第10話 花開く
急報の中身は、予想を超えるものだった。
オスヴァルトが、公爵位の返上を申し出たのだ。
弁論士ヨハンが自ら馬車で屋敷を訪れ、事の次第を伝えてくれた。
書斎の椅子に深く腰を下ろした老弁論士の表情は、複雑だった。
「公爵は、位を返上し、一私人としてエルザと共に国外に出る道を選びました。代わりに、すべての訴追を取り下げてほしい、と」
「逃げるのですか」
「そう申すのが正確でしょうな。借金の総額が公爵家の全資産を上回っていました。このまま裁判が進めば、財務不正の罪で投獄される可能性があった。さらに、アネッタ殿の件に関する疑惑も深まりつつあります。それらすべてを置いて、逃げる道を選んだのです」
(……逃げるのか。12年間、私に背負わせたすべてを放り出して)
怒りよりも先に、呆れが込み上げた。
そしてその後に、奇妙な軽さが訪れた。
この人は最初から最後まで、何一つ自分で責任を取らなかった。
「公爵位が返上された場合、領地はどうなるのですか」
「王家の判断ですが、先代公爵の遺言に基づけば、リタ嬢が成人するまでの間、後見人が領地を管理することになります。後見人には──先代の遺言補足書の条項に基づき、養育実績のあるイルマ様が指名される可能性が極めて高い」
先代公爵の遺言。
「養育実績のある者に監護権を」という一文が、先代の想定を超える形で機能しようとしている。
あの慧眼の先代公爵でさえ、この事態は予見できなかっただろう。
「ただし、条件があります。オスヴァルトは、イルマ様が離縁ではなく婚姻の無効を申し立てることを求めています」
「婚姻の無効?」
「離縁は婚姻が有効に存在したことを前提とします。無効は、婚姻が最初から成立していなかったと宣言するものです。無効であれば、エルザとの関係も当初から合法となり、オスヴァルトは国外で新たな婚姻を結びやすくなります」
婚姻の無効。
つまり、12年間の結婚が「最初からなかったこと」にされる。
(……12年間を、なかったことに?)
一瞬、胸が痛んだ。
12年分の記憶が走馬灯のように脳裏を駆けた。
赤子を抱いた婚礼の夜。最初の薬湯。リタの初めての言葉。薬草園の土の匂い。アネッタの笑顔。
だが、すぐに冷静さが戻った。
婚姻の無効は、法的には私にとっても有利だ。
離縁よりも迅速に決着がつき、持参金の返還も即時に行われる。
慰謝料の代わりに「不当な婚姻による損害賠償」を請求できる可能性もある。
そして何より──「公爵夫人」ではなく、自分自身の名前で、自由な身になれる。
「承諾します」
私の声は、静かだった。
「ただし、リタの後見人の件は確約してください。それから、借用証書の件──領地の負債整理は、私が後見人として王家と協議する場に立てるようにしてほしい」
「もちろんです」
ヨハンが微かに笑った。
「イルマ様。義母上から、あなたは静かに堪える方だと伺っていました。けれど今日のあなたは、堪えるべきものを、もう抱えていない。そういう顔をしておられる」
◇
すべてが終わったのは、それから2週間後のことだった。
オスヴァルトは公爵位を返上し、エルザと共に南方の港から船に乗った。
出発の日、私に一言の挨拶もなかった。最後まで、あの人はそういう人だった。
リタの後見は、王家の承認を得て私が引き受けることになった。
公爵家の借金は王家の管理下で整理され、領地の運営は暫定的に義母と私が共同で担うこととなった。
義母は「私はもう隠居だから」と言いながら、毎朝のように私の書斎を覗きに来る。
助言のつもりなのだろう。40年の経験に裏打ちされた義母の言葉は、的確で容赦がなかった。
「あなた、それでは使用人の配置が甘いわ」
