第6話 裏切りの代償
ゲルダの正体を暴く機会は、思わぬところから訪れた。
リタが熱を出したのだ。
季節の変わり目に気管が弱くなるのは、幼い頃からの体質だった。
毎年この時期になると、喉の奥がヒリヒリして、咳が出やすくなる。
「お母様、大丈夫です。少し喉が痛いだけ……」
「無理しないで。今日は寝ていなさい」
リタの額に手を当てると、熱い。
だが高熱ではない。今の段階で適切に対処すれば、2日もあれば収まるはずだ。
私はリタの部屋にカモミールとエルダーフラワーの調合茶を運んだ。
エルダーフラワーは発汗を促し、体内の熱を穏やかに下げる。ヨーロッパでは古くから「庶民の薬箱」と呼ばれてきた植物で、花を乾燥させてお茶にする民間療法は何百年もの歴史がある。
花だけでなく実も利用され、エルダーベリーのシロップは冬場の風邪予防として家庭の常備薬にもなっている。
カモミールのアズレンが炎症を抑え、エルダーフラワーが穏やかに解熱する。
この組み合わせを、私はリタのために何度も調合してきた。
「ゲルダ、リタの食事は粥にして。薬湯は私が用意するから」
「かしこまりました。ただ、イルマ様。お嬢様のお体のことは、王都から医師をお呼びした方がよいのでは? 素人の調合では万が一のことが──」
「12年間、私が管理してきたのよ。リタの体質を一番理解しているのは私だわ」
「ですが、責任の問題もございますし──」
ゲルダの笑顔の下に、別の意図が透ける。
私の薬草管理を「危険なもの」「無責任なもの」として夫に報告するつもりだ。
もし医師を呼び、医師が「公爵夫人の調合は不適切」と診断すれば──それは離縁裁判でリタの養育能力を否定する証拠になる。
「医師を呼ぶ判断は、私がします。これは公爵夫人の管轄よ」
穏やかに、しかし有無を言わさぬ口調で伝えた。
ゲルダは一瞬、目を伏せた。
その夜、ベルタが駆け込んできた。
顔が蒼白だった。
「イルマ様、大変です。ゲルダが、リタお嬢様の薬湯を別のものに替えようとしています」
「何ですって?」
「厨房で、自分が持ってきた薬を湯に溶かしているのを、料理番のハンナが見たそうです。ハンナが『何をしているんですか』と聞いたら、『公爵夫人に頼まれた』とゲルダは答えたそうですが──」
「私はそんな指示をしていない」
足音を殺してリタの部屋に向かった。
ちょうどゲルダが、銀の盆を持って廊下を歩いてくるところだった。
湯気が立ち上る杯を、慎重に運んでいる。
「ゲルダ、その薬湯は?」
「あ、イルマ様。リタお嬢様のために、私が王都から持参した滋養薬を──」
「見せて」
私は盆の上の杯を手に取り、匂いを嗅いだ。
ワレリアンの根。
独特の土臭い、やや不快な匂いがする。
ワレリアン──和名ではセイヨウカノコソウ。鎮静作用のある薬草で、不眠症の改善に古くから使われてきた。
だが、気管の弱い子どもに与えると呼吸を抑制する危険がある。
「これはワレリアン。リタの体質には合わない薬よ。気管支が弱い子にワレリアンを使うと呼吸困難を起こす恐れがある。知らなかったの?」
ゲルダの表情が、一瞬だけ崩れた。
完璧な笑顔に、ひびが入った。
すぐに笑顔を取り戻したが、もう遅い。廊下にいた使用人たち──掃除婦のマルテと、食器を運んでいた下女のアンナ──がその表情の変化を見ていた。
「申し訳ありません、存じませんでした……」
「知識がないのに、勝手に薬を調合しないで。これは命に関わることよ」
私の声は穏やかだったが、芯に鋼が通っていた。
◇
翌朝、私はベルタとハンナを自室に呼んで、事実を確認した。
ハンナは50代の女性で、アネッタが若い頃から厨房で育てた料理番だ。
口数は少ないが、観察力が鋭い。
「ゲルダ様は3つの薬包を持っていました。ワレリアンの他に、もう2種類。片方はカノコソウの根のように見えました。もう片方は──」
ハンナが言葉を切った。
「もう片方は?」
「乾燥した葉の破片ですが……色と匂いが、以前アネッタ様が見せてくれた毒草の標本に似ていました。アネッタ様は、もしもの時に見分けがつくようにと、私たちに毒草の見本を見せてくださっていたので」
アネッタの時と同じ匂いだ。
