第9話 法廷の花
王立裁判所は、王都の中央広場に面した石造りの建物だった。
柱の一本一本に歴代の法典の引用が刻まれ、入口の上には天秤を持つ女神の彫刻がある。
ここでは、身分も財産も関係ない──法だけが支配する。
少なくとも、そういう建前になっている。
だが建前であっても、法の前に立てるということは、声を上げる場所があるということだ。
「イルマ・フォン・ヴァイスブルク公爵夫人、入廷を許可する」
書記官の声に促され、私は法廷の中央に進み出た。
足取りは静かだったが、心臓は早鐘を打っていた。
向かいの席に、オスヴァルトがいた。
社交界用の正装を着ているが、目の下に隈があり、頬がこけている。
この数週間で、明らかに痩せた。
隣にエルザが座っている。
亜麻色の髪に空色の瞳──リタの面差しの原型がそこにあった。
整った顔立ちだが、表情に落ち着きがない。視線が法廷の中を忙しなく動いている。
傍聴席には、義母のヒルデガルト夫人が杖を握りしめて座っていた。
隣には、実家の兄の姿。目が合うと、兄は小さく頷いた。
「本件は、ヴァイスブルク公爵家における離縁申立および監護権争議である」
裁判長が宣言した。
白髪の老齢の男性で、声に権威があった。
弁論士ヨハンは白髪の老紳士で、杖を使わずに立ち上がった。
80歳を超えているが、背筋は真っ直ぐで、声には60年の法廷経験が刻まれていた。
「裁判長、まず確認いたします。本離縁の申立人はオスヴァルト・フォン・ヴァイスブルク公爵であり、申立理由は『子が生まれなかったこと』とされています。これに間違いはございませんか」
「その通りだ」
オスヴァルトの弁論士──王都で名の知れた中年の法律家──が答えた。
「では、申立人に伺います。婚姻期間12年間において、申立人と被申立人の間に、夫婦としての実態はございましたか?」
法廷が、静まり返った。
傍聴席の空気が凍りついたように感じた。
オスヴァルトの顔が強張った。
「何を──」
「記録によれば、公爵は婚礼の夜から一度も公爵夫人の寝室を訪ねたことがございません。使用人15名の署名入り証言がここにあります。侍女、掃除婦、門番──いずれも10年以上の勤務歴を持つ者たちです」
ヨハンが書類の束を裁判長に提出した。
厚さ2センチはある証言書の束だ。
「子が生まれなかった理由は、公爵夫人の側にはございません。夫婦としての実態が存在しなかったのですから」
傍聴席がざわめいた。
隣り合った貴族たちが、顔を寄せ合って囁いている。
「さらに、婚礼の日に公爵が夫人に渡した赤子──リタ嬢は、公爵と愛人エルザ・モルゲンシュテルンの間に生まれた子であり、公爵夫人が12年間実子として養育してきました。出生届の原本がこちらです」
二つ目の書類が提出された。
オスヴァルトの顔から、完全に血の気が引いた。
隣のエルザが小さく息を呑むのが聞こえた。
「嘘だ。その書類は──盗まれたものだ!」
オスヴァルトが椅子から立ち上がった。
弁論士が袖を引いて制止するが、振り払った。
「公爵家の金庫に保管されていたものです。先代公爵の遺言により、当主夫人にも金庫の副鍵が預けられておりました。合法的な取得であることを、ここに証明いたします」
ヨハンは義母の証言書と、先代公爵の遺言補足書を追加で提出した。
裁判長がそれを受け取り、目を通す間、法廷は息を呑むように静まり返った。
「さらに、公爵家の元侍女長アネッタ・ヴォルフの死因についても、疑義がございます」
ヨハンの声が、一段低くなった。
「公爵夫人は薬草学の専門知識を持ち、アネッタの症状がベラドンナ中毒と一致することを記録しています。また、公爵の側近グスタフ・ホルツの走り書きには『証人は排除済』という文言が残されていました。グスタフ自身も不審な馬車事故で死亡しております」
