第3話 毒と薬は紙一重
薬草には、二つの顔がある。
正しく使えば命を救い、誤れば命を奪う。人の本性と、よく似ている。
実家の伯爵家には、代々伝わる薬草図鑑があった。
数百種の薬草の効能、採取時期、調合法が記された、門外不出の書物だ。
背表紙は何度も修繕された跡があり、ページの隅には歴代の女主人たちが書き加えた注釈が細かい文字でびっしりと並んでいた。
西方諸国では、薬草学は「地の魔法」と呼ばれる。
杖を振るう派手な宮廷魔法とは違い、大地の恵みから力を引き出す、静かな術だ。
宮廷魔法師が火球や結界で人々の目を奪う傍らで、薬草師は地道に煎じ薬を作り、軟膏を練り、人々の傷を癒やしてきた。
この国では正式な魔法として認められていないが、薬草の力は確かに存在する。
ラベンダーの鎮静作用はリナロールという成分による。カモミールに含まれるアズレンには炎症を抑える効能がある。エルダーフラワーは発汗を促し、体の熱を穏やかに下げる。
これらは迷信ではなく、薬草学という体系的な学問に裏付けられた知見だ。
私はこの知識で、リタの体を守ってきた。
そして今、この知識が新しい意味を持ち始めていた。
「イルマ様、大変です」
ベルタが息を切らして書庫に駆け込んできたのは、判例の整理を始めて3日目のことだった。
赤毛が乱れ、頬に赤みが差している。よほど急いで走ってきたのだろう。
「アネッタが……アネッタが倒れました」
血の気が引いた。
本を置く手が、一瞬止まった。
アネッタの部屋に駆けつけると、老いた侍女長はベッドの上で苦しげに息をしていた。
顔色が青白く、額に脂汗が浮いている。
普段はきっちりとまとめている髪が解け、枕の上に広がっていた。
「アネッタ、どうしたの」
「イルマ……様……。申し訳、ございません……」
その息遣いを聞いた瞬間、私は異変に気づいた。
(……この匂い。呼気に混じる、かすかな苦味)
薬草学を学んだ者には、匂いで植物を識別する訓練がある。
花の匂い、葉の匂い、根の匂い──そして、毒草の匂い。
アネッタの呼気に混じるこの苦味は、ナス科の植物に特有のものだった。
「アネッタ、今日何か食べた? いつもと違うものを口にしなかった?」
「朝……厨房で、旦那様から……差し入れの茶菓子を、いただきました……」
私の背筋を、冷たいものが走った。
「ベルタ、その茶菓子はまだ残っている?」
「は、はい。厨房の棚に置いてあったはずです」
「すぐに持ってきて。誰にも触らせないで。できれば手袋をして」
ベルタが走り去る間に、私はアネッタの脈を取った。
指先に触れる脈は速く、不規則だった。
不整脈。瞳孔の散大。口腔内の乾燥。唇がかすかに紫がかっている。
(……ベラドンナ)
ナス科の植物で、学名はアトロパ・ベラドンナ。
「美しい女」を意味するイタリア語が名前の由来だ。
かつてイタリアの貴婦人たちが、瞳を大きく見せるためにこの植物の汁を点眼したという逸話がある。
瞳孔を散大させる成分──アトロピンが含まれているからだ。
だが、経口摂取すれば猛毒だ。
少量なら動悸と口の渇き。中量なら幻覚と錯乱。
大量なら──呼吸停止から死に至る。
「アネッタ、吐けるなら吐いて。無理しなくていいから」
私は薬箱を取りに走り、活性炭の粉末を水に溶いた。
活性炭は木材を高温で炭化させたもので、その微細な孔が毒物を吸着する性質を持つ。
古くから解毒に用いられてきた手法だが、効果は摂取からの経過時間に大きく左右される。
「これを飲んで。苦いけれど、我慢して」
アネッタに活性炭水を飲ませ、体を横向きにした。
誤嚥を防ぐための基本的な処置だ。
だが、時間が経ちすぎていた。
朝食時の摂取なら、もう6時間以上が経過している。
ベラドンナのアトロピンは経口摂取から30分以内に吸収が始まる。6時間経過した今、活性炭にできることは限られていた。