(……やはり。ゲルダは最初から、明確な目的を持ってこの屋敷に来ている)
「ベルタ。ゲルダの荷物を調べた時、他に何か見つけた?」
「手紙が数通。差出人はすべて王都の同じ住所でした。封書の裏にエルザという名前が──」
「……わかったわ」
ゲルダはオスヴァルトではなく、エルザの手先だった。
エルザ。夫の愛人。リタの産みの母。
12年間、陰に隠れていた女が、表舞台に出ようとしている。
その準備として、ゲルダを送り込み、私の動きを監視し、リタの体調を悪化させようとしていた。
(……リタの体調を悪化させて、「イルマの養育は不適切だ」と主張するつもりなのか)
離縁裁判で親権を争う際、養育者の適格性は最も重要な争点の一つだ。
リタが病気を繰り返せば、「公爵夫人の管理下で子どもが健康を損ねている」と主張できる。
怒りが込み上げた。
腹の奥から、熱いものがせり上がってくる。
だが、ここで感情的になってはいけない。
感情的になった方が、負ける。それは12年間で学んだ最も大切な教訓だ。
「ベルタ、ゲルダの手紙をすべて写してくれた?」
「はい。日付と内容の要約を」
「ありがとう。そしてハンナ、ゲルダが厨房で何をしたか、日時と行動を証言として書面に残してもらえる?」
「もちろんです、イルマ様」
ハンナの目は真剣だった。
証拠が揃い始めている。
ゲルダの正体。エルザとの繋がり。アネッタの死との関連の示唆。
「イルマ様、どうなさるのですか? ゲルダを問い詰めますか?」
「明日、ゲルダに直接聞くわ。ただし、問い詰めるのではなく──選ばせるの」
翌朝、私はゲルダを薬草園に呼び出した。
朝露に濡れた薬草の間を歩きながら、私は穏やかに切り出した。
「ゲルダ、あなたの仕事ぶりには感心しているわ。でも一つ、確認したいことがあるの」
「何でしょうか?」
「エルザ様からのお手紙を、いくつ受け取っているのかしら」
ゲルダの足が止まった。ラベンダーの畝の前で、一瞬だけ呼吸が浅くなった。
「……何のことでしょう」
「隠さなくていいのよ。私はあなたを責めたいのではなく、選択肢を差し上げたいの」
ゲルダの目が泳いだ。
その視線が薬草園の出口を探していることに、私は気づいていた。
「このまま報告を続ければ、いずれ私がすべてを明らかにする時、あなたも共犯になるわ。でも今、正直に話してくれるなら──あなたは証人として、正しい側に立てる」
沈黙が数秒続いた。
朝露の落ちる音が、やけに大きく聞こえた。
「……エルザ様は、旦那様との婚姻を正式なものにしたいとおっしゃっていました。そのために、イルマ様の養育能力に問題があるという証拠が必要だと」
ゲルダの声が震えていた。
「アネッタ様の件も?」
「……私は知りません。本当に。私がエルザ様から指示されたのは、この屋敷に入ってからのことだけです。リタお嬢様の薬を替えること、イルマ様の動きを報告すること──」
薬を替えること「だけ」。
それがどれほど危険なことか、この人は本当には理解していないのだ。
「ゲルダ。あなたには二つの道がある。一つは、今の話を書面にして、証人になること。もう一つは──このまま嘘を続けて、いずれすべてが明るみに出た時に罪に問われること」
「証人になります」
ゲルダは膝をついた。朝露がスカートの裾を濡らした。
「お願いです。私は、ただ金が必要で……病気の弟の治療費が。エルザ様の申し出を断れなかったのです」
私はゲルダの肩に手を置いた。
(……怒りはある。でも、この人もまた利用された側だ。本当の敵は、別にいる)
「立ちなさい。あなたの証言は、正しい場所で役に立つわ」
その日のうちに、私はゲルダを侍女長の任から解いた。
表向きは「健康上の理由による退任」。証言を取った後で表沙汰にすれば、本人にも累が及ぶ。今は、屋敷から静かに離してやる方がいい。
ゲルダは弟の治療費の肩代わりと引き換えに、王都の安全な場所に身を寄せることになった。義母が手配してくれた、信頼できる修道院だった。
エルザの目の届かない場所で、証言を温存しておくためでもある。
証拠がまたひとつ、揃った。
残るは、あとひとつだけ。