傍聴席から、はっきりとしたどよめきが上がった。
オスヴァルトの顔が蝋人形のように白くなった。
隣のエルザが夫の腕にすがりつこうとしたが、オスヴァルトはそれを無意識に振り払った。
「続いて、公爵家の財務状況について申し述べます」
「異議あり! 本件は離縁と監護権の争議であり、財務は関係ない」
オスヴァルト側の弁論士が立ち上がった。
「関係がございます、裁判長。離縁に際しての補償金算定には、公爵家の財務状況の確認が不可欠です。さらに、公爵の借用証書10通以上が金庫から発見されました」
「異議を棄却する。弁論を続けなさい」
裁判長の声は淡々としていた。
「公爵は公爵家の財産を担保に私的な借金を重ね、その使途は──エルザ・モルゲンシュテルンの王都での生活費に充てられています。公爵夫人が12年間記録した家計の動きと、王都の商会の取引記録を照合した結果が、これです」
ヨハンは私の12冊の手帳から抽出した記録を、一つ一つ提示していった。
日付。金額。出所。行き先。
12年分の点が、一本の線になっていく。
「これらの記録は、公爵夫人が公爵家の家政管理の一環として、婚姻期間中一貫して記録し続けたものです。証拠としての信頼性は極めて高いと考えます」
12年間、私が「公爵夫人の務め」として書き続けた記録が、今、法廷で真実を証明する武器になっている。
母の言葉が蘇った。「日記をつけなさい。それがあなたの唯一の財産になるから」
◇
裁判長が休廷を宣言した後、廊下でエルザが近づいてきた。
足早に、ほとんど駆け寄るように。
「あなた──12年も黙っていて、今さら何をするつもりなの?」
エルザの声は震えていた。
怒りなのか、恐れなのか、判別がつかない。
「私はただ、事実を並べているだけよ。嘘は一言も言っていないわ」
「リタは私の娘よ。産んだのは私。あなたは他人でしょう」
「ええ、産んだのはあなた。でも──」
私は一呼吸置いた。
感情的になってはいけない。事実だけを述べる。
「あの子の気管が弱いことを知っていた? 季節の変わり目に咳が出やすくなることを? カモミールとリンデンの調合で夜の咳が治まることを? あの子が泣く時、左の拳を先に握る癖があることを? あの子が嬉しい時に、右の頬だけが先に持ち上がることを?」
エルザは何も答えられなかった。
「12年分の夜泣きと、12年分の薬湯と、12年分の寝物語と、12年分の成長を、あなたは知らない。それが現実よ」
私の声は静かだった。
怒りではなく、ただ事実を述べているだけだ。
エルザの目に涙が浮かんだ。
だが、同情はしない。この人は──ゲルダに指示を出し、リタの薬を替えさせようとした人だ。アネッタの死に繋がる連鎖の、一端を担った人だ。
「ゲルダの証言も、裁判所に提出してあるわ。あなたがリタの薬を替えるよう指示したこと、すべて日付入りで記録されている」
エルザの顔が蒼白になった。
唇が何か言おうとして動いたが、声にならなかった。
法廷が再開された時、オスヴァルト側は──条件交渉を申し出た。
つまり、降伏だ。
全面的な反論ではなく、条件付きの和解。
すなわち、こちらの主張の大半を認めるということだ。
裁判長が最終的な判決を下すのは翌週だが、結果は見えている。
法廷を出る時、義母が私の手をそっと握った。
杖を持っていない方の手で、力強く。
「よくやったわね」
その一言が、12年分の冷たさを溶かした。
リタが待つ屋敷に帰ろう。
すべてが終わったら、あの子と二人で薬草園を歩きたい。
──だが、まだ終わっていなかった。
翌日届いた急報が、予想もしなかった最後の波乱を告げていた。




