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夫の隠し子を12年育てましたが、そろそろ自由になってもいいですよね  作者: 渚月(なづき)


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第5話 義母の仮面

婚家の母──つまり私の義母であるヒルデガルト夫人は、恐ろしい人だった。

少なくとも、私はそう思い続けてきた。12年間ずっと。


嫁いだ日から今日まで、義母は私に温かい言葉をかけたことがない。

社交界の場では完璧な貴婦人として振る舞いながらも、私に対しては常に冷ややかで、食事の席でも必要最低限の会話しかしなかった。


「あなたには、公爵夫人としての品格が足りない」


何度、そう言われたかわからない。

テーブルマナーの些細な誤りを指摘され、社交辞令の言い回しを訂正され、衣装の色の選び方にまで口を出された。


リタの教育にも介入し、私の薬草学を「下賤な学問」と呼んだこともある。

薬草園を潰すべきだと夫に進言したこともあった。

その時ばかりは、私も声を荒げそうになった。


(……この人とだけは、どうしても分かり合えない)


そう思い込んでいた。


だから、ヒルデガルト夫人が突然、本館の3階から降りてきて私の部屋を訪ねた時、私は身構えた。


義母は普段、本館の最上階にある自室からほとんど出ない。

食事も自室で取ることが多く、降りてくるのは月に数回の社交行事の時くらいだった。


「イルマ。二人きりで話がしたい」


杖をついた義母の姿は、12年前より小さく見えた。

銀色の髪を高く結い上げ、背筋は相変わらず真っ直ぐだが、頬の肉が落ち、手の甲に浮く血管が目立つようになっていた。


「アネッタが死んだそうね」


「ええ。心臓の持病と──」


「嘘をつかなくていいわ」


義母の目が、まっすぐに私を射抜いた。

薄い灰青の目。冷たいようでいて、その奥に揺るぎないものがある。


「私はあの子が生まれた時からこの家にいる。アネッタの体のことは私が一番よく知っている。あの人に心臓の持病などなかった。若い頃から丈夫な人だった」


私は息を飲んだ。


「ヒルデガルト様、何を──」


「12年間、黙っていたのは私も同じよ」


義母は杖を傍らに立てかけ、椅子に深く腰を下ろした。

窓から差し込む午後の光が、銀髪に白い輪郭を描いていた。


「オスヴァルトがあなたに赤子を押しつけた夜、私は隣の部屋にいた。壁越しに、すべてを聞いていた」


「……」


「止めようとしたのよ。でも、あの子は──私の息子は、聞く耳を持たなかった。扉の前まで行って、手をかけて……それでも、開けられなかった」


義母の声が、微かに震えた。

その震えを聞いたのは、12年間で初めてだった。


「あなたが泣かなかったから、私は口を閉ざした。泣かない嫁は、強い嫁だと思ったから。口を出す必要はないと、自分に言い聞かせた」


(……違う。泣けなかっただけだ。泣く余裕すらなかっただけだ。何が起きているか理解する前に、赤子を抱かされていた)


「私があなたに厳しくしたのは、あなたを追い出したかったからではないわ」


「では、なぜ」


「弱い嫁は、この家で生き残れない。私が厳しくすることで、あなたは強くなる──そう信じていた。公爵家の女は、何があっても折れてはいけない。だから私はあなたを鍛えたつもりだった」


義母の手が、膝の上で握りしめられていた。

関節の白さが、力の入り具合を物語っている。


「愚かだったと、今は思う。鍛えるつもりで、傷つけていたのかもしれない」


私は何も言えなかった。

12年分の感情が、言葉にならずに胸の中で渦を巻いていた。

怒りと、驚きと、理解と、哀しみが同時に押し寄せて、何一つ口にできなかった。


「だが今日来たのは、過去の話をするためではない」


義母の目が、鋭さを取り戻した。


義母は懐から、一通の封書を取り出した。

厚手の羊皮紙で、古い蝋で封がされている。


「これは、先代公爵──私の夫が残した遺言の補足書よ。公爵家の正式な家令が保管していたものを、今朝取り寄せた」


封蝋を割ると、黄ばんだ羊皮紙が現れた。

インクは少し褪せているが、筆跡は力強く、文面は法律用語で埋め尽くされている。


「ここに記されている。『公爵家の離縁において、嫡子の監護権は原則として養育実績のある者に帰属する』と」


「養育実績……」


「血縁ではなく、実際に子を育てた者に権利がある。先代公爵は、自身も養子だった。だからこの条項を加えたのよ。血の繋がりだけで家族が決まるわけではない──それが夫の信条だった」