「イルマ……様……」
「喋らないで。体力を使わないで」
「旦那様の……金庫に……。リタお嬢様の、出生届の原本が……」
「アネッタ!」
「……わたくしが、証人です。あの夜、お嬢様をこの腕で取り上げたのは、わたくしです……」
アネッタの目が、遠くを見ていた。
40年この家に仕え、すべてを知る人の目が。
その目に、涙はなかった。代わりに、静かな決意があった。
「どうか……お嬢様を……お守りください」
その手を握った。
かさついた、しかし温かい手だった。
指の関節が大きく、爪は短く切りそろえられている。40年分の仕事がその手に刻まれていた。
私が泣いたのは、その夜だった。
アネッタは夜半に息を引き取った。
医師は「心臓の持病による突然死」と診断書に記した。
オスヴァルトが呼んだ、王都から来た医師だった。
アネッタの体を診察したのはわずか数分。脈を取り、瞳孔を見て、それだけで診断書を書き上げた。
40年の忠義の終わりが、数分の診察で片付けられた。
◇
翌日、私は厨房から回収した茶菓子を自室で調べた。
砕いた菓子の破片を水に溶かし、匂いを嗅ぐ。
薬草学を学んだ者にしかわからない、微量の植物性毒物の痕跡がそこにあった。
だが証拠としては不十分だ。
これだけでは、偶然の混入と主張されてしまう。
毒物の正式な鑑定には王立薬学院の設備が必要で、公爵夫人の立場でそれを依頼すれば、たちまち夫の耳に入る。
(……アネッタ。あなたは偶然ではない。誰かに、意図的に排除されたのだ)
アネッタは公爵家のすべてを知っていた。
リタの出生の真実を知る、最も重要な証人だった。
そしてアネッタは死の間際、金庫の中の出生届のことを教えてくれた。
(……40年の忠義を、あなたは最後の瞬間まで示してくれた)
私は手帳の13ページ目を開いた。
空白のページに、今日の日付と事実だけを記す。
アネッタの死亡日時。
症状の詳細──不整脈、瞳孔散大、口腔乾燥、呼気の苦味。
茶菓子の出所──夫からの差し入れ。
医師の診断──心臓の持病。
私自身の所見──ベラドンナ中毒の可能性。
証拠はまだ足りない。
だが、疑いの輪郭は見え始めている。
「お母様、アネッタは……」
リタが泣きながら部屋に来た。
目が真っ赤に腫れていた。
その小さな肩を抱きしめる。
リタの体が震えていた。
声を殺して泣いている。この子は人前で声を上げて泣くことができない。それも私に似たところだ。
「大丈夫よ。私がいるから」
「アネッタが……いつも寝る前に、おやすみなさいませ、お嬢様って……もう聞けないの?」
「……ええ」
それだけ言うのが精一杯だった。
リタの髪を撫でながら、私も涙をこらえていた。
翌日、アネッタの葬儀は公爵家の礼拝堂で簡素に行われた。
オスヴァルトは出席しなかった。「急用がある」とだけ伝えてきた。
40年仕えた侍女長の葬儀に、主人は顔も出さない。
使用人たちは黙って涙を流した。
料理番のハンナは、アネッタが好きだったローズヒップの花を棺に添えた。
(……この子を守る。何があっても。誰が相手でも)
ベルタが入ってきて、低い声で告げた。
「イルマ様。旦那様が、新しい侍女長を明日から寄越すとおっしゃっています。王都からお連れになるそうです」
王都から。
つまり、夫の息がかかった人間だ。
アネッタが亡くなって一日も経たないうちに、後任を手配している手際の良さ。
あまりにも準備が良すぎる。まるで、この事態を予測していたかのように。
私は静かに息を吸い、ベルタの目を見た。
「ベルタ、お願いがあるの。明日から、この屋敷の中で起きることを、すべて記録してほしい。誰が来て、誰と話し、何をしたか。些細なことでも」
涙を拭く暇はない。
敵は、もうこの家の中にいる。




