第4話 壁に耳あり花に棘あり
新しい侍女長、ゲルダは翌日の正午に到着した。
年齢は30代半ば。栗色の髪をきっちりと編み上げ、身のこなしに隙がない。
笑顔が完璧すぎた。
口元は笑っているのに、目が笑っていない。
アネッタの笑顔とは、まるで別の生き物だった。
「イルマ様、お世話になります。旦那様から公爵夫人をお支えするようにと仰せつかりました」
「ようこそ。長旅だったでしょう、まずはお休みになって」
「いいえ、すぐにお仕事を。前任の方の引継ぎ事項を確認したいのですが」
前任──アネッタの死から、まだ2日しか経っていない。
その言葉に悼みの色はなく、事務的な響きだけがあった。
まるで壊れた道具の後任を引き継ぐような口調だ。
(……この人は、私を見張るために来た)
直感がそう告げていた。
だが確証はない。確証がないうちは、動くべきではない。
公爵夫人として12年間、私はこの原則を守ってきた。
ゲルダが来てから、屋敷の空気が変わった。
使用人たちの間に緊張が走っている。
アネッタの死で傷ついた心に、見知らぬ侍女長の登場が追い打ちをかけていた。
厨房のハンナは、ゲルダに食事の好みを聞かれた時、無言で首を振っただけだったそうだ。
掃除婦のマルテは、ゲルダが廊下を通るたびに背筋を強張らせる。
アネッタが40年かけて築いた信頼の空気を、ゲルダは一日で壊してしまった。
いや──壊したのではない。ゲルダは最初から、信頼を築くつもりがないのだ。
「では、ベルタに案内させるわね。屋敷のことは彼女がよく知っているから」
ゲルダが去った後、私はベルタに目配せをした。
ベルタは小さく頷いた。言葉は要らなかった。
◇
薬草園に出たのは、午後の風が穏やかになってからだった。
公爵家の東庭に広がるこの薬草園は、私が10年かけて整備したものだ。
嫁いで2年目、この土地に何も植わっていないのを見て、もったいないと思った。
それが始まりだった。
最初の年は土壌改良から始めた。この地方の土は粘土質で水はけが悪い。
堆肥を混ぜ込み、畝を高くし、排水路を掘った。
私の手は泥だらけになり、爪の間に土が入り込んだ。
公爵夫人にふさわしくない姿だと、使用人たちは最初驚いていた。
今では200種以上の薬草が育っている。
春のカモミール、夏のラベンダー、秋のエキナセア、冬のローズヒップ。
四季折々の薬草が、この庭に命を吹き込んでいる。
リタが園の小道を歩いている。
籠を持って、乾燥用のハーブを摘んでいた。
陽光の中で亜麻色の髪が金色に光って見える。
「お母様、見てください。タイムの花が咲きました」
小さな紫の花を指さして、リタが微笑む。
「きれいね。タイムは花が咲くと香りが変わるの。精油の成分が変化するからよ」
「成分が変わると、薬効も変わるのですか?」
「そう。花が咲く前のタイムはチモールという成分が多くて、強い殺菌力を持つの。古代エジプトではミイラの防腐処理にタイムが使われていたくらいよ。でも花が咲くとリナロールという成分が増えて、鎮静作用が強くなるわ。同じ植物でも、採取する時期で薬効がまったく違ってくる」
リタの目が輝く。
この子は薬草学に、素直で純粋な興味を持っている。
私が教えることを、乾いた砂が水を吸うように吸収していく。
(……この子の母親が誰であれ、この知識はこの子のものだ。私が教えたのだから。血よりも、教えたことのほうが残る)
「お母様」
「なに?」
リタの声が、不意に低くなった。
周囲を気にするように、声量を落としている。
「ゲルダさんが、私の部屋を見ていました。棚の中を」
「何か探しているみたいでした。引き出しを一つずつ開けて、本の間に手を入れて」
「……いつ?」
「さっき。私が書庫に本を返しに行っている間に。戻ってきたら、ゲルダさんが慌てて私の部屋から出てきたんです」
12歳の子どもは、大人が思うよりずっと鋭い。
リタは新しい侍女長の不自然さを、すでに本能的に察知していた。
「ありがとう、教えてくれて。でもゲルダさんには何も言わないでね。知らないふりをしていて」
「はい。お母様」
リタが頷く。
その横顔に、一瞬だけオスヴァルトの面影が過ぎった。
けれど、唇の結び方、眉の動かし方、考えるときに首を傾げる仕草──表情の作り方は私に似ている。
血ではなく、12年の日々が刻んだ相似だ。
夕刻、ベルタがゲルダの行動報告を持ってきた。
「ゲルダ様は、午前中にイルマ様の書斎と寝室を確認し、午後にリタお嬢様の部屋と書庫を見回っています。書斎では棚の本を一冊ずつ手に取り、何かを探しているようでした。あと──」
「あと?」
「厨房のマルテに、イルマ様が最近誰と手紙をやり取りしているか聞いていました。『公爵夫人が最近どこかに文を出されたか』と」
手紙。
実家の兄に送った手紙のことだ。法務に詳しい知人を紹介してほしいと書いた、あの手紙。
「まだ届いていないはずよ。出したのは昨日だもの」
「はい。ですが、ゲルダ様はイルマ様の書斎にあった封蝋の痕をご覧になっていたようです。机の上に蝋の滴がわずかに残っていたのを、使用人のダミアンが指摘したと」
ダミアン──屋敷の馬番だ。
手紙の郵送を任せた人物でもある。
使用人の中では比較的新しく、5年前にオスヴァルトが王都から連れてきた男だった。
(……ダミアンは、最初から夫の目だったのかもしれない)
不安が胸を掠めた。
だがここで焦れば、相手の思う壺だ。
感情で動けば、必ず隙ができる。
「ベルタ、次の手紙は別の経路で出すわ。領地の薬草園に出入りする行商人がいるでしょう。毎月薬草の乾燥品を買い付けに来る、ノルベルトという商人に頼むわ」
「ノルベルトさんなら信頼できます。アネッタ様とも長いお付き合いでしたから」
「それから──私の手帳12冊を、安全な場所に移したいの。この部屋に置いておくのは、もう危険だわ」
ベルタは少し考え込んでから、目を上げた。
「薬草園の乾燥小屋はいかがですか。ゲルダ様は薬草にご興味がないようですし、乾燥棚の束の裏なら人目につきません。それに、あの小屋は独特の匂いが強いですから、長居する人もいません」
「完璧ね」
その夜、月明かりの下で、私は12冊の手帳を油紙で包み、薬草の束の間に隠した。
ラベンダーとローズマリーの香りが、革表紙に移る。
乾燥したセージの束が、手帳を覆い隠すようにかぶさった。
これは私の12年間だ。
一日も欠かさず書き続けた、1日1ページの記録。
この記録がある限り、誰にも真実を消すことはできない。
ベッドに入る前、窓の外に目をやった。
雲が月を隠し、星のない夜だった。
(……ゲルダが何を探しているにせよ、私が先に動く必要がある。でもその前に、敵の全体像を見極めなければ)
ゲルダは誰の指示で動いているのか。
夫なのか、それとも──エルザなのか。
明日、ゲルダがどう動くか。
その動きが、本当の敵の意図を映し出すはずだ。
枕の下に、婚姻契約書の写しだけは残しておいた。
これだけは、どんな時でも肌身離さず持っていなければならない。




