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夫の隠し子を12年育てましたが、そろそろ自由になってもいいですよね  作者: 渚月(なづき)


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第8話 王都の風向き

金庫を開けたのは、月が中天に差しかかった頃だった。


屋敷は静まり返っていた。

夫が王都へ発って数刻、人の気配はもう薄い。

残っているのは、ベルタと数人の古参の使用人だけだ。


書斎の扉を開ける。

普段は立ち入らない部屋だが、公爵夫人として入る権限はある。

月光が窓から差し込み、机の上の書類や万年筆を青白く照らしていた。


義母から受け取った鍵は、40年以上前の細工にもかかわらず、錆一つなく金庫の鍵穴に収まった。

小さな抵抗の後、かちりと音がして、重い扉が開く。


中には、予想通りの書類があった。

そして、予想を超えるものも。


まず目に入ったのは、リタの出生届だ。

母親の欄には「エルザ・モルゲンシュテルン」と記されている。父親の欄は「オスヴァルト・フォン・ヴァイスブルク」。

日付はリタの誕生日と一致している。公爵家の家紋入りの印が押されていた。


だが、もう一通の書類に目を奪われた。


「借用証書……?」


公爵家の公印が押された借用証書が、10通以上束になっていた。

差出人はすべてオスヴァルト。

宛先は──王都の複数の商会と貴族家。金貸し業を営む男爵家の名前もあった。


一通ずつ金額を確認した。

総額は、公爵家の年間収入を遥かに超えている。

領地の税収、森林の伐採権、鉱山の採掘権まで担保に入っていた。


(……この人は、領地の財政を食いつぶしていたのか)


私が薬草園の整備に使った予算が、毎年削られていた理由がわかった。

使用人の給金が遅れがちだった理由も。

領地の住民のための診療所の建設計画が、何度提案しても却下された理由も。


オスヴァルトは公爵家の財産を担保に借金を重ね、その金を──おそらくは王都での社交費と、エルザの生活費に充てていた。

借用証書の日付と、私の手帳に記録した夫の王都滞在日を照らし合わせれば、一目瞭然だ。


「イルマ様」


ベルタが書斎の入口で見張っていた。声を潜めている。


「急いでください。馬番のダミアンが、厩舎を出たり入ったりしています。何か気づいたのかもしれません」


「わかった。あと少しだけ」


私は出生届の原本だけを慎重に取り出し、借用証書は元の位置に残した。

証書を持ち出せば、金庫を開けたことが即座にばれる。

だが出生届の方は──オスヴァルトが日常的に確認する書類ではない。気づくまでに時間がかかるはずだ。


ペンを取り出し、手帳に書き留めた。

借用証書の枚数、日付、金額、宛先。

手が自然に動く。12年間、記録を取り続けてきた習慣が、ここで生きた。


最後の1枚を記録し終えた時、金庫の奥に封のされた手紙が1通あるのに気づいた。


差出人は──グスタフ・ホルツ。

オスヴァルトの側近で、公爵家の財務管理を任されている男だ。

長身で痩せた男で、数年前から頻繁に屋敷を訪れていた。いつも分厚い帳面を抱えていた。


封を切る余裕はなかった。

だが、封書の表に走り書きがあった。

オスヴァルトの筆跡だ。


「件の処理、完了。証人は排除済」


証人は排除済。


(……アネッタ)


血が逆流するような感覚があった。

指先が冷たくなり、一瞬視界が狭くなった。


アネッタの死は、偶然ではなかった。

オスヴァルトとグスタフが仕組んだものだ。

リタの出生の秘密を知る証人を消すために。


息を整えた。

封書を元に戻し、金庫を閉め、鍵を回した。


足音を殺して書斎を出た。

月光の中を歩きながら、手が震えていた。今度は記録を取る手ではなく、怒りで震える手だった。


自室に戻ると、ベルタが待っていた。


「大丈夫でしたか」


「ええ。予想以上のものが見つかったわ」


出生届の原本を油紙に包み、手帳と同じ場所──薬草園の乾燥小屋に隠す。

もうこの屋敷の中に安全な場所はない。

薬草の香りだけが、私の秘密を守ってくれる。


その夜、眠れなかった。

金庫の走り書きが、瞼の裏にこびりついていた。


「証人は排除済」


たった6文字で、40年の忠義が踏みにじられた。

アネッタは人ではなく「処理すべき案件」として扱われていたのだ。


(……この怒りを、法廷で使う。感情ではなく証拠として)


翌日、私はベルタに頼んで、グスタフが屋敷を訪れた日付を手帳から洗い出した。

過去3年間で17回。その全てが、オスヴァルトの借入と時期が重なっている。



それから3日後、王都から報せが届いた。


グスタフが馬車の事故で死亡した、と。


「王都の東門付近で、馬車が急坂を下る途中に横転したそうです。御者は軽傷でしたが、グスタフ様は投げ出されて──その場で」


ベルタの報告を聞きながら、私は考えていた。


事故。

本当に事故だろうか。


グスタフはオスヴァルトの不正を知る、最も近い人物だった。

借金の処理を実行し、アネッタの件の「手配」も行った人間だ。

つまり、オスヴァルトの最大の弱みを握っていた。


そのグスタフが、離縁の手続きが始まろうという矢先に死んだ。


(……口封じ。オスヴァルトは、自分の秘密を知る人間を次々に消している)


恐怖が背筋を這った。

もし私が知りすぎていると判断されたら──。


だが同時に、確信も深まった。


オスヴァルトは追い詰められている。

だからこそ、証拠を消し、証人を消し、手を汚している。

追い詰められた獣は、最も危険だが、同時に最も判断を誤る。


「イルマ様。実家のお兄様から返事が届きました」


ベルタが手紙を渡してくれた。

行商人のノルベルト経由の、安全な郵便だ。


兄の手紙には、二つの報せが記されていた。


一つ、王立裁判所に離縁申立を受理させるための手続きを、弁論士ヨハンが引き受けてくれたこと。既に必要書類の準備に着手しているとのことだった。


二つ、兄自身が次の議会で公爵家の財務問題を取り上げる用意があること。実家の伯爵家は財政が苦しいとはいえ、議会での発言権は持っている。


(……兄さん。あなたの力を、やっと頼ることができる)


実家との関係は、嫁いでから疎遠になっていた。

オスヴァルトが私の実家との連絡を好まなかったからだ。手紙を出す度に不機嫌になり、いつの間にか便りの頻度は年に数回にまで減っていた。


だが、血縁の絆は12年では切れなかった。


手紙の最後に、兄はこう書いていた。


「妹よ、遅くなって済まない。お前が助けを求めなかったから、大丈夫だと思っていた。母がいつも言っていたな。"強い子ほど、助けを求めるのが下手だ"と。もう一人で抱え込むな」


その一文を読んだ時、ようやく、肩の力が少しだけ抜けた。


一人で戦う必要はなかったのだ。

最初から。


義母、ベルタ、ハンナ、兄──そして、リタ。

私の周りには、味方がいた。声を上げる前から、私を見ていてくれた人たちがいた。


あとは、法廷に立つだけだ。


弁論士ヨハンとの面会は、来週。

その時までに、すべての証拠を整理し、時系列にまとめなければならない。


12冊の手帳。婚姻契約書の写し。先代公爵の遺言補足書。リタの出生届の原本。ゲルダの証言書。ハンナの証言書。借用証書の記録。グスタフの走り書きの内容。


これだけ揃えば、王立裁判所でも戦える。


ペンを取り、整理を始めた。

もう、手は震えない。


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