。
「七日後、最後の辺境軍がカルザグの近くを通る。だが、数は少ない。だから、前線の辺境軍もその日に動く」
「それを王国軍に撃たれると困るというわけか」
「困るどころじゃない」
ベルタは隊長を見た。
「前線の辺境軍が反乱の主力だ」
小屋の中で、誰もすぐには返事をしなかった。水車だけが重い音を立てて回っている。
俺は地図を見た。
カルザグも、前線も、辺境軍も、遠い。
けれど帝国兵がこの村へ戻るなら、話は別だった。
この村が潰れれば、ハンスを寝かせる場所も消える。
ミアを隠す場所も消える。
国の形なんか分からない。
でも、その火がハンスの寝床まで来るなら、止めるしかない。
ハンスが、小さく口を開いた。
「じゃあ、前線の辺境軍が本気でローデル軍と戦わなければいいんじゃないの?」
レオム隊長がハンスを見た。
答えたのはベルタだった。
「子どもの答えだな」
ハンスの肩が小さく跳ねる。
「悪い意味じゃない。まだ、味方って言葉を信じてる」
ベルタは前線の印を押さえた。
「指揮官は帝国派に替えられている。命令に逆らえば、臆病者では済まん。裏切りだ。家族を首都に置いている兵もいる。退けば、先に家が燃える」
「……味方なのに」
「味方という札が貼ってあるだけだ。檻にも札は貼れる」
隊長の指が、前線の印を押さえた。
「それに、ローデル軍から見れば、向こうは敵だ。手を抜いているかどうかなど分からん。攻められれば、撃ち返す」
ハンスは地図を見た。
前線の印から、カルザグへ戻る線を目で追う。
「……だから、王都から止めないといけない」
「ああ」
ベルタが低く言った。
「王国には何を求める」
「簡単だ」
ベルタは隊長を見る。
「後ろから撃つな」
その声だけは、水車の音にも紛れなかった。
「共闘しろとは言わん。反転する辺境軍を撃つな。それだけでいい」
俺は思わず言った。
「それを王都に通せって? じゃあ、もっとまともな理屈を用意しろ」
ベルタの視線が俺へ向く。
「まともな理屈なら、そこに転がっている」
ベルタは粉のついた指で、地図の前線を押さえた。
「王国軍が辺境軍を潰せば、帝国派が喜ぶ。帝国が得をする。王国は、敵の片棒を担ぐことになる」
隊長は黙っていた。
ベルタは続ける。
「それに、前線の辺境軍が戻れば、帝国は背中を刺される。王国にとっても悪い話ではない」
「最初からそれを言えよ」
「お前が急いで噛みついたんだろう」
ベルタは短く返した。
会議の空気は軽くならない。
ただ、少しだけ呼吸できる場所ができた。
ベルタの指が、前線の印を押さえる。
「王国があれを潰せば、カルザグは落ちない。俺たちも終わる」
「それを王都へ持ち帰れと?」
「そうだ」
隊長は黙った。
ザックが懐から通信魔具を少しだけ出す。
「これで済む話じゃないっスか」
隊長は首を振る。
「王都までは届かん。砦を中継にする前提の魔具だ」
「それに」
ベルタが言う。
「漏れれば反乱は潰れる」
隊長はベルタを見た。
「背後から撃たない約束は、俺一人の返事では済まん。王都へ戻る」
「来た道は使えんぞ」
ドルクが指摘した。
「ああ」
隊長の指が地図の南をなぞった。
「山越えで、白鷺渡河を使う」
ザックの顔が渋くなる。
「遠いっスね」
「通常は六日、俺たちなら…」
「四日だろう」
ドルクが低く言った。
「雨が来れば渡れん」
「だから急ぐ」
隊長は地図から顔を上げた。
「王都まで届けばいい。王城からなら、砦を中継して前線へ命令を飛ばせる」
隊長は前線の印を見た。
「ぎりぎりだが、間に合わせる」
「王都が呑んだかどうかは、どう知る」
ベルタが聞いた。
隊長はすぐには答えなかった。地図の前線を見て、指を止める。
「砦から合図を出す」
「どんな」
「四日後の正午までにローデル側の砦が砲撃を止める。南塔に赤布を二枚掲げる」
「それが、背中を撃たない合図か」
「ああ」
ベルタは少しだけ目を細めた。
地図の前線の印を、指先で押さえる。
「正午を過ぎても旗がなければ」
「俺が間に合わなかったと思え」
隊長は、ベルタの視線を受けたまま答えた。
ベルタは、前線の印から指を離さなかった。
「わかった」
「前線の辺境軍には、どう伝える」
隊長が聞くと、ベルタは地図の端を押さえた。
「補給に入っている者がいる」
「兵ではなく、補給か」
「前線は腹と荷で動く。施しの荷は、粥鍋まで届くんだ」
ベルタは王国戦線の印を指で押さえた。
「矢束、干し肉、水樽、馬の飼葉。そこを運ぶ者の中に、俺たちの仲間がいる。そいつらが口で伝える」
「内容は」
「南塔に赤布が二枚上がれば、四日後の夜、反帝国派は動く。旗がなければ、主力は残る。抜けられる小隊だけが五日目から抜ける」
「中止ではないのか」
「もう中止にできる段階じゃない。首都近くの合流地まで二日かかる」
ベルタは、カルザグの印を叩いた。
「旗がなければ、首都を取る作戦から、帝国の手足を折る作戦に切り替える。記録所、徴兵所、倉庫。燃やす場所は決めてある」
そこで、ようやく話が形になった。
隊長は四日目には王都に戻らなくてはいけない。
王都が呑めば、砦は正午に砲撃を止め、南塔へ赤布を二枚上げる。
旗が上がれば、前線の辺境軍は反転する。
旗が上がらなければ、反乱軍は首都を取るのを諦め、帝国の手足だけを焼く。
遅れれば、誰かが死ぬ。
王国軍が辺境軍を撃てば、辺境軍は戻れない。
帝国派が残る。
帝国兵が村へ戻る。
そうなれば、ハンスもミアもここには隠せない。
地図の上の線が、急にハンスの足元まで伸びてきた気がした。
隊長の目が、ハンスへ向いた。
その視線だけで、言われることが分かった。
「ハンスは残す」
――――
あとがき
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