これは──。

リタの親権を争う上で、決定的な根拠になる。


「なぜ、これを私に?」


「聞いたわ。オスヴァルトがリタをエルザに渡すつもりだと」


義母の目に、静かな怒りが灯った。

12年間見てきた冷たさとは違う、熱い感情がそこにあった。


「あの子の血の母親が誰であれ、あの子を12年育てたのはあなたよ。夜中に何度も起きて薬湯を作り、熱を出すたびに看病し、字を教え、礼儀を教え、花の名前を教えた。エルザは産んだだけ。それを母と呼ぶのは──この家の歴史に対する侮辱だわ」



義母が帰った後、私は遺言の補足書を何度も読み返した。


先代公爵の文面は明確だった。

「家を継ぐのは血ではなく、志と行いによる」──その一行が、すべてを要約していた。


(……この家の先代は、まっとうな人だったのだ。養子として迎えられ、育ての親の愛情を受けて公爵となった人。だからこそ、血縁だけで人を判断することを拒んだ)


その息子であるオスヴァルトが、なぜ真逆の人間になったのか。

それは私が考えるべきことではない。


ベルタが入ってきて、声を潜めた。


「イルマ様。ゲルダが、今朝の義母様のご訪問について旦那様に手紙を出しています」


やはり、ゲルダは報告者だ。

私と義母の接触を、逐一夫に伝えている。


「手紙の内容は?」


「ゲルダ様が、書斎で手紙を書かれていたのを、掃除に入ったマルテが見ました。机に書きかけのまま置いてあって──『義母が公爵夫人と密会、書類を渡した模様』と。馬番のダミアンが、その手紙を王都に運ぶようにと指示されていたそうです」


ダミアン。

先日、私の手紙の封蝋を調べていた馬番だ。

ゲルダの手紙を運ぶということは、完全にゲルダ側──つまり夫側の人間だ。


(……ダミアンは、信頼できると思っていたのに)


5年前、馬番として来た時、無口だが真面目な男だと思った。

馬の世話を丁寧にし、私の外出の際も寡黙に馬車を操った。


信頼できると思っていた人間が、いつの間にか敵の手先になっている。

それがこの屋敷の、本当の恐ろしさだ。


「ベルタ。ダミアンには何も気づいていない振りをして。今はまだ、泳がせておく方がいい。こちらが知っていることを悟られたら、向こうも動き方を変える」


「はい」


「それから、義母様からいただいた書類は──」


「薬草園の乾燥小屋に、手帳と一緒に隠しますか?」


「お願い」


ベルタが出ていった後、私は窓際に立った。


薬草園の向こうに、夕日が沈んでいく。

オレンジ色の光がラベンダーの畝を照らし、長い影を作っている。


あの園を作った10年間、私は一度もこの景色を美しいと思ったことがなかった。

ただ義務として、仕事として、毎日土を耕していた。


今は、違う。

守るべきものが見えた時、景色は変わるのだと知った。


義母は味方だった。

12年間の冷たさの裏に、不器用な──しかし確かな愛情があった。


その事実が、私の胸を別の意味で痛ませた。

もっと早く、お互いに話していれば。

もっと早く、正直になっていれば。


(……でも、遅すぎることなんてない。まだ間に合う)


手元には、婚姻契約書の写し、先代公爵の遺言補足書、そして12年分の記録。


あとひとつ。

オスヴァルトの金庫にある、リタの出生届の原本。


あれを手に入れれば、すべてが揃う。

だが金庫に近づけば、ゲルダが必ず報告する。


別の方法を考えなければ。


月が昇り始めた窓の外を見つめながら、私は思った。


(……鍵を開けるのは、力ではなく知恵だ)


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