第2話 十二年の対価
オスヴァルトが部屋を出てから、私は椅子に座ったまましばらく動けなかった。
膝の上で組んだ手が、微かに震えている。
(……泣くのは、まだ早い)
深呼吸をひとつ。それからもうひとつ。
震えが収まるのを待ってから、私は書棚の奥に手を伸ばした。
革装の手帳が、12冊。
嫁いだ年から毎年、1冊ずつ書き継いできた記録だ。
表紙は最初の数冊が焦げ茶で、年を追うごとに深い藍色に変わっている。インクの色も、当初の黒から鉄紺へと変わっていた。
日付、出来事、立会人。
夫の不在の日数と行き先。来客の記録。家計の動き。
領地の収支や使用人の異動まで、公爵夫人として知りうるすべてを書き留めてきた。
書いた当初は、公爵夫人の務めとして記録しているつもりだった。
母が教えてくれたのだ。「嫁いだ先では日記をつけなさい。それがあなたの唯一の財産になるから」と。
(……いつからだろう。これが「武器」になると気づいたのは)
3年目あたりだったと思う。
夫の外出が明らかに増え、王都からの請求書に見覚えのない宝飾品の明細が紛れ始めた頃だ。
ルビーのブローチ、真珠の髪飾り、絹のドレスの仕立て代──すべて私のものではなかった。
私は何も言わなかった。
問い詰めたところで、夫は嘘をつくだけだ。
ただ、日付と金額を記録した。いつ、いくら、何のために支払われたか。
その積み重ねが、やがて一つの像を結ぶことを、私は知っていた。
「イルマ様」
控えめなノックの後、アネッタが入ってきた。
いつもの白い前掛けの上に、黒いショールを羽織っている。夜更けの訪問だった。
「旦那様が、お出かけになりました。王都の方へ向かわれたようです」
「そう。……アネッタ、少し相談があるの」
アネッタの目が真剣になる。
この人は、すべてを知っている。リタの出生のことも、夫の不誠実も。
40年この家に仕え、先代の公爵夫人の時代から公爵家の秘密を守ってきた人だ。
「離縁を言い渡されたわ」
「……存じておりました。使用人の間では、数日前から噂が」
「早いのね」
「エルザ様が、もう王都で新しい居室の内装を選んでいらっしゃるそうです。壁紙の見本を業者に取り寄せたと、出入りの商人が申しておりました」
つまり、これは突然の決定ではない。
準備は着々と進んでいたのだ。私に知らせるよりも前から。
内装の手配から考えれば、少なくとも2か月は前から計画されていたことになる。
社交季の開始に合わせて離縁を公にし、そのままエルザを正式に迎え入れる──そういう段取りだったのだろう。
「アネッタ。婚姻契約書の原本は、どこに保管されているか知っている?」
「旦那様の書斎の金庫です。ですが、鍵は旦那様がお持ちで──」
「写しなら、ここにあるわ」
私は手帳の最も古い1冊を開き、挟み込んであった数枚の紙を取り出した。
婚姻契約書の写し。
嫁ぐ前に、実家の父が念のためにと用意してくれたものだ。
「万が一のことがあった時のために」と、父は少し気まずそうに言っていた。
(……お父様。あなたの用心深さに、12年越しで救われるとは思いませんでした)
契約書を広げた。
羊皮紙の端は少し黄ばんでいるが、文字ははっきりと読める。
契約書には明確に記されている。
離縁の場合、妻側に過失がない限り、持参金の全額返還に加え、婚姻期間中の貢献に応じた補償金を支払うこと。
妻が領地の管理・運営に直接関与した場合、その実績は「貢献」として評価されること。
そして──「妻の同意なき離縁は無効とする」という一文。
「イルマ様。この条項は……」
「ええ。夫は一方的に離縁を宣告したけれど、私が同意しなければ法的には成立しないの」
アネッタの表情が変わった。
40年仕えた老侍女長の顔に、かすかな希望の色が差した。
「では、同意なさらないのですか?」
「いいえ。私は離縁に同意するわ」
「えっ?」
「ただし、条件がある」
私はこの12年で学んだ。