「はい、ヒルデガルト様」
不思議なものだ。
12年間恐れていた義母の厳しさが、今は心強い。
「お母様」
リタが薬草園から走ってきた。
手に、小さな花束を持っている。
日焼けした頬に、汗が光っていた。
「カモミールが満開です。お母様のために摘んできました」
「ありがとう」
花束を受け取った。
白い花弁の中心が黄金色に輝いている。
カモミールの香りが、柔らかく鼻腔を満たした。
カモミール。
ギリシャ語で「大地のリンゴ」を意味する。
踏まれるほどよく育ち、倒されても茎を持ち上げて再び花を咲かせる。
その生命力から、花言葉は「逆境に耐える力」とされている。
(……踏まれるほど、強くなる。12年間の私に、少し似ているかもしれない)
「お母様、これからどうなるんですか?」
「どうなるって?」
「この屋敷は? 薬草園は? 私たちの暮らしは?」
「屋敷はしばらくこのまま。負債の整理は時間がかかるけれど、領地の運営は続ける。薬草園はもちろん私が管理する。拡張も考えているの」
「拡張?」
「ええ。領地の住民に薬草学を教える学校を作りたいの。薬草魔法──地の魔法を、正式な学問としてこの国で認めてもらうのが、次の目標よ」
リタの目が輝いた。
「私も手伝えますか?」
「もちろん。あなたは私の一番弟子よ」
リタが嬉しそうに笑った。
12歳にしては大人びたところのある子だが、こういう時の笑顔は年相応に無邪気だ。
義母が東棟のテラスから、私たちを見ていた。
遠目にも、微かに笑っているのがわかった。
ベルタが紅茶を運んできた。
ハンナが焼いたリンゴのタルトの甘い香りが漂う。
「イルマ様、お手紙です。弁論士ヨハン様から」
手紙を開くと、短い一文が記されていた。
「薬草学の正式認可について、王立学術院に推薦状を出した。先例がないため時間はかかるが、道は開けた。返事を待たれよ」
(……ヨハン先生。引退しているのに、仕事が早い)
ふと、テラスの柱の陰に、もう一人の影があることに気づいた。
「あら」
見覚えのある横顔だった。
法廷で一度だけ見かけた、書記官の青年。裁判の間中、淡々と記録を取っていた人だ。
真面目そうな顔立ちで、眼鏡の奥の目は穏やかだった。
「失礼します。王立裁判所のアルノルトと申します」
深い礼をして、青年は自己紹介した。
「ヨハン先生のご紹介で、薬草学の認可申請に必要な法的書類の作成をお手伝いすることになりました。先例のない申請ですので、法律の専門知識が必要になるかと」
真面目な顔。堅い口調。だが目元に、穏やかな光がある。
「よろしくお願いします。あなたが手伝ってくれるなら心強いわ」
「いえ、こちらこそ──法廷でのイルマ様のお姿を拝見して、感銘を──いえ、何でもありません。まずは書類を拝見できますか」
アルノルトは少し頬を赤くして、ベルタが用意した椅子に腰を下ろした。
手元の書類を開く仕草が、几帳面で丁寧だった。
リタが私の袖を引いた。
「お母様、あの人、お母様のこと見てますよ。さっきからずっと」
「気のせいよ」
「気のせいじゃないです。目が泳いでました」
リタがにやりと笑う。
12歳の目ざとさは、時に厄介だ。
その笑顔が、あまりにも普通の──幸せな12歳の女の子の笑顔で、私はようやく、深く息をつくことができた。
12年間、私は「誰かのために」生きてきた。
夫のため、リタのため、公爵家のため。
自分の名前を名乗ることすら忘れていた。
でもこれからは、自分のために生きていい。
自分の名前で、自分の知識で、自分の足で立つ。
薬草園の風が、カモミールの香りを運んでくる。
イルマ・フォン・レーデンハイム。
それが、私の名前だ。
大地のリンゴの花が、春の陽に揺れていた。




