第7話 血よりも濃いもの
リタに真実を告げる日が来た。
夫の金庫にある出生届の原本を手に入れるには、法的な手続きが必要だ。
そしてその手続きを始めれば、リタの出生の秘密は公になる。
リタが他人の口から──あるいは法廷の書類から──知るよりも前に、私の口から伝えなければならない。
それが、12年間母を務めた者の責任だと思った。
何度も下書きを書いた。
どんな言葉で伝えればいいのか、何日も考えた。
結局、すべての下書きを破り捨てた。準備された言葉は嘘くさくなる。
「リタ、少し話があるの」
夕食後、リタの部屋を訪ねた。
窓の外では夕焼けが空を橙色に染め、部屋の中にも暖かい光が差し込んでいた。
リタは読みかけの本を閉じ、私の顔を見て──何かを察したように、表情を引き締めた。
子どもというのは不思議なもので、大人の顔色を読む力は年齢に比例しない。
「お母様、深刻なお顔をしていますね」
12歳の聡い娘は、すでに覚悟をしているように見えた。
「あなたに、ずっと言えなかったことがある」
椅子に座り、リタの手を取った。
小さいけれど、しっかりした手だ。指は細いが、薬草園の仕事で少し荒れている。
私が教えた手入れ法で、いつも清潔に保たれている手。
「あなたを産んだのは、私ではないの」
沈黙が落ちた。
窓の外で、鳥が一声鳴いた。
リタの目が一瞬見開かれ、それから──ゆっくりと閉じられた。
瞼が震えたのは、ほんの数秒のことだった。
「……知っていました」
今度は、私が驚く番だった。
「去年の社交界で、エルザという女性が私をじっと見ていたんです。白い衣装を着た、きれいな人でした。でもその目が──鏡で見る自分の目と同じ色でした。同じ形をしていました」
リタの声は震えていなかった。
だが、握った手の力が強くなった。
「帰ってからアネッタに聞いたんです。あの女性は誰かと。アネッタは何も答えてくれませんでした。表情を変えずに、話題を変えただけでした」
「……」
「でも、答えないということが、答えでした。アネッタがあんなに不自然に黙ったのは、あの時が初めてでしたから」
(……この子は、もうとっくに気づいていた。そして一人で、その意味を飲み込んでいた)
12歳の少女が、自分の出生の秘密を一人で抱えていた。
それを思うと、胸が締めつけられた。
「リタ、ごめんなさい。もっと早く話すべきだった」
「いいえ。お母様が話す時を選んでくれたなら、きっと今が正しい時なんです」
リタが私の手を握り返した。
「お母様」
「なに」
「産んでくれた人が誰でも、育ててくれたのはお母様です。それは変わりません」
その言葉は、12年間のすべてを肯定していた。
涙が出そうになった。
でも、今は泣いている場合ではない。まだ、話すべきことが残っている。
「リタ、ありがとう。でも、もう少し大事な話があるの」
「離縁のこと、ですね。使用人たちの話の端々で、聞こえてきます。ゲルダさんがいなくなったことも、お母様が書庫で調べ物をしていることも」
「お父様は、あなたをエルザに引き渡すつもりでいるわ。産みの母だから、と。でも私は、それを認めない」
「お母様……」
「これは私の一存で決めることじゃない。あなたの意思を聞かせて。あなたは、どうしたい?」
リタは少し考えてから──考えるというより、自分の中の答えを確認するように、一度目を閉じてから──まっすぐに私を見た。
「お母様と一緒にいたいです。エルザという人のことは、何も知りません。声も、手の温度も、作ってくれた薬湯の匂いも。でもお母様のことは──12年分、知っています」
その言葉を聞いた時、私の中で何かが定まった。
迷いが消えた。
もう後には引けない。そして、引くつもりもない。