貴族社会では、正面から戦っても勝てない。
感情をぶつけても、力で押しても、壁は動かない。
必要なのは、相手が退けない条件を整えること。
交渉とは、相手に「承諾するしかない」と思わせる状況を作ることだ。
持参金の返還。
婚姻期間中の領地経営への貢献に見合う補償。
薬草園の管理権。
そして──リタの親権。
「血の繋がりがないからこそ、法に頼るしかないの。でも法に頼るなら、法を味方につける必要がある」
アネッタは静かに頷いた。
その目には、もう迷いがなかった。
「私にできることがあれば、何でもお申しつけください」
「ありがとう。まず、この屋敷の使用人たちの中で、信頼できる人の名前を挙げてほしいの。私が12年間見てきた印象と、あなたの40年の経験を照らし合わせたいの」
◇
翌日から、私は動き始めた。
まず訪ねたのは、屋敷の東棟にある書庫だ。
公爵家の法務記録が保管されている場所で、通常は管財人しか立ち入らない。
埃の積もった棚が天井まで並び、窓からの光が細い筋になって差し込んでいた。
だが、公爵夫人には閲覧の権限がある。
この12年間、一度も使わなかった権限を、今こそ行使する時だ。
棚には、何世代にもわたるヴァイスブルク公爵家の契約書が並んでいる。
領地の売買記録、税の申告書、租税台帳、そして──婚姻と離縁に関する判例。
貴族の離縁には、王立裁判所の承認が必要だ。
一般市民とは異なり、貴族の婚姻は家同士の契約であり、王家の利害にも関わる。
だからこそ、過去の判例が重要になる。どんな条件が認められ、どんな主張が退けられたか。
2時間かけて、関連する判例を5件見つけた。
そのうち3件は、妻側が離縁条件の不当さを訴え、再交渉が認められたケースだった。
(……やはり、前例がある)
特に目を引いたのは、40年前の判例だ。
ある伯爵夫人が、夫の不貞を理由に離縁を申し立て、婚姻期間中に妻が管理した財産の半額を補償金として勝ち取っている。
根拠は「領地管理における妻の実質的貢献」。
私の場合、公爵家の薬草園は私が一から整備したものだ。
荒れ地だった東庭を開墾し、土壌を改良し、苗を育て、今では領地の住民にも薬草を提供している。
病人の看護体制を整え、領民の信頼を得てきたのも、すべて私の仕事だった。
これは「貢献」に当たるはずだ。
「イルマ様、お茶をお持ちしました」
書庫に入ってきたのは、若い侍女のベルタだった。
赤毛の、そばかすのある素朴な顔立ちの娘だ。
アネッタが「信頼できる」と真っ先に名前を挙げた一人だった。
「ベルタ、少し手伝ってもらえる? この棚の記録を、年代順に分類してほしいの」
「はい、もちろんです。……イルマ様」
「なに?」
「お屋敷の皆、イルマ様のお味方です。リタお嬢様を育ててくださったこと、薬草で皆を助けてくださったこと、忘れていません」
その言葉に、不意に目頭が熱くなった。
(……泣くのは、まだ。全部終わってから)
私は12年間、この家に尽くしてきた。
使用人たちの名前を覚え、その家族の事情を気にかけ、病気の者には薬湯を届けた。
厨房の料理番の腰痛にはウィロウバークの湿布を、庭師の手荒れにはカレンデュラの軟膏を作った。
それは打算ではなかった。
目の前に困っている人がいれば、手を差し伸べる──それが私の性分だった。
けれど今、その積み重ねが力になろうとしている。
夫は知らないのだ。
書類の中にある「公爵夫人の権限」が、どれほど広いかを。
そして、使用人たちの心の中にある「イルマ様」が、どれほど大きいかを。
「ベルタ、もう一つお願い。この5件の判例を、明日までに写してほしいの」
ペンを握る手は、もう震えていなかった。
明日、王都にいる実家の兄に手紙を書く。
法務に詳しい知人を紹介してもらうために。
戦いの準備は、静かに、確実に進めなければならない。
なぜなら──夫がこの動きに気づいた時が、本当の勝負の始まりだから。