この子と私の12年間は、誰にも否定させない。
リタが私の膝にもたれかかってきた。
12歳にしては甘えた仕草だが、今はそれでいい。
「お母様」
「なに?」
「私が5歳の時、高い熱を出して3日間寝込んだことがありましたよね」
「ええ。覚えているわ。あの時は本当に心配した」
「お母様がずっと傍にいてくれて、冷たい布で額を拭いてくれて、薬湯を何度も作り直してくれました。お父様は一度も来なかったけれど、お母様はずっとそこにいた。眠れなかったでしょう」
「3日くらい眠れなくても平気よ」
「嘘。ベルタが言ってました。イルマ様はお嬢様の熱が下がった瞬間、廊下で座り込んで動けなくなった、って」
私は苦笑した。そんなことまでベルタは覚えているのか。
「そういうことの積み重ねが、全部わかっています。だから、大丈夫です」
リタが顔を上げて、笑った。
涙の跡がまだ頬に光っていたが、その目は真っ直ぐだった。
◇
翌日、私は義母のヒルデガルト夫人を訪ねた。
義母の居室は本館3階の角部屋で、大きな窓から領地の景色が一望できる。
部屋の調度品は先代公爵の時代から変わっていないらしく、重厚な樫の家具と、壁には年季の入ったタペストリーが掛かっていた。
「リタに話したのね」
「はい。そして、リタは私と共にいたいと言ってくれました」
「そう。……あの子は、あなたの娘よ。血ではなく、12年の時間がそうした。時間は、血よりも濃い」
義母は窓辺に立ち、庭の薬草園を見下ろしていた。
「イルマ。あなたに渡したい人がいる」
「人?」
「王都の法律顧問、ヨハン・フォン・ブレッヒャー。先代公爵の時代から公爵家の法務を担当していた弁論士よ。今は引退しているけれど、60年の経験がある。この件なら力を貸してくれるはずだわ。先日、手紙を出しておいた」
「義母様、なぜそこまで……」
「私はこの家の当主夫人として40年を過ごした。その間に、この家が何度も間違いを犯すのを見てきた。先代は正しい人だったけれど、その息子は──」
義母は言葉を切った。
自分の息子を否定する言葉を飲み込んだのだと思った。
「もうこれ以上、見ているだけではいられない」
義母の背中は、小さいけれど真っ直ぐだった。
40年間、この家を支えてきた背中だ。
「もう一つ。オスヴァルトの金庫の鍵だけれど──」
「ご存知なのですか?」
「あの金庫は先代が設えたものよ。鍵は2本ある。1本はオスヴァルトが持っている。そしてもう1本は──」
義母は首から細い鎖を外し、小さな鍵を取り出した。
銀製の、古い細工の鍵だった。
「先代が私に預けたものだわ。『いつか必要になる時が来る』と言って。あの人はいつも、何年も先のことを見通していた」
私は鍵を受け取った。
冷たい金属の重さが、掌に染みた。
小さな鍵の中に、先代公爵の思慮深さが詰まっている。
「明日の夜、オスヴァルトは王都の夜会に出る。使用人の半数も同行する。その間に、金庫を開けなさい」
義母は頷いた。
「気をつけなさい。あの子は──私の息子は、追い詰められると何をするかわからない。母親の私が言うのだから、間違いないわ」
「はい」
「イルマ」
振り返ると、義母が──初めて、微かに笑っていた。
固い表情の中に、不器用に浮かんだ笑み。
「あの夜、私は壁の向こうで、あなたが赤子をあやす声を聞いていた。震える声で、それでも子守唄を歌っていた。あの声を、私はずっと忘れなかった。あなたがどれほどの覚悟であの子を抱いたか──知っているのは、たぶんこの家で私だけよ」
私は深く息を吸い、一礼した。
明日。すべてが動く。
金庫の中には、リタの出生届の原本と──おそらく、オスヴァルトが隠している他の書類がある。
12年分の嘘を暴く鍵が、今、私の手の中にある。




